フランダースの犬に感動できなかった

「フランダースの犬」の最終回(第52話)にかけての数話を中心に、見ていない人への配慮なしに書いた文章。腑に落ちない。最終回は恐らくもっとも有名なネロとパトラッシュが天使に連れられて空に消えていく場面で終わるがそのシーンを感動的に見ることができなかった。どうして納得がいかないのか、どんな話の流れだったら納得できそうなのかを考えた。

・最終回まで見終わって、フランダースの犬は人に頼れない生活困窮者の自殺の物語だと思った。感動の物語ではないと思う。感情的になって泣くとかではなくもっとどうにかすべきだったと思ってしまった。悲劇として名作なのかな。1人と1匹が死んだことはきっと悲しみをもたらすけれど、死ぬまでの過程に指摘したい部分が多く、ネロを救える手段がたくさんあったはずだと怒るような気持ちで見終えた。
フランダースの犬の最終回周辺を粗くまとめると、生活に困窮し、自分ではどうにもできないからもう死ぬしかないと自ら死に向かったネロと、どこまでもネロと一緒にいようとしたために自殺に巻き込まれたパトラッシュ。ネロは死に向かったし、死もネロを迎え入れた。パトラッシュはネロとずっと一緒にいた。

・フランダースの犬の紹介には「愛犬パトラッシュの賢さと愛らしさに癒される。号泣必至の名作アニメ!」とあるけど、癒されなかった。嫌な人間の嫌さに耐えながら見ていた。前半では金物屋に虐待されるパトラッシュを見るのがつらかった。金物屋にはお金を払い続けなければならないし、ハンスやコゼツはネロを否定したり、悪人に仕立てようとする行動を取り続けるから、見ていて気分が悪くなる場面が多かった。1話見るごとに次の話を見たくなくなって、見進めるのに時間がかかった。次の話を見ないでいても、問題を先送りしているような罪悪感がうっすらとあって、見るのもつらいし見ないのもつらいような状況に何度もなった。ネロとアロアとパトラッシュ、ジョルジュとポール、アンドレなど子どもたちが遊んでいる場面もあるし、優しくしてくれるジェハンじいさん、ヌレットおばさん、ノエルじいさん、ミシェルおじさんなどいい人もいるのだけど、嫌な人たちがずっと嫌だったからもう見たくない。見終えられてよかった。

・パトラッシュが金物屋のところにいたら、劣悪な環境のせいでもっと早くに死を迎えていただろうから、ネロとジェハンじいさんのところに引き取られて楽しい日々を過ごせてよかったとは思うけど、ネロがエリーナの救いの手を拒まなければ暖かく最期を迎えることが出来ただろうとも思ってしまう。パトラッシュはネロによって金物屋の虐待から救われたけれど、ネロのせいで冷たくつらい環境で死んだ。パトラッシュにとって、ネロといっしょに死んだことと、ネロや周囲の人間に看取られて先立つのとどっちがよかっただろう。
ジェハンじいさんがアントワープに行けなくなって以降、いつ金物屋がパトラッシュを奪いに来てしまうかと不安だったけど、それがなかったということはジェハンじいさんは既に支払いを終わらせていたということなのかな。物語のなかで描かれていたかもしれないけれど忘れてしまった。

・ネロが自ら死に向かっていった理由はさまざまあるだろう。隣人に仕事を奪われ、おじいさんが亡くなり、村中の人々から放火の疑いをかけられ、恨まれていることに加えて、最後の望みであった絵がコンクールに落選したことに起因する絶望感。パトラッシュにかける「もう何も残っていない」という台詞。12月の寒さ。

・なぜネロはミシェルやエリーナの助けを受けようとしなかったのか。ミシェルに関してはその救いの手が見えなくなっていたとも考えられるが、エリーナの差し伸べた手はネロが意志をもって拒んでいるように見えた。ひとりで死に向かってしまっているときには周囲の人間のことが思い出せなくなったりすると聞いたことがあるから、ミシェルおじさんが迎えに来てくれる約束を忘れてしまっていることは考えられる。ヌレットおばさんと再会するクリスマスの約束も同じように忘れてしまっている可能性はあるだろう。一方でエリーナが食べ物をあげようとすると断る。アロアを介して渡されたクッキーは受け取って食べたのに、スープやクリスマスのごちそうは食べようとしなかった。その場にはいなかったが、いずれ帰宅するコゼツに会うべきではないという判断だったのかもしれない。ネロとしては、アロアは自分がいると喜んでくれるけれど、コゼツは自分をよく思ってないし、コゼツから一方的に突きつけられたアロアと会わない約束もあったから自分がここにいることは避けようという判断だったのだろうか。その場で救いの手を差し伸べたのが、例えばジョルジュとポールだったら受け入れていたように思う。そうだとすると、ネロはコゼツとハンスから逃げるように死んでいったとも言えるかもしれない。ネロに断られてすんなり受け入れて帰してしまうエリーナの気持ちも複雑だったのだろう。コゼツ家はお金には困っていないし、食べるものに困っているネロに何か食べさせてあげたいけれど、うちの人(コゼツ)はネロを嫌っているし、ネロが死んだジェハンじいさんを想う気持ちを止めてしまうのも申し訳ないし…と思って遠慮する気持ちがはたらいたのかもしれない。
それ以前にも、放火犯と思われているネロに牛乳運びの仕事をもう頼めないと言われたとき、運び賃として差し出された銀貨を受け取らなかったこともあった。このときも明確にネロの意志で断っている。この農家もコゼツを頂点とする村人に言いくるめられてしまっているから、断られた銀貨を押し付けるようにしてまで渡す余裕はなかったのだろう。
受け取る善意と受け取らない善意の区別がわからない。困窮しているから、助けがあるのはありがたいから受け取りたい気持ちもあるけれど、自分はもう大人なんだし、人に頼っていてはいけないんだと思っているのかもしれない。その定まらなさも含めて中途半端な自立を表現しているとも考えられる。

・ネロは自分のことを一人前の大人と同じでなければならないと思っているんだろう。年齢を理由に仕事をもらえないくらいまだ幼いのに。責任感が強すぎる。風車に使う木を、怪我をしたミシェルおじさんに代わって勝手に切ったときも勝手な責任感を感じていたように見えたし、自分はこうでなければならないと思い込みすぎているような気がする。助けてもらわなければ生きていけないような自分は生きていくべきではないとか、役に立たなければ生きていてはいけないとか、人に迷惑をかけて生きていってはいけないと思っていたのだとしたら、自ら死んでいったことにも説明がつく。
「すみませんがよろしくお願いします」とパトラッシュだけでなく、自分についても言えたらよかったのに。さまざまなたらればについて考えてしまう。ミシェルの山小屋へ行くまでの一晩だけでも安全に過ごせたら世界は違っていたのに。もしあの夜を無事に過ごせたら、ネロはどうなっていたんだろう。画家に引き取られていったのかな。コンクールで優勝して、絵を学びたがっていたし。でも亡くなったジェハンじいさんがまだいるような気がする家から離れたがらなかったかもしれない。でもそれだと家賃が払えなくなってしまうし、そこでは生き続けられない。おじいさんがいた記憶や痕跡が残っているあの家への執着が強い。おじいさんとの思い出を捨てられないせいで、自分が生きていくことよりも死に向かうことを選んだのかもしれない。

・ネロの住む村やアントワープには孤児院とかなかったのかな。あったとしてもネロなら断っている可能性もある。ネロだったら断っているかもしれないのが嫌だな。いい子ではあるし、いい子であろうとしているのもわかるけど、見進めていくにつれて自責的だったり自罰的なネロの行為を見るのが嫌になってしまった。自律的であろうとしているのに結果として自罰的になってしまっているような行為。物語だからそこに介入していくこともできず、ただネロが困窮していくのを見るしかできない状況が嫌だった。
ネロは中途半端に独り立ちしていた。周りの大人に対し、自分を大人のように扱ってもらおうとするところは偉かったり、立派だと考えることもできるけれど、その中途半端さに首をしめられていったことがわかっていなかったのかもしれない。周りの大人に対し「僕は大丈夫です」と言い続けて、ひとりで何とかしようとしていくなかでじわじわと生活が続けられなくなくなっていったのに、誰の助けも断った末に「もう何も残っていない」と言うようになったのはなぜか。周囲には助けようとしてくれる人もいたが、その受け取り方がわからなかったのではないか。
いつ、どうやって、どのくらい、助けてほしいと言えばいいのかわからなかったのかもしれない。まだ大丈夫だと思い続けているうちに、取り返しのつかないことになってしまったことも考えられる。人にどうやって頼ったらいいのかわからないうちに死んだという意味でこの物語は悲劇なのかもしれない。

・コゼツやハンスは最終回で改心したように描かれているが、コゼツがネロに許してほしいと請う場面など、自分のために相手に行動してほしいという欲が表れていて何も変わっていないように見えた。ノエルじいさんに自分の非を指摘されたことで反論も出来ず自らの権力や財力などに基づく絶対的な優位性が脅かされたように感じ、不安になっているだけのように見えた。パトラッシュが見つけた2000フランを、家まで届けたネロへの感謝もあるし、ネロの絵の才能を認める画家が現れたことで、ネロを大事にするメリットが生まれたというだけのような気がする。

・ハンスはネロに非をなすりつけ、これまでにネロからさまざまな機会(ex.ネロに似た子を亡くしたお金持ちの奥さんと一緒に教会のルーベンスの絵を見る機会,アロアが乗った船をきちんと見送る機会)を奪っているから、擁護できない(証拠がないじゃないかと追い返すことしかできない)けれど、この悪さはコゼツがハンスの言葉をすぐに信じてしまい、嘘が見抜けなかったせいでもあるため、ハンスの悪さが成立してしまうのはコゼツの責任でもある。
イギリスへ旅立つアロアの荷物を持ってくるのを忘れたハンスが「(忘れた荷物は)ネロに頼んでおいたのに…」と言ったとき、真っ先にネロの責任を問い、コゼツに無断でハンスが荷物を他人に頼んだことへの叱責がなかったことが不思議だった。コゼツは「荷物はすべてお前に頼んでいたのに、他人に任せるとは何事だ」と怒ってもよかったのに、矛先がすべてネロに向かう。嫌っているということはひとつ理由になるけれど、コゼツの疑わなさは不思議だった。

・ネロはいつの間に文字が書けるようになったの?アロアがイギリスにいる間に届いた手紙もおじいさんに読んでもらっていなかったっけ?絵の募集のときも貼り紙に何と書いてあるか他の人に代わりに読んでもらっていたのに。あの遺言書はどうやって書いたのか。

・最後にルーベンスの絵が見られてよかったね、お母さんやジェハンじいさんのいる遠い国へ行けてよかったね、とは思えなかった。仮に天国と地獄があるとして、お母さんとジェハンじいさんが天国にいるとして、自ら死ぬことを選んでいるようなネロが同じように天国に行けるとは思えない。同じところに行けるようなナレーションだったけど、パトラッシュしかジェハンじいさんと再会できないことも考えられる。

・例えば、ネロが老いたパトラッシュをコゼツ家で温かく看取って、もうお母さんもジェハンじいさんもパトラッシュもいないけど、これからも強く生きていくんだという終わり方であってほしかった。フランダースの犬はエンディングが有名で、ネロとパトラッシュが同じ場所で死ぬことは知っていたけれど、こんな終わり方であってほしくなかった。

・ネロとパトラッシュが死んだあと、周囲の人間はどうなっているんだろう。1人と1匹は死んで終わりだけど、ミシェルはもう少し早くこなかったことを悔いるだろうし、ヌレットおばさんは何もできなかったと悲しむだろう。ノエルじいさんは酒を飲みながら、彼らが死んでしまったことを悲しむだろうし、エリーナはコゼツ家を飛び出すネロを引き留めなかったことを悔やんでいそうだ。コゼツやハンスは、ネロが死んだのは自分のせいだと感じて罪悪感に苛まれるんだろうか。最終回の必死さを見ていると恐らくそうだろう。アロアはどうなるんだろう。あのあと雪のなかを生きているのかな。雪が強く降るなか、あのあたりでひとりになっている場面が最後だから、死んで雪に埋もれているか、かなり弱っている状態で発見される可能性も否定できない。そうなったらコゼツやハンスの罪悪感はより強固なものになるだろう。アロアが生きつづけていたとしても、傷を負ったまま生きていくしかないだろう。アロアが死んだり弱っていたとしたら、あの画家がひどく責められるだろうな。ネロは周囲の人間に、これ以上迷惑をかけまいと死んだのかもしれないけど、周囲の人間には後悔と喪失ばかりが残ってしまっているんだろうな。

・福祉と政治の大事さを強く感じた。最終回でネロは文字が書けていたけれど、教育も大事だ。立場が弱い人たちが、自分たちの立場の弱さを仕方ないと受け入れて、強い立場の人たちに抵抗できないでいたことはきっと政治で解決できる問題だし、福祉の支援として孤児院など身寄りのない子どもを受け入れる施設があれば、パトラッシュはどうなるかわからないけどネロは生きていけただろう。ネロに関して言えば、ミシェルおじさんが引き取ろうとしてくれているから他の選択肢だってある。最終回で曖昧になったところだけどネロは文字が読めなかったから、自分を助けてくれる制度が仮にあってもそこにたどり着くのが難しいだろう。そもそも制度すらないかもしれない。教育と福祉と政治でネロが救われる世界であってほしいと思うアニメだった。


【余談】
・ネロとパトラッシュを連れていく天使の飛び方をよく見たら面白かった。羽根をパタパタ動かして飛ぶのかと思っていたが、羽根の動きだけでなく、手を平泳ぎのようにスイスイ動かして泳ぐように飛んでいた。この動きが面白かったせいで、ネロとパトラッシュが死んでいるのに笑ってしまった。もう1回見たい。あんな真剣なシーンなのにあんな飛び方をしているズレみたいなものが面白かった。彼らが死んで笑ってるみたいな見た目になるから、面白くしないでほしかった。

・自分のツイートを見返したら、去年の8月ごろからフランダースの犬を見ていたらしい。全52話、1年かけて完結した物語を10ヶ月ほどかけて見たことになる。つらくて見進められなかった時期を含めてこんなに長くかけたのか…まだ尾を引きそうな嫌さが残っている。残り続けているのは苦しいから早く薄れてほしい。
ハイジ(全52話)を去年の10月から11月にかけて1ヶ月ほどで見ていたらしいことに比べると、すごく長い道のりだった。時期を考えると、フランダースの犬を見始めたけどつらいからハイジを見始めて、ハイジのほうを先に見終わってしまったという流れだと思う。

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