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村上文学の原点

 『文藝春秋』に掲載された「猫を棄てる 父親を語るとき」を読んだとき、村上氏がここまで自らの生い立ちや父親のことを語ったことに驚きました。いままでほとんど語られたことがなかったからです。そして村上氏の父・村上千秋氏と私の父の従軍の経歴が似ていることに驚きました。
 私の父親は大正2年生まれなので村上千秋氏より4歳年上で、宇都宮の陸軍第14師団から満州ハルビンに赴き、戦争末期にビルマへ派遣されています。ビルマはかなり過酷だったようで、3隻の輸送船で日本へ向かったものの、父の船以外の2隻は敵によって撃沈され、命からがらの帰還だったと思われます。
 私は父が40歳のとき、昭和27年に生まれたので、子どものときの風景には戦争の跡がなく、父親からも戦争の話をほとんど聞いたことがありません。しかし当時、父がマラリアの後遺症で年に一度くらい震えが止まらなくなったことを覚えています。母と祖母が押さえつけても布団を跳ねのけてしまうほどの震えでした。戦争の跡は思いのほか近いところにありました。
 父は昭和天皇が崩御された20日後に、奇しくも天皇と同じ病気で後を追うように亡くなりました。75年の生涯、まさに昭和とともに生きた一生でした。20代の後半を戦争に奪われ、それでも戦後40年以上生きました。

僕がこの文章で書きたかったことのひとつは、戦争というものが一人の人間―ごく当たり前の名もなき市民だ―の生き方や精神をどれほど大きく深く変えてしまえるかということだ。そしてその結果、僕がこうしてここにいる。父の運命がほんの僅かでも違う経路を辿っていたなら、僕という人間はそもそも存在していなかったはずだ。

 村上氏は単行本のあとがきにこう書いています。私も父が死んだ年齢に近づいてきて、この文章の意味がよくわかる。私は戦争を知らない世代ですが、戦争を自分に近いところで感じることができる。父が体験した戦争を想像し、その理不尽さを次の世代に伝えていくのが自分たちの責任だと思います。

歴史は過去のものではない。それは意識の内側で、あるいは無意識の内側で、温もりを持つ生きた血となって流れ、次の世代へと否応なく持ち運ばれてゆくものなのだ。そういう意味合いにおいて、ここに書かれているのは個人的な物語であると同時に、僕らの暮らす世界全体を作り上げている大きな物語の一部でもある。ごく微少な一部だが、それでもひとつのかけらであるという事実に間違いはない。

 『文藝春秋』に掲載されたとき、この原稿はノンフィクションの随想だと思いましたが、今回の単行本で改めて読んで、これはひとつの物語、村上文学なのだと気づかされました。雑誌の2段組みのレイアウトと違い、ゆったりとした文字組み、そしてなにより高妍さんのイラストレーションの効果が大きい。雑誌に数点載っていた少年期の村上氏の写真はドキュメンタリー性を高めていましたが、この本では高妍さんの絵になっていて、それがいっそう物語性を高めているように思います。
 猫、父親、戦争、中国…。村上氏の小説にたびたび登場するモチーフの原点がこの本の中にあるような気がします。村上文学の広大な原野。その地中に眠っていた箱が掘り起こされて、封印を解かれた、とでもいえるでしょうか。小さな本ですが、村上氏の小説とともに大切にしたい一冊です。

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