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世界に響く音

 件の話しかけようとした人物は、私とは似ても似つかない姿だった。フードを深く被っていたので顔全体がはっきりと見えたわけではなかった。しかし、私の方を見返すその眼は厳しく、どれほどの悩みと思索の間を往来して生きてきたのであろう、年齢を重ねたその顔には人生の深淵を覗き込んだ者だけがもつ深い皺が幾重にもくっきりと描かれていた。

 ああなんて顔なんだろう。こんな顔に自分はなれるのだろうか。今でもその顔を思い出すとそう思う。その当時の鏡に映る自分の顔は幼くて凡庸で、ただあるがままに若いだけの顔だった。

 街を歩いたり、電車に乗るとあらゆる広告が溢れていた。特に電車の広告。電車の広告を見ることがとても楽しくて好きだった。広告は定期的に変わるので、車両に座ってまずその車両中の広告を全て読破することが楽しみだった。週刊文春とかプレジデントなど買ったこともない雑誌のラインナップだけを毎回読んで、内容を知ったつもりになって随分満足していたものだった。どうしてあんなにビジネス雑誌の中吊りが好きだったんだろう。まあいいや。

 90年代の終わりから2000年代にかけて、エステの広告やアンチエイジングの広告がビジネス広告や英会話教室の広告を上回る勢いで並ぶようになった。写真広告として好きだった iichikoやキリンビールの広告はほとんど見られないようになった。電車の吊革につかまって、「シミ、シワ、さようなら」って書いてある、瑞々しい白いお肌の妙齢の美女が微笑むアンチエイジングの広告をぼんやりと眺めながら、皺ひとつない頭の悪そうな老人にだけはなりたくないなっていう思いがいつも自分の心にこだましていた。政治家の顔はキャリアが増せばそれなりに皺が入って悪人ヅラになっていくが、どちらかといったらそういう顔に憧れていたのは、件の人物と夢の中で出会ったせいであろう。

 それからも時々、その件の人物に会いたくて夢の中で探した。どんな声をしているのだろう、どんな言葉を話すのだろう。目が覚めている時もそのことについて考えるようになった。何か手がかりになることはないだろうか。

 ある日、短大の講義室の窓から外を眺めていた。秋の日の光は金色で世界をとてつもなく優美に見せていた。窓越しに見えるマロニエが亜麻色の髪の毛のように柔らかく、手を伸ばして触れているようにさえ感じられた。しばらくマロニエの並木を見ていると、耳の奥、遠くの方からバッハのバイオリンコンチェルトが流れてきた。ふと、気が付くと講義室には私ひとりとなっていて、辺りを見渡すと講義室はしんと静まり返っていた。もう一度、窓の風景に目をやると、再びバイオリンコンチェルトは流れ出した。曲はただ私の中だけに鳴り響いていた。まるで、亜麻色の髪の毛の誰かがバイオリンを演奏してくれていたかのようだった。

 耳を澄ますこと。自分の外の世界の音と、自分の内に響く音に。

 それからまた少し時が経って、再び件の人物のことを考えていた。夢の中ではもうあれっきり会うことはなかった。手がかりはないだろうか。そう考えて思い出しのが、マロニエの風景とバッハの曲だった。「そういえば、確か目覚める時に何か聞いたな。なんだっけ?」すっかり、広間に響き渡った声のことを私は忘れていた。しばらく考えて思い出した。

 「バベルの図書館。お前はそこで働く。」

 「バベルって、聖書に出てくるバビロンのことだろうか?」家の本棚にあったのは新約聖書だけだった。