note版オンライン絵画講座 ③上手いとか下手とか
①基礎の基礎にて、初心者であるならばまずは技術的な向上を目指すよりも大まかでも良いので目標を決めたらよろしい、という話をしました。そしてここで一つ言っておきたいことがありましたので今回はそれを軸にお話ししたいと思います。
絵が上手い、下手という言葉(初心者向け)
「絵が上手い」「絵が下手」という言葉、幼少期から始まって友人からそして先生、場合によっては親御さんから言われ続け、その判断基準も曖昧なまま大人になり、それでも同じく耳に入ってくる言葉になっていくと思います。
一般的で不可解な言い方だと私は思っています。
それを発する本人もなぜ絵を少し見ただけで反射的に言ってしまっているか、自覚があるかどうか問いただしたくなるくらい、軽はずみな「絵が上手い」「絵が下手」が世界のどこにでも溢れていると言えます。
では、その言葉の真意はどこにあるのかといえば、大体の場合は、どのくらい元の絵や写真を写せているかどうか、という基準によって言われることが多いと思います。
『絵が上手い=原画に似てる』ならば無視して良い
この場合の上手い下手は似てるかそうでないかという基準でしか判断できない、言ってみれば素人に近い感覚の方が絵を評価するための基準として発せられてるのだと考えます。そうであるならそれほど気にする必要はないし、学び続ける方の妨げになるわけでもないし、ほとんど問題はないかと思われます。
それでも、言われた事で「心が傷ついた」などと過敏に反応されている方がたまにいらっしゃいます。
なぜなのでしょうか?
おそらく、目標が曖昧なのではないか?と思います。何かを書き上げる目標、もしくは何かを書き上げるために必要な技能の習得が目標であれば、その道程での技能の質についての問題など些末なことだと考えられますが、その目標に上手か下手かが備わっている場合、ショックを受ける可能性があるのではないか、と考えています。
例えば、上手に人物、風景などの対象物を書きたいなどの質を元にした目標。
こう言った場合、他人からの安易な指摘にも敏感に反応してしまい、余計な負の感情を取り入れてしまうのではないかと思います。
落ち込む先に向上心は芽生えにくいので、できるだけポジティブに鍛錬を積んでいくようお願いしたいところです。
もう一つ、要注意なのは、他人の言う、上手いか下手かというのはそれぞれ発した人間の基準がそれぞれ違うこともよくあるのです。原画に似ているという共通の基準だったとしても、それが形や色、雰囲気など、どう言った要素に対してなのかはっきりしないものだと考えます。
そしてそれらの判断基準では理解が及ばないような技能や、表現が多数存在します。そう言った目に見えるところではない感覚や思考、哲学も目標の中には当然含まれているはずなので、ある意味、呪いのようなこの言葉を間に受けて一喜一憂する必要なんて全くありません。もしもどうしても気になってしまう場合は、目標の再確認をして見ると良いでしょう。
他人の評価が気になるなら目標を再確認しよう
まずは初心者判断での軽はずみな「上手に描く」という目標設定をどうにかした方が良いと思います。このような目標を設定した場合、上手に描けるようになることはまずあり得ません。
目標がしっかりと定められているならば、それを達するまで自分の技量がどのくらいかというのは自分が一番認識できているものだと思いますし、認識して欲しい部分でもあります。少なくとも、絵を描かない他人や、さほど技能を習得できていない人には指摘できるような部分ではありません。
他人にとやかく言われたところで、それが糧になるとはほとんど思えませんし、思う必要もありません。もっと純粋に目標の達成を目指して欲しいものと思います。
それでも上手い、下手、としつこく言ってくる輩がいたらそれはただの妨害行為ですので、それこそ無視してください。目標達成の糧には決してなりません。
目標の再確認のために専門家に質問を
私たちのような講師や先生と言われる立場の方は「上手い」「下手」での判断をしないことの方が多いのです。簡易的に生徒に指摘する場合も、どこが上手くいっているか、どこが上手くいかないかを指摘することの方が多くなります。
それは、総評としての上手か下手かが本人のためにならないのと、大まかな判断をすることが難しいことを知っているからです。
どこかどう上手くいっているか、どの部分に足りない要素があるか、を取り入れていくべきかと思います。
技術力や、経験としての判断力があれば、簡単に「上手」「下手」といった表現は避けて指導すると思います。耳障りのいい、もしくは悪い言い方が、誤解を生むことも知っています。
初心者向けの指導では目標達成に必要な要素を精査し、実践させていくことを指導要領としている講師も少なくありません。むしろ、耳障りのいい言葉での褒め言葉などはモチベーション維持くらいにしか思っていません。意味はそれほどないということです。
目標達成のためのアドバイザーはちゃんとわかっている人を起用した方が良いでしょう。習得効率や精神育成に必要であり、重要な役割を担うと考えられます。
逆に耳障りの良いことしか提唱しない指導者がいるとしたら、それはもう指導者といえない人物です。習う意味はほとんどないと考えられます。
得られる要素は期待するほど多くは無いでしょうから、どうか用心して欲しいものです。
書籍などに見られる、「これをすれば上手く描ける」も、総評としての提案ですので、必ずしも実になるとは限りません。
さて話を少し戻して別の方面へ発展させます。
似せて描くとはなんなのか
一定の支持のあるジャンルで写真のように克明に描く、や、スーパーリアリズムなど、原画に限りなく似せて描くことが前提となった世界について少し考えてみます。
このジャンルについて、私見を述べるにとどまる形となりますので、反論などはコメントにでもしていただけるとありがたく思います。
細密画、スーパーリアル描写の絵画は近現代から顕著に台頭してきた画法なのではないか、と思います。ですが、私の中では芸術性をあまり感じません。何処かにあるであろう芸術性を感じようとしていますが、どうしても大道芸などの娯楽要素多めの絵画、いや、作品だと思っています。アクションペインティングにも似た「行為」としての作品。そんな認識しか育ちません。
結果、素人くさい褒め言葉しか浮かばない。
「上手だなぁ」「リアル」「よく描いてあるなぁ」「写真みたいだなぁ」
この上記以外の感動を得た記憶がほとんどないのです。それでも、高度な技に対する感動を得たのならば、それは充分芸術なのでは?という問いに対し、なんとも、腑に落ちない感が残ってしまうのです。
表現されたその画家や作者の精神が昇華された作品というよりは、いかに元の絵に近づけてあるかを基準として描かれている作品ということになり、(もちろんそれだけでは無いかもしれないが)技術や能力、思想などよりも、似てるかどうかという短絡的な判断にて評価されてしまう少し残念な作品なのでは無いかと考えてしまっています。
しかしごくたまに超細密画に感銘を受けることはあります。
それらはただただ純粋に技術力が高く表情も原画よりも豊かに見えるだけの脚色に富んだ、絵画的芸術性の高さも窺える作品が少なからず存在しています。それらを堪能した時には「上手い」とか「写真みたい」以上の感動をうる場合があります。
しかし、多くの作品、ほとんどの作品は、原画に近いかどうかの模造品であり、感銘を受けるに至らないものです。
しかも、そう言った超細密画は描くためのレシピが存在して、実は他の芸術性高い画法や技能と少しフィールドが違うということもわかっています。
そうなってくると、判断がしづらくなって、結局私でも、「自分には描けないなぁ」くらいしか言えなくなってしまいます。稚拙な褒め言葉だと自覚していても、です。
未だ、そう言った作品を描かれる方の生の意見を聞いたことがないので、今のところこのくらいの判断しかできない、というのが少し歯痒くもあります。
「上手く描こう」は超細密画の入り口か?
簡単に言えば答えは「否」でしょう。
超細密画を目標とした場合は「上手く描こう」程度では決して達成できないと思われるほどの難物とお考えください。簡便な言葉と同様に簡単に達成できるものとは思えません。
写真100%を目指して似せて描く作品では100%を写し切ることは不可能で、おそらく少し完成度は低くなってしまうことでしょう。それは、やはり人間はコピー機にはなれないはずなので、少し劣化したものができてしまうだけと思われます。
そもそも、原画100%を目指す程度ならコピーや写真で十分です。もしも機械的に複製されたとしても100%にはまず届かないと思われます。写真やコピー機だとしてもそれほどの精度はないと言われているからです。鏡ですら100%反射することはできないとも言われています。
100%のクオリティーを目指すためにはそれ相応の技術が必要になると考えられます。そこに克明に描くためのプラスアルファを習得し、空気感を表現できるだけの技術力、思想、こだわりなどあらゆる要素が必要になるものと思われます。
目標として超細密画やスーパーリアリズムを目指す場合、原画や現物の100%を目指すだけでは作品として成立するかどうか判断できませんので、より克明に表す方法や自身の洗練を続けて欲しいと思います。
そして、100%を克明に描き出すことの無意味さに気づいて欲しいと思います。
たとえ技術の進歩が100%のクオリティーを達成したとしても、それは芸術的な分野ではなく、ただの模倣品。「上手い」か「下手」かの基準だけで作られた稚拙なものだと言い換えられるものだと私は考えています。そこに感性を震わせるような感動は呼び起こされないものだと考えています。
個人的にはスーパーリアリズム描写の作品を描きたいとは思わないが、見に行きたい、感じてみたいと思うことは多々ある、大衆的なエンターテインメントでと思います。
もしも目指すという方がいらっしゃいましたら、その時の感情の動きなどをお聞かせ願いたく候。どんなことを思って作品に対峙するのか非常に気になります。
最初の問いに戻りましょうか。
目標の設定をよく考える
初心者の方々は、上手くなりたい、上手く描きたいのようなぼんやりとした目標はできるだけやめておいた方が良いかと存じます。
指導の立場から言えば、教えるのがめちゃくちゃ難しいので。
おひとり様で学ぶ場合はもっと重要なことと思います。
多方面からの無自覚で心ない指摘に蜂の巣にされることもあるかもしれません。
何度だって言いますが、目標をどのように設定するか、むしろ目標を設定せずに突っ走ってみるか、どちらだとしてもある程度の指標が必要ですのでよくお考えになることをお勧めします。
今回はだいぶ長くなりましたがこれで終わりにしたいと思います。
が、最後にもう一つ。
絵が上手い、下手という言葉(上級者向け)
もしも、ある程度描けるようになった時に、一般の方々、あるいは、指導に携わる方に、上手い下手など言われた場合は、真摯に受け止めた方が良いかと思います。
特に同業者じゃ無い場合はかなりしっかりと受け止めなければいけないと考えます。
一般の絵を描かない方々の直感的な目線は侮れないのです。
同業者は工程の複雑さや、習得している技量などが窺い知れる立場なので、ある意味直接的な「上手い下手」発言をしないと考えられます。
ですが、絵は見るだけ、もっと言えば、絵など見ることは稀であろう方々に上手い、下手と言われた場合は、今の状況をよく考え直した方がいいかもしれないタイミングとなるでしょう。
それは表現が成功しているか否かの大切な判断になると思われます。
専門家だけに伝わる表現方法での作品制作でももちろん構いませんが、
おそらく作品を見る大多数は、一般的な方々だと思います。
その方々にちゃんと伝わったか、全く伝わらなかったか、は、その後の制作人生で大変重要になると考えられます。
そのあたりも併せて理解していただければと思います。
それでは、今回はこれまでとします。
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