「死にたい」なんて言っても

結局人望次第なんだ、信じてもらえるかどうかは。
どれだけ周囲から愛されているかで言葉の重みが決まる。
だから、私が「死んでしまいたいほど辛いな」なんていくら口にしてみても、本気にしてはもらえないのは仕方のないことなんだ。

言葉にして、文字にして、体を傷つけても呼吸を止めてみても信じてもらえないことが、悔しい。
だって証明するには死んでみせるしかないのだ。
それができない意気地なしだから、いつも無様に生き延びてしまって、その度に周りに呆れられて、そのうち誰も信じなくなった。

こんなにも痛いのに、苦しいのに、証明できないのなら死んでみせるしかないじゃないか、といつも思う。
そんなくだらないことのために、大切な命を捨ててしまいたくなる。
私の心は誰よりも私が本当だとわかっているのに、誰かに信じてほしいとか、くだらない。もったいない。馬鹿げている。
それでも。
そんなこともまともにわからなくなるほど、死んでしまいたいほど、苦しいんだ。

こんな思い、歌にすらできない。
絵にしたって、歌詞にしたって、言葉にしたって、私にはこの気持ちを形にする才能がなかった。
だからこんな、誰が読むかもわからない独り言に縋り付いている。
私の「死にたい」なんて、たかが数百文字程度の重みしかない。

私がもっと人を愛せたらよかったの?
そうしたら愛してもらえて、言葉を信じてもらえて、命を尊んでもらえて、死にたいなんて言葉も否定してもらえたの?

人は死んだときに美しい物語になるんだ、と私は思う。
誰かの思い出の中で美しいものにかわって、それは傷になって、永遠になって、物語になる。
尤も、なんの物語も持っていない私が死んだってそんな美しいものにはなれないかもしれないが、こうして憂鬱だけを吐き出して息をしているよりは、よほどましかもしれない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?