悪いのは

自分が本当は何をしたくて、何が欲しくて、どんな人間でありたいのか、全部わかれば良いのに。

誰かを救えるような歌が歌いたかった。
その歌がたった一人にでも届くならそれでいいと思っていた。
別に何度も聞いてくれなくたって、私自身のことまで好きにならなくたって、ほんの一瞬、その歌を聴いてくれている間だけでもなにかが満たされたり、癒されたり、救われてくれるなら、十分に報われる。
少なくとも、そういうことを言える人間であれたら良いと思っていた。

でも実際のところは、わかりやすい形で自分の心が満たされる愛情や評価をなるべくたくさん、永続的に、大勢の人から受け取りたいという、所詮はそんなところじゃないのか、私が欲しかったのは。

私の言葉や歌や作った曲を聴いて本当に誰かが救われてくれていたとして、それを確かめることはできない。
目に見える形で、たとえばそういうコメントをもらったとして、それですら安心できないとなれば、「誰かが救われてくれるなら」なんてのは嘘っぱちじゃないか。
そういうことを言っている自分に憧れていただけで、その実、欲しかったのは自分の安心のための評価ではないか。

まあそうだとして、より効率よく多くの評価を得ることを目的とするなら、今のやり方を改めるべきだろう。
だけどそれはしたくなくて、自分の好きな表現だけをひたすら磨きつづけたい、というのが私の信念やプライドなのか、もはやただの捻くれた意地と自意識なのか、それすらもわからなくなってしまった。

思えば、昔から周囲が好んで評価しているものや価値観を理解できず、それを突っぱねて見下してきた。稚拙だと切り捨てていれば自分は安心かもしれないが、本当はずっと引け目を感じてきた。
皆が良いというものを良いと思えない。皆と同じようになにかを楽しめない。皆を理解できないし理解してもらえない。
それが自分のせいだと思うと怖くて、受け入れたくなくて、「皆が私の価値観を理解する能力がないのだ」と周囲のせいにしてしまった。

周囲が私についてこれないのではなく、私が周囲についていけないだけなんだ。
私を受け入れない皆が悪いのではなく、私自身が、人に受け入れてもらえず人を受け入れることのできない人間なんだ。
きっと悪いのは私のほうだ。
ずっとわかっていたはずなのに、認めるのが恐ろしい。

どうすれば皆と同じように笑えるのかわからない。
そしてまた、私が本当にやりたかったことも、欲しかったものも、大事にしていたはずの信念が本物なのかも、今はわからない。

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