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イイカンジの写真を撮るための簡単なトレーニング

うまい写真よりイイカンジの写真!ときおり無性に書きたくなる。世の中にイイカンジの写真がもっといっぱいあふれたらいいのに。

というわけで、ついていけなくなったらそこで読むのをやめてほしい。あなたには別のお手本や先生がいると思うから。船頭多いと船は山に登っちゃう。

まず、世の中の写真には2通り「うまい写真」と「イイカンジの写真」があるのよね。

うまい写真は文字通り、写真を見た瞬間(うまい写真だなあ)と思う写真。写真を学びたいと思う人が最初にめざすゴール。(こんな写真が撮れたらいいな)ほぼ全員「写真がうまくなりたいんです」最初に言ってくる。

それって全然悪いことじゃない。だって世の中の目に触れる写真のほとんどは「うまい写真」(うまく見える写真)で、それらは十中八九なんらかの目的で撮られた広告写真だから。(あ、僕は目次作ったり大切なところを太字にしたりしません。文章読むのに自分の頭を使える人が、写真を撮るにも大切だと思うので)

駅の看板も雑誌もSNSに流れる写真もほぼ広告写真。「誰かが何かを伝えたいと思ってる写真」それは写真の本質だけど、広告写真はそこがぶれて伝わると効果が半減してしまう。「スッキリ」「気持ちイイ」「たいへんお得です」「こんなに大きい」「こんなに近い」「きれいでしょ」狙ったポイントが重点的に伝わるように見せる。「盛る」という言葉もまあまあ近い。

イイカンジの写真は、ちょっとちがう。

そもそも撮るときに、誰かに何かを伝えようとあまり思って撮ってない。「なんとなく」それが撮る最大の理由だったりする。もう一度言う。「なんとなく気になったから」だれか隣にいたら(なんでこんなもの撮るの?)と言われるかもしれない。

じゃあなぜ撮るのか。「なんとなく気になった」光景の記録。気になった対象物もそうだけど、今日ここで出会ってなんとなく気になった自分の心の揺れの記録。書くとめんどくさいけどあえて言葉にするとそうなる。

ほら、日記を書くときカッコつけたり盛ったりしないじゃん。今日あった印象的なことを書くでしょ。あんな感じをカメラでやるの。誰に見せるためでもない、はっと気になった瞬間、立ち止まって撮る。こういった日々の記録写真を短く「日録写真」って言うんだけどね。

そのなかにイイカンジの写真が混じってくる。

そこに居たら誰だって撮れそうな、なにげない写真。なのになぜだろう、さっきからずっとその写真の前から離れられない。なぜか立ち去りがたい。そんな経験ないだろうか。ん、無きゃ無いでいいよ。うまい写真をめざし続けたらいい。きっと今そんな時期だと思うから。

「写真がうまくなりたい」そう思ってたくさん撮って、本も読んでほかの人の写真も見て、テクニックをたくさん身につけて。コンテストに入選するようになって周囲から「写真うまいね」と誉められて。どんな風景を見てもどう撮れば良いか瞬間でわかるようになって。

でも。どうしても金賞が獲れない。何を撮ってもうまい写真に撮れるんだけど、だんだんつまらなくなって、そのうち少し飽きてくる。

そんなとき。写真を始めたばかりの人の作品を見て衝撃を受ける。ピントも露出も「なっちゃない」水平線は傾いてるし、黄金比とか知らないまま、ど真ん中に入れて撮る日の丸構図。初心者まるだし写真なのに、なぜか気になる。見る人の胸を打つ。ぜんぜんうまくないのにイイカンジ。なんなんだ!?

想像してみてほしい。子供が生まれたカメラマンのご主人。お父さんになって連日撮りまくり。張りきって気合いが入る。まるでベビー服かベビー用品の宣伝写真に使えそうな、うまい写真がたくさん。

ところが奥さんのほうは、あまり撮らない。寝てる赤ちゃんを目を細めてじーっと見てる。見る時間がとても長い。で、最後にちょろっと数枚撮る。ちっちゃな足だったり手だったり。アップで撮る。近すぎてピントが合わなくても気にしない。ぼけても見ている部分を大きく撮りたいらしい。

なんとなく想像できた?ご主人が撮った写真は当然うまい写真なんだけど、イイカンジが伝わるのは奥さんが撮った写真のほう。写真を見る人に、お母さんのやさしいまなざしが伝わってくるのよね。

ここまで読んで下さった方に、うまい写真とイイカンジの写真共通の「写真を撮るときの極意」をお知らせしましょう。

①写真は「いつ」「だれが」「なにを」「どのように」撮っても自由。そこにブレーキをかけているのは他ならぬ自分自身。

②しっかり視る。見るや観るではなく「視る」四隅までしっかり。写った全てに責任を持つ。視てるつもりで見てない人がものすごく多い。

③撮影技術や技法は「どこになにをどれだけ使うか」が重要だけど、それより「どこになにをどれだけ使わないか」が大切。

④テクニックは写真の表面に見えちゃダメ。技術は奥で支える。相手に見えるのは「あなたのまなざし」あなたの表現。

見せたいのはあなたの写真の腕前じゃないでしょ。それとも誉めらて承認欲求満たしたい?そういう時期があってもいいけど、それだと周囲だけでなくあなた自身もすぐ飽きちゃうよ。「うまい写真ですね〜」と誉められたら「しまった」と思わなくちゃ。

だって見てほしいのは、あなたの心が揺れた瞬間で、できることなら写真を見て同じように感じて共感してほしいじゃない?

はっと気になったら撮る。毎日最低1枚。1日も欠かさず10年撮り続けたら写真家になれる。写真学校で言われて「まさか」と思ったけど実際なっちゃったもんね。ん十年それで飯食ってるし。

写真を見せるとき「ことば補整」をしない。言葉を添えると「こういう意図で撮りましたのでそのようにごらんください」というメッセージになる。写真を見るときの「正解」ができてしまうと、想像して楽しむことが無くなる。自由な写真鑑賞ではなく作者の意図を当てる「当てっこゲーム」になってしまう。日本人そういうのが得意だけど、自由に感じてもらいたいと思ったら文字は添えない。タイトルも添えない。

写真を見るのにヒントになるような言葉を一切排除して、ただ日付だけ。組写真や群写真にして説明しない。たくさん撮っても1日1枚。

この「1枚を選ぶ」という作業が撮影技術を向上させる。

後処理は自分が出会った光景そのまま「見た感じのまま」になるように修整や補整する。ここでわかってほしい気持ちが強すぎると、説明調の画面になってしまう。

もう一度確認しよう。あなたは何を伝えたいの?あなたの写真の腕前じゃないよね。

あなたが出会って、見た感じのままの光景を、ぽっ、とネットに放流する。一見なんでもない、ごく普通の、なんのために撮られたのかわからない写真。

多くの人は見過ごすかもしれない。けれどその中で何人か「すごく『わかります!』」と感想を寄せてくれる。この場合の『わかる』は頭で理解することじゃなく、五感で全身で感じてくれている。

そんな人がたった1人でもいい。いつか突然現れて、あなたは半信半疑で、しかし確実に「写真を続けてきてよかった」と思う。そんな日がきっと来る。

あなたらしい、あなたしか撮れない写真。そのときあなたはきっと気付かない。けれど周囲の人はみんな「あなたらしい写真」と感じてくれる。意識せずそういう写真が撮れるようになっている。いや意識しないからこそ撮れる。もうテクニックとか主題と背景とか何も考えない。はっと気になってカメラを向ければ、あなたの写真世界が広がる。

あなたが写真展を見に行く。ある写真で立ち止まる。見ているあなたの目の前に、あたかもその光景が広がってるような気分になる。そのときあなたは撮影者のまなざしを共有して、その写真を撮った瞬間の撮影者の気分を共有、共感する。

どんな写真にも、その写真を撮った「こちら側」が存在する。画面には写っていない「こちら側」撮影者のまなざしを共有できるのが写真鑑賞の特徴。あなたが撮った写真のすべてにあなたのまなざしが含まれる。そういう意味では、何を撮ってもあなたが写っているセルフポートレートと言えるでしょう。

逆に広告写真では撮影者の気配を消す必要がありますが、それはまた別の話。

2022.11.27