「質問はある人いますか?」という問いかけ
この記事は2023/02/17に配信を行なったメルマガの転載です。
皆さん、こんにちは。エスノグラファーの神谷俊です。
先日は、バレンタインデーでしたね。我が家では、前夜から家族たちが何やらコソコソとしておりました。
見て見ぬふりをしていたところ、娘から「明日のバレンタインはクランキーチョコを作ったんだけど、これは“サプライズ“だからちゃんと驚いてね」と告げられました。全てのイベントの主役が子供になる我が家です。皆さんはどのように過ごされましたでしょうか。
さて今回のメルマガのテーマは、「質問ある人いますか?」という呼びかけについてです。
誰かが話したあと、参加者に呼びかけられるあのセリフについて考えます。
■「質問ありますか?」が苦手です。
講演や研修の場で、進行役の方が「質問ある人いますか?」と問いかける場面を見かけた方は多いと思います。私は、講演者としてその場面を目にすることが多いのですが、なんとも複雑な気持ちになるんですよね。
誰かが「質問ありますか?」と尋ねる。すると一旦、静かな空気が流れます。
その後「重さ」をまとった空気が場を覆い始める。ドキドキする私。
やがて、その「重さ」に耐え切れなくなったかのように「じゃあ、いいですか?」と参加者が挙手をして質問がでてくる。この一連の流れにいつも馴染めずにいます。
質問を出させようとする進行役。質問を出すことに懸命になる聴衆。
なんだか緊張感と不毛さを感じて「質問に限らず、もっと自由にディスカッションしましょうか」と言いたくなってしまうのは私だけでしょうか。
■「質問しなくてはいけない」は教室ディスコースの影響か。
どうしてこのような空気感が生まれるか、考えてみました。
思うに、初等教育で訓練された一連の“教室ディスコース“の名残ではと思います。
教室ディスコースとは、授業中に教室内で交わされることが明示的・暗黙的に定められている一連のコミュニケーションにおける決まり事のことです。
たとえば、以下のような 1 ~ 6 のコミュニケーションセットです。
先生が、挙手をしている生徒の中から発表者を指名する。
指名された発表者は返事をして、発表をする。
先生が、発表者の意見に対して質問を募る。
質問者は、挙手をして指名されたら質問を述べる。
先生は、発表者に問いかけ、返答を促す。
私たちは、このようなディスコースを躾けられてきたはずです。
教室ディスコースを適切に読み取り、それに適応して初めて「教室」という場は成り立ちます。これを乱すことは、教室の運営を著しく停滞させるため、極力回避すべきものとして暗黙的に教えられてきました。
いま思えば「トイレに行きたいです」や「教科書を忘れました」といった重要なことは、積極的に発言すべきことなのではと思うのですが、小学生の頃は教室を支配する空気を壊してしまう気がして、大っぴらに発言することをためらっていたような気がします。
「質問はありますか?」から始まる一連のプロセスは、この教室ディスコースが、大人になった今も継続的に利用されているということなのでしょうか。
「先生に教えてもらったら質問する」
「質問をすることで先生の話を聞いていたことが証明される」
質問しなければ、場が停滞してしまう。そんな暗黙的なプレッシャーが参加者に挙手を促すのかもしれません。
■大人たちは「教室」にいるのか?
さてここで考えたいことは、教室ディスコースの必要性についてです。
前提として、教室ディスコースは認知能力・言語能力・社会性の発達過程にある子供たちのために構成されるものです。例えば、以下のような機能を持っています。
自由気ままな“おしゃべり“を抑制する。
言語能力が不足していても、コミュニケーションに参加できる。
子供たちが集団コミュニケーションを理解し、社会性を身に着ける。
では、このようなディスコースを大人たちにも適用するべきでしょうか。
限られた時間でより良い学習を生み出すならば、より良い問いかけはあるのかもしれません。とくに「質問を考える」というのはかなり難度の高いプロセスです。
それを終了直後に即時リクエストするのは、かえって表層的な(本当に訊きたいこととは異なる)質問を出させることにつながってしまうのではと感じます。
いま何を思っていますか?
どんなことを感じましたか?
この話で、どのような場面を思い出しましたか?
さらに深めたいポイントはどこでしたか?
QとAだけで終わってしまわないような問いがあったらいいなと思います。「教室」を抜け出して、より自由な対話から学び合いたいですね。
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