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風景と私(2)イサム・ノグチは目を閉じた

車の免許を取り、初めてひとりでドライブに出た時のことは忘れられない。電車やバスとは異なり、自分の行きたいところへ行ける。自転車とは異なり、どこまでも行ける。

目に映る家屋は、背後に吹き飛んでいく。そこには私と同じ重さの命があり、悲喜こもごもがある。それが瞬時に視界から消え、新しい家屋が現れては消えていく。繰り返すほどに私の濃度は薄まっていき、心の安定に大きく寄与した。自分は何十億分の一の存在に過ぎない。重大に考えていた自分の何十億倍が存在する。

しかし、新鮮な感覚はいつしか鈍り、むしろ風景が自分をむしばんでいる感覚に襲われる。

彫刻家のイサム・ノグチは、香川県牟礼町にアトリエを構え、石彫に取り組んだ。車で高松まで送ってもらう際、街中に入ると彼は目を閉じたという。大型店舗や原色の看板、街の喧騒を見たくなかったからである。

彼は、女優の山口淑子と結婚したが、後に離婚した。その原因かどうか定かではないが、純粋な日本を重んじる彼は、妻がゴム草履を履いているのを怒った、と聞いた記憶がある。

日本人の父とアメリカ人の母の間に生まれ、アメリカ国籍である彼にとってはなおさらのこと、古き良き日本文化を愛してやまなかったのだろうか。「美しき日本の残像」を著したアレックス・カーにも、同様の傾向が見て取れる。

行き過ぎた価値観だと言いたくもなるが、それを言わせるのは私の理性に過ぎず、つまりは、彼の感覚がわからないでもない。

イサム・ノグチのような芸術家、建築家、ランドスケープ・デザイナーが景観条例の有識者会議の委員に就任すれば、風景は変わるだろうか。私にとっての風景は、変わらない。

風景は目的や手段ではなく、結果だからである。

貧困や戦争、激動の時代をくぐり抜け、子どもや孫には不自由な思いをさせたくないと働き、教育を授け、より良い社会の実現に努め、その結果が現在の風景であるならば、それは現時点での最高傑作である。その風景が、イサム・ノグチや私をむしばむ。

私にとっての素晴らしい風景を求めて、ユートピアを探すしかない。でも、ユートピアは存在するだろうか。

私が変わるしかない。でも、私は変わるだろうか。


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