第十一回 amazarashiと哲学

こんにちは、筋肉んです。

今回解説するのは「アダプテッド」です。
この曲の歌詞はかなり詩的な部分が多く、自分なりの解釈を見つけるのにかなり苦労しました。
僕はこの曲の大まかなコンセプトを青春時代の美しい思い出達に囚われた人たちの歌、と感じました。
詳しくは歌詞ごとに見ていきます。

まずこの曲の題名でもある「アダプテッド」これは英語だと思うのですが、英語でアダプトって二種類あるんですよね。
それはadaptとadoptでどちらも日本語で無理やり発音するとアダプトなのでかなり悩みました。adoptの意味が採用、adaptの意味が適応なので、今回はadaptの方で考えていきたいと思います。

この曲の歌詞は基本脈絡がなく、子音が揃えられた単語の羅列が多いです。
この文体は詩によく見られ、漢文などの七言律詩や五言絶句などは聞いたことあると言う方もいらしゃるかもしれません。
哲学と詩はかなり密接な関係にあるとされていて、ハイデガーは晩年、言葉の本質を探るため詩を書いていたと言われています。
この一見脈絡のないように思えるコンテクストも、自分の無意識からくる純粋な言葉としての「コード化無き言葉」と捉えると納得いく部分も出てきます。

また、コンテクスト自体も遠目で眺めていると一応の一貫性も見えてきます。
Aメロでは、「麦わら帽子かけた軽トラ」「出会いと別れ切りそびれ」「患った不治の病、青春」など、かなり所謂「青春」を想起させる歌詞が出てきます。

そして問題のサビ、「森の呼ぶ声を聞いた、僕は死んだ 真夏にあの子を抱いた一夜」「世界に二人だけ、観念だけになって口角をあげた夏 絶唱、絶唱」
ぱっと見では全く意味がわからない文章ですが自分なりに哲学的意味をつけるとするならこうなります。
まず聞いてると耳に飛び込んでくる衝撃的な歌詞である「僕は死んだ」ですが、これはバタイユの言う「死の克服」なのではないかと思いました。
「死の克服」とは人生においての大きな目標を達成したとき、人は自分の死生観が究極に薄まり、どうでもよくなる、死んでも死ななくても良いという気持ちになるという過程です。
つまり夏、自然豊かで木々が茂る旅行先、あの子と過ごした一夜があまりにも最高すぎて「死の克服」を達成した、という解釈です。
また「観念だけになって口角を上げた夏」という歌詞は、あの夏から数年経ち、思い返すとにやけてくる、という歌詞だと考えました。
観念とは物質的でない、形而上学的な、物事に対する意識内容といった意味です。つまり、観念だけになったということは、思い出としてしかその頃を感じることができなくなったということ状態なのです。
それを考えると、「口角を上げた」というのも思い出し笑い、あの頃は楽しかったという感傷なのではないでしょうか。

Bメロでは一転して青春を終え、社会人としての苦悩や苦痛が描かれているように思えます。
「社用車で昼食、ついぞ嘔吐」「夢違え」「死ぬには広すぎる海底では漂っている、ただ酔っている」などに見られると思います。

そしてCメロ、この曲の風呂敷をたたみにかかります。
「あなたがいれば死んでもいいか、死んだらどうか、相談しようそうしよう」
ここまであの子との二人だけの世界を歌い続けたこの曲ですが、あなたがいれば死んでもいいという彼が本当に死んでしまえば、相談する相手すらいない。
結局人間は、社会と関わらず閉じこもってばかりはいられないということなのではないか、僕はそう考えました。

ここまで読んでいただきありがとうございました。今回の曲はかなり解釈が難しくて、頭を捻りに捻った結果、かなりこじつけでは?という内容になってしまいました。ぼちぼち更新していければなと思います。

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