すべて自己責任という社会は優しくない「ディスタンクシオン」
1.はじめに
他者を理解する、変えるということはできると言い切れるでしょうか? それができると言ってしまうのは、少しおこがましいのではと思います。
しかし、人をある方向に導くために、効果的な行動を取る助けとなる考え方はあるのかもしれません。
ピエール・ブルデューの「ディスタンクシオン」という社会学の本から、感じたことを書いていきます。
以下は、略歴ですが「ザ・普通」なので読み飛ばして構いません。
2.人を理解する上で大事なこと
人によっては自分の生い立ちを後悔している人もいるかと思いますが、それ自体は自責と他責どっちって話でもないのかもしれません。
ブルデューは現在わたしたちが楽しんでいる趣味・趣向、就きたい仕事、パートナーの好みなど、すべてハビトゥス(傾向性)に左右されていると言ってます。
また、「日常生活の認知、評価、行為」をプラクティス(または慣習的行為)と呼びました。プラクティスとは、日常生活における立ち振る舞い、会話、食事、政治的判断といったあらゆる領域で人が慣習的におこなっている認知、評価、行為を包括する概念といえます。
そのプラクティスを方向付ける性向のシステムをハビトゥス(傾向性)と定義しています。そして、ハビトゥス(傾向性)は①過去の蓄積と、②無意識的な実践の積み重ねによって形成されると説いています。
というところから、目的と手段は自然発生する訳ではなく、その積み重ねで形成された人格によって選ばれるものであるということになります。以下は社会的階級によって、どんな趣向になるかを表したもの
おおよそ同じ階級の人たちは、趣向が似通ってくるというのは、直感的になんとなく分かる気がしました。
3.自分の可能性に気付いて、より善く生きる
不良がよく言うセリフは、「おれたちは他人が敷いたレールに乗らねぇ」みたいなことですが、それは学校教育というところに問題があるのではということを示唆しています。
勉強する態度や適正というものは、生まれ育った環境によって決まり、じっと座って勉強し続けるというのは誰もができることではないということです。そして、勉強できない子というレッテルが貼られてしまう。
そもそも義務教育は、階級的シャッフルを目的としていたらしいですが、恣意的な分類により階級格差(学歴資本)をより際立たせるようなものにもなってしまっています。格差の再生産
そして、それによって生じた格差は自然に受け入れられ、今後の判断などにも影響してきます。これによって、自分から進んで不利な立場に入っていくということになってしまう訳ですね。
自分の一部として、組み込まれてしまった洗脳を解くのは容易ではないと思います。しかし、他人を理解しようとする過程で、自分の可能性に気付いていき、より善く生きようとできるのも人間ではないでしょうか。
↓の本は、イギリスの中等学校を卒業し、すぐに就職する労働階級の生徒のなかで、「荒れている」「落ちこぼれ」の少年たちが、どんな背景でそう至ったか、社会体制の問題について書かれています。
↓ 原則は人を理解してから理解される
この記事が参加している募集
サポートいただいたお金は、サラミ研究所の活動資金とさせていただき、あなたとともにnoteを盛り上げていきたいです😊