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増川宏一(2021)『〈大橋家文書〉の研究』法政大学出版局

 非常に興味深く、参考になった。
 以下、本書にて明らかになった新事実、誤りと思われる点、補足、考察など。

 P51
 1802年に大橋英長の名で出された転居届が引用されている。
 英長の生年は確かでないが、このとき十代半ばと推察され、父である宗英(大橋分家六代目当主)も存命である。二年後に大橋分家の七代目として御城将棋に上がる英長がひとり家を出るのも妙だ。
 この時に家を出たのは英長ではなく、その兄である魚太郎(後述)だったのではないかと思う。

 P58
 大橋分家の五代目宗順の出した隠居願いが引用されている。
 この届には宗順が48歳、宗英が31歳と書かれているが、ふたりの生年は宗順が1733年、宗英が1756年なので計算が合わない。宗英の生年を1746年とする説もあるが、それを採用しても計算が合わないのは同じである。
 この文書には寛政六年(1794年)十月と日付されているが、著者が(原文ママ)と付しているように、誤りである可能性が高い。
 実際は、天明六年(1786年)に出された届ではなかろうか。この年から宗順が御城将棋に上がっておらず、また宗英も同年では31歳なので辻褄が合う。その場合、宗順は54歳だ。
 が、届の中身を見ると、宗順が明和二年(1765年)から二十五年間勤めを果たしたというようなことが書いてある。それを信用するなら、この届が出されたのは、寛政二年(1790年)となる。

 P62
 惣領の魚太郎を除き、次男の英長を後継としたい、という届が引用されている。
 魚太郎は大橋分家六代目宗英の長男で、僕は彼の存在をまったく知らずに「桎梏の雪」という同年代を舞台にした小説を書いた。
 届にて魚太郎を家業不得手、英長を見込みありとしているが、はっきり言って英長も将棋指しとしては凡庸だった。この英長と比べても劣っていたというのは、非才というよりそもそも将棋を仕込んでいなかったのかもしれない。
 魚太郎という俗っぽい名からも、彼が大橋分家を継がないことは生まれたときからの規定路線だったのではないかと推測できる。
 これはすなわち、魚太郎の父である宗英もまた、分家を継ぐ人材とはみなされておらず、軽んじられていたということでもある。
 宗英は幼名を七太郎といい、妾腹であったため里子に出され、その後十代半ばで家に呼び戻された。棋才を見込まれたから、というのが通説だが、分家の当主・宗順(いうまでもなく宗英の実父)が正妻との間に子ができなかった、あるいは育たなかったので、仕方なく宗英を呼び戻したというのが真相ではなかろうか。あまり期待もされておらず、どうしても分家に後継ぎが立たなかった場合の保険という立場だったのだろう。根拠として、家に戻ってからも宗英は家元の棋士とは対局せず、在野の強豪とばかり指していた。二十三で御城将棋に初勤した際の三段という段位も、実力からして不当に低い。
 宗英はのちに名人となり、歴代最強とまで称される人なので、(上記の仮説が正しいとすれば)彼を冷遇した大橋分家はまったく見る目がなかった。
 魚太郎の生年は不明だが、父宗英が頭角を現すよりも前、遅くとも安永九年(1780年)には生まれていたのではないだろうか。たとえば安永七年、つまり宗英の御城将棋デビュー年だ。魚太郎が生まれたお祝いに御城将棋に上げてもらった、というのはちょっとありえそうではないか?
 いろいろ、妄想のはかどる人物である。

 P62~63
 大橋分家が長男を除いて次男の鐐英を後継としたい、という届が引用されている。
 この届を出した宗与が何代目かは記されていない。もし七代目なら、拙作「桎梏の雪」の主人公であり、上で何度か名が出ている英長のことだ。とすると、僕は作中で鐐英を長男としているので、誤りであったことになる。
 が、この宗与は三代目ないし四代目の可能性もある。というのも、この届は「伊藤宗看、大橋宗桂、大橋宗寿」の連名で出されているからだ。最後の宗寿は、のちの八代宗桂だと思われるが、だとしたら七代宗与より三世代前の人である。
 七代宗与の時代(文政年間?)にも宗寿という人がいてややこしいのだが、こちらは伊藤家の七代目を継いでいる。なので、この届は享保のころに出されたものと考えるのが自然だと思う。

 P68~69
 大橋宗英の書いた由緒書が引用されている。
 本書ではこれを宗英自身の由緒書で、二十五石扶持をいただきたいという嘆願としているが、これは誤りだと思われる。
 正しくは、大橋本家に養子に入った宗銀の由緒書で、彼に十人扶持を賜りたいという嘆願である。これを名人であった宗英が書いたということ。
 著者の増川氏は病室で本書を執筆されたそうで、持ち込める資料に制約があったのかもしれない。

 P69~75
 九世名人以降に将棋家が公儀に提出した由緒書を引用し、その内容の嘘を指摘している。
 このころから将棋家は由緒書に嘘を盛り込み、待遇の格上げを画策していたという。著者はこれを将棋家が碁家と示し合わせて主張したとし、その理由を「寛政の改革により将棋家取り潰しの噂が流れたから」と推察している。
 それもあるかもしれないが、碁家はこれに関わっておらず、将棋家が自分たちの格上げを求めていたというのが僕の見解だ。もとより将棋家は、碁家と同格の扱いを希望していた。
 将棋家は柳営において碁家より格下で、碁家と会した時の席次は一位が碁の名人、二位が将棋の名人、三位以下は家督の相続順だったそうだ。これだけならまだしも、碁の名人が不在の場合には、将棋の名人ではなく本因坊家の当主が一位に繰り上げとなる。つまり、将棋の名人が、碁家の一当主の下に座すことが起こりうる。
 そして、この屈辱的な状況は由緒書に嘘が盛られ始める少し前、八世名人の代に現実となった。これを耐えがたく感じ、将棋家は待遇格上げに本腰となった、とは考えられないか。
 とはいえ、幕末~維新の頃になると、碁将棋家が結託して待遇格上げを嘆願しているので、将棋家が取り潰しの危機にあったという増川氏の説も高い信ぴょう性を持つものである。

 P84-
 明和元年(1764年)に出された将棋家の由来書が引用されている。
 大橋宗桂、伊藤宗印、大橋宗寿の三名の名で出されている。
 伊藤宗印は伊藤家の五代目として、大橋の二名はそれぞれ本家の九代目、八代目であろうか(分家の者の名がないのは、この年に四代目が亡くなり、五代目への引継ぎが上手く行われなかったためだと思われる)。
 とはいえ、この時代には大橋本家は八代目が宗桂を名乗り、九代目は幼名の印寿を名乗っていた。この連名では逆に、九代目が宗桂を名乗り、八代目が幼名の宗寿を名乗っている。理由は謎。もしかすると、最後の大橋宗寿は分家の宗順のことか。しかし、音は似ていても字は全然違うので、書き間違えるとは思えない。
 それにしても、引用されている由来書でわざわざ「六世名人のころに名人相続で問題が生じた」と特記しているのが興味深い。六世名人は修業時代には上手の宗桂に対して手合いの変更を求めたり(いうまでもなく無礼)、御城将棋を無断欠勤したり、名人になるやあからさまに自分の子を贔屓するなど、ちょっと問題の多い人であった。

 P129-
 明和五年(1768年)の御城碁・将棋の手合いが引用されている。
 著者は手合い中の大橋宗順について、若輩で正規の御城対局に出仕できる身分ではなかったと解説しているが、宗順はこの三年前の明和二年から御城将棋に上がっている。また、このときの宗順の年齢は36歳で、身分も大橋分家の当主である。P133にて、宗順の名を宗英の下に書いていることから、親子を逆に混同している可能性ありか(宗順は宗英の父)。

 P137-
 奥御用に際して、将棋家が書いた起請文が引用されている。
 P138に『大橋本家九代目大橋宗寿』とあるが、おそらく印寿の間違い。
 奥御用は十代将軍家治への将棋個人指導で、月に三~四回の頻度であったという。
 『俊明院御殿実紀』には伊藤宗印、宗看、大橋宗桂が将軍の指導にあたったと書くが、棋譜が残っているのは伊藤宗印と看寿のもの。これは本書では触れられていない。
 P142に、明和五年(1785年)に家治が八段に昇段したことが、根拠付きで書かれている。他の資料では家治は七段となっているので、これは興味深い新事実である(拙作「桎梏の雪」でも家治の棋力は七段とした)。

 P143
 将棋家の者が寺社奉行から「公方様の喪に服すため月代を剃ることを停止」と申し渡されている。
 将棋家の当主ならびに後継はもとより剃髪しているものと思っていた。そうではなく、将棋家の者は正式な行事のみ剃髪して臨み、それ以外の時には髪を伸ばしていたのだろうか。
 御城将棋の時だけ剃髪するとしても、一年に一回の頻度。髷を結えるまで髪が伸びるわけもなく、年中格好のつかない頭で過ごすことになる。月代を剃るなというのは、慣用句として用いられただけの可能性が高いか。

 P149
 文政元年(1818年)時点の大橋本家拝領地の図が掲載されている。
 将棋家は拝領地に長屋を建てて人に貸し、その家賃収入で暮らしていたという。拝領地に自邸を立てたり、庭を整えることもしなかったそうだ。
 大橋本家は町会所から二百六十五両を一年の期限で借りている(けっこう無茶な借り方に思う。翌年には三百両を5年返済で借りているので、この借金は失敗だったのかもしれない)。添付図の家賃収入は全部の家に借り手がついても七両ほど。月々の返済が二十五両として、それが五両ほど不足していたそうなので、家賃のほかに十三両ほどの収入があったと思われる。弟子への指導料や免状の発行といった「本業」は大した稼ぎにならず、将棋家の収入は大半が不動産運用に依存していたと本書には書かれているが、ここは全面的には同意しがたい。拝領地の運用が大きな収入源であったことは間違いないだろうが、本業の稼ぎもそれなりにはあったのではなかろうか。
 大橋本家以外が同じように拝領地を活用して家賃収入を得ていたのかは定かでない。やっていた、と考えるのが自然だが、伊藤家や分家は本家ほど頻繁に転居を繰り返していないので、本家ほど大きな運用はしていなかったと見る。とすると、将棋家全体としての出費(徳川家の冠婚葬祭など)は、大橋家が一括して担当していたのかもしれない。
 僕は「桎梏の雪」にて、思いっきり大橋本家の庭の様子を書いている。実は大橋家が拝領地を人に貸し、自分たちは長屋を借りていたというのは知っていたのだが、見栄えが悪いので敢えて無視した。よくないね、そういうの。

 P166
 九代目宗桂が記した天明八年(1788年)六月~七月の日記を引用している。
 九代宗桂を『伊藤家から大橋本家に養子に入った者』としているが、これは誤り。伊藤家から養子として本家に迎えられたのは、九代宗桂の父である。
 また、『亀之助は後に三代(原文ママ)宗看を名乗る当主の幼名かもしれない』とあるが、宗看(六代の間違いであろう)の幼名は松田印嘉であり、すでに宗看を名乗っていた。亀之助が誰なのかは不明。
 日記では連日門下生が宗桂を訪ねている。将棋の指導料は、『将棋営中日記』に毛塚源助という商人が一番につき金一疋(十~十五文)払ったという記述があるのだが、安すぎるので誤りの可能性が高い。

 P171-
 大橋本家内における什物備品受け渡しの明細が引用されている。
 何代目か不明とされているが、受取人が宗寿であるため、七代目から八代目への受け渡しと思われる。

 P185
 天野宗歩の死について、病死というのは表向きで、実際は喧嘩か恨みを持つ者に斬られたかして死んだ、というふうな推察が書かれている。これについては根拠が添えられていない。
 外聞が悪いから実際の死因を隠した、というのはありえる話だが、宗歩は三千人も弟子がいたというくらい有名人である。もし彼の死が他殺であったなら、それを隠し通すのは難しいように思う。また、将棋家はこの三十年前に「伊藤家後継の看佐が借金を苦に縊死した」という、もっと外聞の悪いことを公にしている。
 天野宗歩は公表の通り病死であった、というのが僕の見解である。

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