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去年の日記を読み返した話

こんにちは。Natsuです。
平素より、わたしには何でもかんでも文字で紙に書きつけたいという欲求があり、几帳面に毎日というわけではないものの、日記のようなものを昔からよく書いています。


メンクリに通うようになり、自分がこれまでの治療の経過を意外と覚えていないということがわかりました。薬の種類や量の変化の理由についてなど、わからないと困ることもあったので、おくすり手帳と照合しながら過去の日記を読み返し始めました。

そうすると、自分でも忘れてしまっていた、当時のあまりに生々しい記録が…。
正直、鬱期でこれだけダウンしていたのに、よくもまぁ服薬と通院をやめたなぁ、と自分で驚くレベルです。喉元過ぎれば…ってやつだったんでしょうかね。

近頃は、双極性障害の当事者として発信している方のブログやTwitterを見る機会が増えて、それらに助けられることも少なからずありました。同じような立場の方に少しでも参考になることがあればいいなと願いつつ、だいぶ個人的な内容にはなりますが投稿しようと思います。

2019/10/22 「Kの昇天」のように

ネガティブというより自責の念と罪悪感がすごい。「Kの昇天」のように、死そのものは概念としか扱われないで、情趣を解する誰かからの「後日談」だけがあるような、そんな最期だったら、いつ来てもいいのになあ。とか考えた。今すぐ死にたい訳ではないけど、致し方なく消えてしまうことには抗わない。


怖。すげえ病んでるじゃん。いや、そういえばこんなこと思っていたような気はするんですけど、全然覚えていなくて、だからこそ「自分は希死念慮ないから大丈夫」とか言っちゃってたわけですが。今は躁だから余計に死にたいなんて思わないんだろうけど、鬱になり始めたら全然大丈夫じゃないのでは?(笑えないぞ!)

ノートによると、10月は、学会発表も終わって、その後指導教官から「研究者失格」と書かれたメールが届き、心身共に疲れていたし落ち込んでもいました。とにかく実験をしなくちゃ修論を書かなくちゃと焦りながらもあまり動けず、1日のほとんどを布団の中で過ごし、そんな自分をひどく責めていたようです。

日記を読んでいると他人事のように「しんどそうだなぁ」と思いました。
当時のことを覚えてないこと自体がだいぶ怖いですね…。

そして何より、自分で言っちゃうんですが、こんなに苦しんでいてなお冴えている自分の文章のセンスよ!鬱のときは頭が回らなくて読みたくても全然本が読めなかったので、「Kの昇天」も脳内にあったイメージを引用しているだけだと思います。色々な解釈のある小説ではありますが、当時のわたしにとっては一つの憧れのモチーフだったようです。

常々、言葉には気を配って日記を書いたりしているものの、2019年10月のこの「Kの昇天のように」は異彩を放っています。病み病みな文豪の書く小説が人々の心を掴んだりするのも、このような現象の上位互換なのかもしれないと思いました。

やはり怖い話のようになってしまいますが、2020年10月を生きている今日のわたしは、「Kの昇天」の内容をほとんど覚えていません。夜の海…砂浜…くらいのイメージしかないです。1年前の話なのになんでこんなに記憶が飛んでいるのか…。



2019/8/4 躁スケール

実は、今のわたしが覚えていなかっただけで、過去のわたしは未来のわたしに向けて財産を残してくれていました。それがパーソナライズド躁スケールです。

双極の軽躁状態の指標として、多弁易怒性がある。私の場合、あまり当てはまらないと思っていた。なぜなら、普段から一貫して口数は多い方だし、怒ることはしない、と自覚していたから。ただ、そういった指標を自分バージョンに翻訳してみる必要があったなあ。
活動量増加:実験いっぱいする、家事いっぱいする、自分から外出する、寄り道する、買い物する
休息意欲低下:昼寝できない/したくならない、早起きになる、夜まで大学にいられる
多弁:電話の時間が長くなる、長文ツイートが増える、恋人のあいづちに満足できなくなる
易怒性:社会に対して強い言葉を使ってツイートする、攻撃的な冗談を言う、イライラする
「軽躁の時は一瞬だって暗い気持ちにならないはずだから、今落ち込んでるってことは軽躁じゃない!」と思い込んでいた。多分これは勘違い。(少なくも自分には当てはまらない)
●うつのとき:何もしたくない。体がしんどい。動けない。涙が出る。家から出たくない。音楽がうるさい。自責の念。部屋汚い。→「落ち込んでいる」というより「しんどい」感じ。←1日つづく。
●そうのとき:エネルギーがすごい。やりたいこと片っ端からやる。悲しいニュースを見ていっぱい考え事したりする。少しずつなら本も読める。落ち込むこともあるけど生活は回る。1日の中でのアップダウンが激しいことも。

2019/9/1 もしかして:軽躁

実際に自分用の躁スケールでの評価をしてみたこともあったようです。これを見ると、なかなかワークしていると思います。そして、自分でも書いている通り、結局は周りと自分が嫌な思いをしなければ問題はないので、それを注意して防ぐようにしたら良いだけなんですよね。

こういうことにも、気づいていたし、わかっていたのに、「忘れちゃってた」んですね。もったいないですね。忘れたかったのかな…… (メンヘラ感)。

せっかく過去の自分が苦しみの中でも記録して考察してくれていたのに、無視する形になってしまい申し訳なかったです。今後はこのスケールも改良して使用していきたいです。そして1ヶ月ほど前の勤務状況を鑑みてこのスケールに当てはめると、やっぱりウルトラ躁ッですね。

じゃあなんで無視して忘れてしまったのかといえば、良くも悪くも忙しかったことが外的要因として挙げられるように思いました。

そして、修論執筆の追い込みをしていたはずの2019年12月以降、記録はだんだんに途絶え、気づけば3月に奈良を旅行した日記になっています。

何があったんだっけ……?

たぶん、別のノートに日記というか脳内整理記述をしていたのですが、なぜかそのノートが残っていません…。怖。

2020/3/17 手帳を書く理由

手帳を書くのは、自己実現とかのためじゃなくて、楽しいから、お金と時間を割いてやってる、って感じかな。何か目的があるわけでもないし、やっていると良いことがあるわけでもない。望んでいるというより、欲している。

これは3月になって、こちらに引っ越してきてからの記録です。この時のわたしは色々と落ち着いていて、書くこと(なかでも特に残すこと)から得られるものはあまりないように感じていたようです。それでもやはりこうやって振り返ってわかる、書くこと残すことの大事さと、振り返ることで得られるものの大きさ。

とにかく、これからも書き続けよう。

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