争いは無用 - 『老子道徳経』69章 - 訳文

生きることって、なんだかだるくて、楽しくて、悲しいような、美しいような。

朝日に照らされて、感謝したり、鬱陶しく思ったり。

口に運ぶ食べ物は味気なかったり、舌鼓をうってみたり。

音に合わせて、喜び悲しみを噛み締めることもあります。

文字に没入していって、深淵を覗いてみたり。

自然の中で自分をちっぽけな存在だと確認したり。



ともかく生きることってやたらと忙しいんですよね。


うまい具合にはいかない人生だから面白いとみる向きもあったりして。

もうわけがわからんのが、この我々の生きる世界なんです。


この世界に、この人生に、あなたの人生に答えがないというのが答えなのかもしれません。


生きる道筋を誰かに聞いても、自分に問いかけても、偉人の残した言葉に向き合っても、それが役に立つかどうかは、私たちのコンディション次第ということで、やはり定かではないわけです。


でも、誰かの想いを込めた言葉を、一つ一つ丁寧に洗い出してみたら、私たちの現実の歩を一歩進めることができるかもしれません。


まずは、老子、この人は今から2千年以上前の中国に生きた人らしいです。

この老子の言葉をちょっと借りてみます、現代の私たちの悩みを空へぽいっと投げてくれるような言葉を老子は残しています。

老子道徳経は、81章からなる書物です。
その81章をランダムに選んで、紹介しましょう。

争い

戦争や争いが、この世界からなくなることがないという認識が当たり前の世の中なんですが、
当然これをなくす努力をしなければならないですよね。

戦争を主導し、潤う権力者たちが全ての原因だ、というわけにもいかないわけで、戦争、争い事というのは、それは全て個人個人の意見の相違が原因の諍い、争いから始まり、個人個人の規模では収まりがつかず、周りの人を巻き込み、属する組織や、グループに問題が発展し、様々な意見や価値観の総意と総意がぶつかり、対立構図が生まれ、争いが助長されて、違う角度の意見すらも入り込む隙がなくなり誰もがお手上げになってしまった時に選ばれる手段が、暴力であり戦争となっていっているというのが、この我々人間が抱える成長すべき課題ということなんですが、問題は、大規模な何か空中で情報だけが、勝手に飛び交っているような何処かで起きている戦争というのは、小さな我々個の視点で考えることが難しく、想像のし辛い領域です。

でも、我々個人が目の前に起こる諍いや、小さな争いをどう捉えて、どう対処すれば良いのかということは、生きる上で欠かせないことで、大も小も関係なく、最善を尽くしたのにも関わらず、事前に争いに発展する前に事を収めることができない場合に、絶対に避けられない争いに直面せざるを得ない時に、老子はなんと言っているのかを今回ご紹介します。


老子道徳経69章、原文

用兵有言、吾不敢為主而為客、不敢進寸而退尺。是謂行無行、攘無臂、執無兵、引無敵。禍莫大於軽敵。軽敵幾喪吾宝。故抗兵相如、哀者勝矣。



老子道徳経69章、訳文

兵を用ふるに言へることあり。吾は敢て主とならずして、而(なんじ)も客となり、敢て寸を進めずして、而も尺を退くと。是を行くに行なく、臂無きに攘げ、扔くに敵なく、執るに兵なしと謂ふ。禍は敵を輕んずるより大なるはなし。敵を輕んずるは、幾んど吾が宝を喪わん。故に、兵を抗げて相加ふるに、哀む者は勝つなり。


これをもう少し今の言葉で。

戦い方について言えることがある。
こちらから攻撃をせず、あえて迎え撃つ形を取り、こちらから前に出ることをせず、むしろ少しでも後ろに下がること。

これをすれば敵からすると前に出ようにも道がなくて、戦いのため武器をとり腕をあげようにもその腕がないような、相手を引き込み迎撃しようにも敵はこない。

そもそも戦争という禍が生じるのには理由があって、敵を侮ったことが最も大きな原因。
そして、敵を侮ったから自分の大事な三つの宝が失われてしまう、戦争が引き起こされる。

だから、戦うことになったらのならば、戦い自体を悲しんでいる方が勝つ。ということになります。

老子道徳経69章、解説

この戦いを悲しむ方が勝つという点、難しい点ですが、老子のいう大事なものというのが、まず、三つの宝それは「慈」慈しみ「倹」つつましさ、そして「あえて天下の先と為らず」これは謙虚さのことですね。

これを保持し続けることは明らかに私たちの命に優しく、大事で、それは目に見えづらいものですが、我々の心の中に住まわせることのできる大事なものです。

ですので、俗に大事なものである、例えばお金や、土地、権力には重きをおいていないという前提があるでしょう。

したがって、戦いの本質を知り戦いを悲しむ方が勝つというのは、これ現実的には、ぼろ負けしているかもしれません、いや、稀に敵を退散させて勝つということもあるかもしれませんが、戦争において局地的に見れば、圧倒的な暴力を持っている方が往々にして勝つので、その、勝ち、というわけではないかもしれないです。

負けたとしても、大事なものをなくしていなければ勝っている。そんな表現かもしれません。


でもこれはやはり真理なのではないかと思います、なぜなら、人間の歴史的にあらゆる王朝や、国が、征服者が存在してきていますが、栄枯盛衰を繰り返し続けています、必ず勝ち続け、残り続けることは出来ません。

勝者に目が行きがちですが、その勝者というのは僅かな数であって、それ以外にたくさん埋もれている、負けたがわ、そして戦いを加わらなかった人々、歴史には残らない本当の勝者が存在しているというのは想像に難くないと言えます。

そして、現実の戦略論として、あえて攻撃を仕掛けず、相手の出方次第という戦法の勝率 というのは高いと思われます。

どんな勝負事でも達人の域であれば、カウンター戦法は辿り着く境地で、有利な戦法ですが「やられたらやり返す」というような勝負心情が、それはやはり本当の人生の勝者でないような気がしますが、自らの死を選べぬ真理のもと生きていれば、そもそも戦っては為らないのは当然としても、戦いや争いに直面することは少なからずあるわけですから、口喧嘩にしろ、些細なことにせよもしも争いになってしまった、そんな時の心得としては、

「争い自体の不毛さを知り悲しみ」

ながら

「実際の戦い方としては自分から攻撃を仕掛けてはいけない」

それが我々人間の生きる道に希望と充実感を与えてくれる考え方、解決方法として老子が69章で示しています。


結び

全ての争いが無くなった世界を想像するに、それはやはり不可能で、夢物語、そしてそれは神の領域の様に思えますが、もし一瞬でもそんな瞬間が訪れたとしたら、いつかはその一瞬が永遠となる様にも思えるのです。

今生きている我々でそんな一瞬のために、努力をしても何も損はしません。

生きることを皆で分かち合い、それぞれを認め合い、満ち足りた日々を手に入れることが出来ると気付き、理解し、共に生きる仲間となることがこの世に必要な調和と安らぎだと考えます。

一言、二言

「世界平和を願い、自らの人生で実践し、全うしよう」

※引用元、

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