アライさん界隈と自助グループ

得たイさんがアライさん界隈を抜けてから2ヶ月、セックス依存症の自助グループに参加し始めてから4ヶ月、そこでわかったことがあるのだ。今回は、アライさん界隈の自助グループ的な役割には限界があるという話をするのだ。

アライさん界隈と自助グループの違い

アライさん界隈は、多くのフレンズが自分語り(分かち合い)をして、何かしらの救いを得ているのだ。そして何らかの声援を得ているのだ。こう見るとアライさん界隈は、ネットで繋がっているぶんリアルの自助グループよりも強力に見えるかもしれないのだが、自助グループに必要不可欠なものが決定的に欠けているのだ。

それは「安全性」なのだ。

アライさん界隈ではお馴染み、小山さんのねとらぼ記事から引用するのだ。

匿名自助グループとしての「アライさん」現象 なぜアライさんは大量発生したのか?

 ナラティブ・コミュニティーにとって重要なのは、いかに「語り」を可能にするかという点だ。なぜなら、自分の困難を物語るというのは極めて難しい仕事だからだ。過去のトラウマ、フラッシュバック、罪悪感、自己嫌悪。困難について語ろうと試みるとき、そうした障壁がたびたび話者を苦しませる。

 これらの障壁を乗り越えてもらうために、運営者としてはさまざまな手を試みる。それは呼び水としての語りであったり、場の安全性であったり、匿名性であったり、傾聴を可能とする仕組み作りであったりといろいろだが、多くの試みを持ってしても、「語り」が成立する場を作ることは難しい。ナラティブ・コミュニティーを成立させるのは難しいのだ。

この仕組みを作ることの難しさは小山さんの経験からしてもわかる通りなのだが、その大変さは自助グループに「伝統」として残っているのだ。伝統の由緒正しさは、ナラティブ・コミュニティーの運営の難しさの裏返しなのだ。

自助グループは、安全性を保つために多くのグループが非公開になり、グループとして意見を持たず議論には関わらない、そして経済的に独立したアマチュアであることが徹底されているのだ。依存症からの回復という唯一にして最大の目的を各々が継続(達成ではないのだ)するために、数々の歴史が物語る失敗や成功により、伝統が積み重ねられているのだ。ノウハウの蓄積量がまずもって違うのだ。

安全性を保つことは難しいのだ。現に先述の引用のねとらぼ記事も、界隈の存在をオープンにしてしまったことでアライさん界隈では安全性を脅かす事件として語り継がれているのだ。また、ネットには危険が潜んでいることは言うまでもなく、言葉そのものの難しさだったり、認識の違いだったりするのだ。そういうものの認識を揃えて、共通の回復という目的に向かって進んでいくのは、どんなコミュニティにおいても困難を極めるのだ。

「アライさん」というスピリチュアル

コミュニティの安全性を保つのに、安全なものにすがりつくのは当然の話なのだ。それが例えば宗教だったり偶像だったりするわけなのだが、いずれにせよ救いを求めるのにはスピリチュアルが必要だという話なのだ。自助グループではそれを「自分なりに理解した神」と呼んでいるのだ。それがアライさん界隈ではたまたま「アライさん」というキャラクターだったのだ。

例のねとらぼ記事からなのだ。

 そうした困難の中で、「アライさんへのなりきり」というソリューションが発生する。内面化したスティグマによってゆがめられたセルフイメージ。それをいったん脇に置き、暴走気味だが元気で明るいアライさんというキャラクターに「なりきる」。アライさんの口調を借り、アライさんのイメージ(アイコン)を借り、アライさんではない自分自身の困難について語る。

 この時、アライさんとして語る当事者たちは、自らを縛る内面化されたスティグマから、一時的に自由になれるのではないだろうか。そしてこのスティグマの軽減は、自分だけではなく、他のアライさんたちへのまなざしにまで波及する。

つまり界隈のフレンズたちは、アライさんのアイコンと口調を借りるという行為によりありのままの自分の無力さを認めて、自分語りを「アライさん」という自分なりに理解した神に委ねているのだ。そして愚痴を言ったり誰かに対して怒ったり、自殺を示唆したりする時にもアライさんの皮を被ったまま(たまに脱げる人もいるのだが)無意識にアライさんという神に助けを求めているのだ。

アライさん界隈におけるアライさんというキャラクターは無意識に神格化されているのだ。自分の辛く苦しかった体験をアライさんのアイコンと口調で語ることにより、アライさんというスピリチュアルを信じて祈りを捧げているのだ。そうすることによって救いが得られるのだ。

この行為は、AA(アルコホーリクス・アノニマス)の12ステップの1~2番目にあたるのだ。

「アライさん」は神様なので、キャラクターが崩壊することに誰も文句を言わないのだ。それぞれのフレンズには、それぞれの信じる多種多様なアライ神がいるのだ。そのアライ神を信じる彼らは、どんな目的であれ「神の意志」による「偉大な力(ハイヤーパワー)」(※自助グループ用語)によって動かされ、目的に向かって行動を起こしていくのだ。同じ目的に向かって行動するなら、紆余曲折はあれど安全が保たれながらコミュニティが成長するのだ。

当初の目的を喪失したアライさん達

ところが現実はそうはいかないのだ。生きやすくなりたい目的とは別のフレンズが流入してくるようになったのだ。

アライさん界隈にはいろいろな問題が起こっているのだ。摘出した金玉をネットに放流したりオフパコDMを送ったりチン凸したり、あるいはモテテクを語ったり、ちょっと考えられない案件が高頻度で起こっているのだ。しかしそれらはアライさんというスピリチュアルに委ねられて起きた現象にすぎないので、それ自体は問題じゃないのだ。

問題は「目的」なのだ。回復ではなく承認欲求を得たいのが目的の人が多く見られるようになったのだ。

おそらくそういう人たちも最初は、意識的あるいは無意識的に回復を目的にアライさん界隈に入ってきたに違いないのだ。しかし、界隈で「わっせわっせ」や「よしよしぎゅー」されるうちに、チヤホヤされたい方向に目的が変わってしまったフレンズを多く見てきたのだ。そこにいろいろな問題が絡んできているのだ。

自助グループには、外部からの寄付をすべて辞退して経済的に独立する伝統があるのだ。それはアルコール依存症の「最初の1杯」と同じく、最初の1回の寄付によって歯止めがきかなくなり、グループの目的が本来の目的から外れてしまうことが危惧されたからなのだ。目的からブレないために清貧を選んだ結果、数々の自助グループの大もとであるアルコホーリクス・アノニマスは外部からの信頼を得るに至ったのだ。

どういう目的であれ、アライさん界隈のフレンズは自分の居場所(のひとつ)を求めて入ってきているのだ。しかし「最初の1杯」の承認欲求を満たされた経験が引き金になって回復したいという目的から徐々に外れ、自分が救われたいことを認識できないまま目的がすり替わってる人がいるのだ。例えば人を救うことに「依存」している人とかなのだ。

モテテクとは、自分を好きになれない人が他人に自分を肯定してもらうために使うものなのだ。モテテクを語っている限り、その人は変わることはできないのだ。

「人を救いたい」の正体は(アライさん界隈に限った話では)「他人より優位に立って救われたい」という承認欲求乞食なのだ。仕事や結婚、あるいはフェネックができたなどの成功体験が「最初の1杯」となって過去の栄光の再現を求め、それに都合の悪い相手を「法的手段」などのワードを使って攻撃するのだ。

蛇足なのだが、相手に吐く捨てゼリフは自分が一番言われたくない言葉だそうなのだ。法的手段を盾に相手を攻撃する人は、自分が訴えられそうになると発言を取り下げたりして逃げるのだ。KuTooの石川優実さんがいい例なのだ。

目的を喪失してしまったアライさん達は「アライさん」を「自分なりに理解した神」ではなく「隠れ蓑」にしているのだ。「アライさん」を「神」から「道具」に変えてスピリチュアルを捨てたのだ。それもまたアライさん界隈のひとつの形なのだが、自助という界隈の役割は確実に失われたと言えるのだ。

これからのアライさん界隈

小山さんの例のねとらぼ記事では、ペルソナを獲得する方法論としてアルコホーリクス・アノニマスの自助グループについて触れられているのだ。ただそれは「アライさん」という匿名性を自助グループの伝統である「無名であること(アノニマス)」との共通点として挙げただけなのだ。

セックス依存症の当事者であり自助グループに通っている得たイさんは、現在のアライさん界隈はどちらかというと「はてな匿名ダイアリー(Hatena Anonymous Diary)」に性質が近いと思うのだ。それは匿名であることの性質が自助グループと違って、スピリチュアル的な意味を持たない点が共通してるからなのだ。

増田(はてなアノニマスダイアリーの投稿者)たちは名前すら持たないので、手っ取り早く承認欲求を得るには利用しやすいのだ。匿名としての名前すらないから自分の物語を展開する必要すらないのだ。それはアライさん界隈においてアライさんの群れという森の中に「〇〇なアライさん」という木を隠し、一人称も「〇〇イさん」ではなく「アライさん」にすることにより、人格にぼかしをかける点で増田と共通項なのだ。

匿名で承認欲求を求め、相手は叩き放題、そしてヲチスレの監視付き、カオスなのだな。安全性とスピリチュアルを失った界隈で生き残るにはどうしたらいいか、得たイさんには思いつかないのだ。

これがアライさん界隈の限界なのだ。時が経てばまた変わってくるのだろうと思うのだけど、アライさん界隈は自助グループとして機能するにはあまりにも若すぎるのだ。

得たイさんがこの先生きのこるには

得たイさんは界隈を去る選択をしてTwitterのアカウントを消したのだけど、今こうしてnoteを更新しているのだ。アライさん界隈の外で「アライさん」として活動することにしたのだ。ひっそりと活動しつつ、自助的な部分は安全を確保できるところで行うのだ。例えばコミケの評論島などは有料かつネットの外で自分の考え方をリリースし、そこに来るのは前向きな興味を持つ人が来る場なので、安全性は確保できるのだ。

コミケの評論島はある意味、自助グループのような役割を果たしているのだ。あたおか(褒め言葉)サークルが集まってて他を寄せつけないのと、ネットの外(紙媒体)で発信しているので事実上のクローズド、発信者は匿名(ハンドルネーム)、書き手は言いっぱなし、読み手は聞きっぱなしなのだ。そこに議論はないのだ。頒布価格はサークルを運営するための献金なのだ。コミケが長年にわたって積み上げてきた慣習は、自助グループの長年の伝統に通じるものがあるのだ。だから動員数70万人規模の巨大イベントになっても秩序が保たれ、安全に運営されているのだ。

自助グループでは、無名であることは霊的(スピリチュアル)な基礎とされているのだ。スピリチュアルを受け入れて安全性を確保するためのベースキャンプとしての匿名なのだ。依存が起こる・回復する原理を優先するために、匿名である必要があるのだ。

もともと匿名で発信することによって安全性を保ってきたネットは、スマホとSNSの普及により実名主義が入り込んできて安全性を失い、回復にリスクを伴うようになってしまったのだ。そうなると、ネットとリアルを統合して発信する内容の棲み分けを行う必要が出てくるのだ。得たイさんの場合は、その方法が同人だったのだ。

アライさん界隈から抜けても、得たイさんは変わらず1匹のアライさんなのだ。今後は誰でもウェルカムではなく、共感してくれる人を大事にしていこうと思うのだ。よろしくなのだ。

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