2021年5月15日「悩みのるつぼ」

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 自分を責めないでください、とまずはあなたに伝えたいです。親不孝なんてことはないとぼくは思います。

 他国の悪口を言ったときに、もう我慢ならないとご自身の思っていることを伝えたこと、あなたの誠実さ、まじめさが伺えるエピソードです。ただ一方で、子が生きていく未来をよい社会に、という気持ちもわかるのですが、それがすべてでもないことを同時に伝えておきたいと思います。よくも悪くも、義父一人の差別的な言動を止められたところで、社会に大きな影響はありません。だから止めても意味がないということではなく、あなたが、またはあなたの子どもが未来の社会を背負っているというものでもないと思うんです。社会の一員ではありますが、その一員の一人ひとりの力は途方もなく小さいと言われたほうがぼくはしっくりきます。

 まずは義父の考えをあらためてもらうことができればそれがいちばんハッピーなんでしょうか。頑固だそうですが、変えることはできないですかねえ?あなたが実家に帰ってるときだけでいいから!とか。ちょっと引っかかる発言リストを義父に渡して、もしそういう発言が出たら「また言った~」みたいにイジるとかどうでしょう。伝え方が変わればもしかしたら、戦法です。

 相談内容を見る限り、あなたが実家に顔を出さないことに対してはっきりと文句を言われたわけではなさそうです。むしろ、夫と義母には味方をしてもらっている。あなたが義父に対してそんなに無茶で横暴なことを言っているわけではないと思うので、そのまま距離をとっていても問題ないとぼくは思うんですよね。一緒にいて気分が悪いひとっていうのが人間には確実に存在していて、それは家族や親戚であっても関係ないです。どっちかが気持ちよいコミュニケーションができないと、たいてい相手に伝わって、怒りを買うか、冷めさせるか、困らせます。「ちょっと嫌だなあこのひと」って思いながらいい関係になるのなんてむずかしいんですよ。だから会社でもない限りは、相性の合わないひととは距離をとるって選択肢はなしではないと思います。距離をとっていたら勝手に冷戦終結ってこともままありますしね。もちろん、義父や義母から「顔を見せてほしい」と言われたらそこから対話がスタートするわけです。あ、夫や我が子がどう思ってるのかもそれに当たりますね。

 ただし問題は、あなたの心の中にありそうです。良心の呵責ですね。ぼくはすべての悩みは「誰かに言えた時点で半分楽になる」と思っています。それで言うと、あなたのこの悩みを誰かに話そうが話さまいがその後にとる行動として、距離をとったまま過ごすっていうことは変えずで大丈夫だと思うんですけど、ただあなたの心は落ち着いてると思います。ここに相談してくれていることはすごく有難いことなんですが、まずはあなたの夫や義母、友人などに、自分はこう思っていて今回こういう展開になったんだけど、それで大丈夫なのかなあ、という葛藤が起きている、というところまで話してみてはどうでしょうか。話せるなら義父と直接話し合えるといいなあ、と夢想しました。

 この前、仕事で関わっているひとが「内容が恥ずかしいから、相談もしづらい」と言っているのを聞きました。その方は家族の相談でしたが、家族に振り回されていて、そんな内容を誰かに相談するのは違うなあ、と自分では思っていたんでしょう。その電話が終わったあとに、誰かに相談できないっていうのはそういう悩みを持っていることが恥ずかしいとかしょーもない、要するに取るに足らないと思っているからそういうふうになっちゃうんだなあと思いました。だからぼくはそんなことないですよ、って言うことにしました。すべてのひとの悩みがちゃんとかたちも重みもあるものだということ、またそれに漏れず、あなたの悩みも悩みとしてのかたちを持っていますし、あなたに正当性もあるんじゃないかなと思います。相談していきましょう。

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 伝えたい内容がコンパクトにまとまっててびっくりした。関係の改善を図っていく役割は相談者の夫にあって、あなたが背負い込む必要はない。夫へ相談者自身の思いを伝え、「当事者意識をもって」(これ大事!)義父との交渉をしてもらうこと。このことしか言ってない。あとは相談者の現在地の分析と気持ちへの寄り添い。こうやってコンパクトな回答を見てみたら、自分がいかに長々といろいろ詰め込んでしまっているかがわかるなあ。

 こういう話を読むとですね、自分やったらどうするかなあ、ということを毎回考えます。ただ、ぼくかなりの交渉好き、というか対話好きでして、こうやって他人の相談を聞いてる限りは当たり前ですけどぼくとこの登場人物たちの相性なんてもんは会ったことがないし未来永劫会うこともないので考えなくてもいいわけで、そういう条件で考えたらぼくは「とことん話し合う」というセレクトをする、というかしたいって思う人間です。性格とか属性のないのっぺらぼうの人間が相手やったら、まずは話し合いたいと思う。

 なめてるって言えばそれまでで終わってしまうんですけど、ぼくの回答でも書いた通り、人間なんか行き詰ったときって、話ができて受け止めてもらうことができれば不満とか欲求ってけっこう解消すると思うんですよね。「自分はこういうふうに思っていて」ってことがフラットな地平で話すことができて、さらに「いやあ、実は自分はそれに対してこう思っててさあ」っていう話ができることが大事。考えが合うことでは決してなくて。

 まあ、そう考えている分というかなんと言うのか、ひとは結局わかりあえないってところには強く共感する人間なんですけど。わかりあえないと思ったからこそ、わかりあう必要のない人間関係とか、空気とか、場がいいなあといまは思ってます。

 最近、ひとと関係をつくっていくうえでどこまで議論をしていくか、みたいな話を知り合いとしたんですけど、こういう話っておもしろいですね。自分の「結局わかりあえない」主義がすごく見えてくるし、それでも話し合う!みたいなアツいトークにも「いいなあ」ってうらやましい気持ちが出てくるのです。大学生の頃にそういうことをたくさん考えてて、あのときは楽しかったなあとかって思いました。

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