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レザーフェイス -悪魔のいけにえ-

えー、傑作ホラー「悪魔のいけにえ」の前日譚ということで、いたいけな少年がレザーフェイスになるまでを描くわけですが、この映画、誰がレザーフェイスになるのかっていうサスペンス要素があったんですね!(今、知りました。)確かに、まあ、そういう雰囲気はあったはあったんですけど、そのつもりで映画を反芻してみても、「ああ、そうなんだ。」くらいの感慨しかないです。(ていうか、観てる間、「これ、誰が主役の映画なの?」と思って観てました。)「悪魔のいけにえ」の創造主、トビー・フーパー大先生のプロデュース作品として遺作であり、フランスのニューウェーブ・スプラッター映画「屋敷女」の監督コンビなので出来れば褒めたい…褒めたいんですが…。「悪魔のいけにえ」から派生する作品として8作目に数えられる「レザーフェイス -悪魔のいけにえ-」の感想です。

はい、個人的に最初の「悪魔のいけにえ」(テキサス・チェーンソー・マサカー)に関しては、BOXセットを3つ持っていて、生涯ナンバー1映画を上げろと言われたら(悩んだ末ではありますが、)「悪魔のいけにえ」かな〜っていう位には好きな映画なんですね。なので、まぁ、どんなに上手く作られても「何か違う。」、「やっぱり、オリジナルは超えられない。」となるので、基本的に観たくはないんですよ。なんですけど、今回、トビー・フーパー監督の遺作でもあり、マイケル・ベイ制作の「悪魔のいけにえ」のリメイク、「テキサス・チェーンソー」の続編、「テキサス・チェーンソー ビギニング」で、既に描かれている前日譚(レザーフェイスが誕生するまで。)を(「ビギニング」があくまでリメイクとは言え)描き直すということは、それなりに納得出来る話にはなっているんだろうという淡い期待もあり、(あとは、この日、時間的に合うのがこれしかなかったというのもあり、)観たわけなんですが。あの、僕、続編とか前日譚には割と寛容な方ではないかなと思うんですよね。(「エイリアン」の前日譚「コヴェナント」も、「プレードランナー2049」も肯定派ではありますし。)多少、世界観なんかが違ってても、そこに意味とか主張があればOKだと思っていてですね。例えば、オリジナルに忠実に作っていても単純になぞっただけでは面白くないと思うんですけど、そこに監督の"何故なぞったのか。"という主張があればいいと思うんです。(あとは、好き過ぎて1ミリも変えることなくなぞってしまいましたというパッションとかね。)もしくは、その逆でオリジナルとは全く違うものになっていたとしても、"何故そうしたのか。"が明確であれはいいんです。(これ、有名な原作モノを映画化する時も同じですね。)でですね、今回の「レザーフェイス」、お話自体は悪くないと思うんですよ。(というか、ストーリーに関しては創造主であるフーパー監督が総指揮してるわけなんで、こちらがとやかく言うことでもないと思うんです。)こういうことがあって、レザーフェイスは誕生しましたというのは、ぶっちゃけ何でもいいんです。でね、そしたら何が大事なのかと言うと、「悪魔のいけにえ」の前日譚として、どう見せるか(ここに監督の主張が入ると思うんです。)っていうところだと思うんです。

あの、たぶん、これだけのカルト映画で生涯ベストに上げる人も沢山いる作品で、完全に世界観を変えてしまうのは難しいと思うんですね。キャラクターも出来上がってるし、ストーリーもとってもシンプルなので。でも、「悪魔のいけにえ」って、既に複数の世界観があるというか、続編の「悪魔のいけにえ2」の時点で既に、トビー・フーパー監督自らが全く違う世界観の映画にしているんですよね。そして、僕は、この2がオリジナルと同じくらい大好きなんです。(ちなみにトビー・フーパー監督が直接監督したのはこの2までです。)で、2がオリジナルとどう違うのかっていうと、コメディーになっていてですね。ホラーの傑作と言われている映画の続編がコメディーという。主人公はデニス・ホッパー演じるレフティ捜査官という人で、この人はオリジナルでレザーフェイスに殺された若者のうちのひとり(フランクリン)の叔父さんなんですね。で、甥の仇を討つ為にソーヤー家へ乗り込むって話なんですが、そのレフティ捜査官がチェーンソーを二刀流にしてレザーフェイスと対決したり、ソーヤー一家の住処が廃遊園地になってたり、オリジナルでトラックに轢かれて死んだヒッチハイカーの双子の弟(チョップトップ)が登場したり(僕、このチョップトップが一番の推しキャラです。)、レザーフェイスがラジオDJの女性に恋したりと、かなりエンターテイメント色が強くなっているんです。そのかわり残酷シーンもそうとうレベルアップしているんですけど。とにかく強烈な続編だったんですよ。(インパクトだけで言ったらオリジナルより上かもしれません。)で、大事なのは、なぜ、これだけ世界観が違うのに続編として納得出来たのかというとこなんですが、それは、オリジナルにあった「悪魔のいけにえ」イズムがあるからだと思うんですよね。で、それって何なのかと言うと、"人間の中にある純粋さともとれるほどの圧倒的な理不尽さ"だと思うんです。

「悪魔のいけにえ」の何が怖いって、殺人(死)に理由がないところなんですよ。ソーヤー家の人々は近づいて来た人を次々と殺して行くんですけど、そこに理由はない(映画内では語られない)んです。(2では、人肉を使って全米うまいチリコンテストで優勝してるので、肉屋として成功する為に人を殺して人肉を確保しているとも言えなくもないんですが、オリジナルでは単なる屠殺場だったので、人肉が手に入る様になったからチリを作って売り始めたと考えた方が自然ですよね。)だから、この映画の中では殺人に意味なんかなくて。あの、人って自分が理解出来ないことに意味を求めたがるじゃないですか。(もしくは排除しますよね。)意味が分かると安心するので。でも、この映画では意味を教えてくれないんです。(つまり、映画内で起こることのほとんど全てに説明がないんです。)そこがこの映画の怖さだと思うんですね。で、その"純粋さともとれるほどの理不尽さ"の象徴としてのレザーフェイスなんですね。だから、今回の映画の様にレザーフェイスに理由をつけようなんていうのは、そもそもが無茶な話だとは思うんです。でもですね、やりようはあったと思うんですよ。ひとつは誰もが納得出来る理由を考えつくってこと(まぁ、これは到底無理です。)で、もうひとつは誰も納得出来ない様な圧倒的に理不尽な理由付けをするってことだと思うんです。でも、今回の映画はそのどっちでもなくてですね。なんとなく、なんか、理由づけしましたって感じになっちゃってたんですよね。監督がインタビューで、「観客が彼ら(レザーフェイス含む施設から逃げ出した若者たち)の中に自分自身を見てほしいと思った。」と言ってるんですが、これが間違いだと思うんです。あの、死というのは、例えどんな死に方であろうと、それまでの人生をいきなり全てなかったものにしようとする様な理不尽なもので、僕が「悪魔のいけにえ」に感じてた恐怖って、それなんだと思うんですよ。ある日突然死がやって来て何の理由もなく死んで行く。子供と対峙してる時の様な話の通じなさというか、見方を変えると無邪気で微笑ましくもあるんですけど。(その視点で描いたのが2だと思うんですね。)だから、つまり、今回の映画には、そのどっちもがなくて、だからと言って何か他の特別な視点があったのかとというと、それもなかったんじゃないかなと思うんです。

あと、やっぱり物語としても弱かったですよね。どうしてもあそこからオリジナルの「悪魔のいけにえ」に繋がる様には見えなかったし、(まぁ、オリジナルで描かれたソーヤー家をもっと見たかったというのもありますし。)恋愛よりも友情の方がメインで描かれてた方がラストでああなったことに対して納得出来たんじやないかなと思うんですよね。

http://leatherface.jp/sp/

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