解放のあとで 三通目 α

2020年6月19日

 古谷氏の書簡を読ませていただきました。思想やジャーナリズムの関係性についての記述が非常に興味深かったのですが、この大きな流れを読み解くために文献に当たるのはいささか骨が折れそうでお話だけでも聞きたいと贅沢なことを思っている次第です。また「差別」の裏に潜む無意識や構造、マジョリティとマイノリティの断絶について考えさせられました。本書簡で拙い文章ながらもそれらの考察をしましたので返答になれば幸いです。

 今日から様々な規制が解除されます。一部の首都圏や北海道との間も含めて都道府県をまたぐ移動が可能になり、一定の人数や収容率のもとでコンサート等のイベントの開催が可能になりました。そして、ナイトクラブなどの接待を伴う飲食業の休業要請も撤廃されました。コロナが収束に向かい、人々の緊張や不安が和らいできた兆しは私の住む住宅街でも見られます。先日、家の周りを散歩していたのですが、公園で子供たちはマスクをせず友達と楽しそうに遊んでいましたし、すれ違う人もマスクをしていない人が多く感じられました。私の住む住宅街は都心から電車で一時間程離れた場所にありますが、マスクをつけないことの賛否は分かれると思います。ただ、「マスクをつけない」という選択によって生じた結果は自己責任で済まされるものではありません。マスクをつけないことが自分の感染リスクを高めるだけでなく、自分がウイルスの保有者である場合、他者を感染させるリスクを高めます。そして厄介なことに、新型コロナウイルスは無症状の感染者でも他者に感染させることがあります。そのため発熱や空咳、倦怠感がないからといってウイルスを保有していないとは言い切れません。だからこそ、人々はPCR検査の拡充を求めているのでしょう。PCR検査を受けて「陰性」という免罪符を得るために。自分の社会的信頼性を高めると同時に「陽性」を排除するために。しかし、実はそのPCR検査の結果は絶対的ではありません。日本疫学会によると鼻腔からの検体によるPCR検査の陽性割合が、発症日で94.39%、発症10日後では、67.15%、発症31日後では2.38%です。また、偽陰性割合つまり感染しているにもかかわらず検査陰性となる割合は、感染1日後で100%、感染4日後で67%、発症日(感染後5日目)では38%と推定されています。つまりPCR検査は真の感染者の把握が難しく、絶対の信頼を置いてはいけません。一方で、国民やコメンテーターは日本のPCR検査数の少なさを度々非難してきました。しかし、日本の死亡数は世界的に見ても死亡数は(人口10万人あたりの死亡数も)少なく、医療崩壊を防ぐためPCR検査を症状がある人に優先するという指針がコロナ禍初期から掲げられていたことを評価するべきです。6月18日に都知事選の立候補が開示されたことも関係してか最近、政府や都の外出自粛や休業要請を科学的エビデンスがないと言って非難する人が散見されます。しかし、PCR検査でさえ絶対の信頼性を置くことが出来ず、未知の新型コロナウイルスの対策に対してどうやって科学的エビデンスを用意することが出来るのでしょうか。私はこれから始まる都知事選がヘイトスピーチや気持ちのよい演説によって決まるのではないかという危機感を持っています。人々は短絡的な結論やヘイトスピーチを好み、新型コロナウイルスという切迫した問題にすら真実から目を背け、正しい判断ができない状況にあります。さらに、この都知事選は新型コロナウイルス対策だけでなく延期されたオリンピックについても影響してきます。ワクチンは早くても来年の前半以降まで接種できないという状況において、当然オリンピックの開催様式は見直されなければならないでしょう。オリンピックは国を挙げての行事であるし、東京の大学に通っている学生として今回の都知事選は全く他人事ではありません。私に投票権がないことを悲しむ一方で都民には自分の一票が政治をそして生活を変えるという意識をもって投票することを切に願っています。

 話がすっかり逸れてしまいましたが、マスクをつけるべきかという問題に戻りたいと思います。これからますます暑くなる中でマスクをつけない人は増加し、いずれこの問題は表面化されるでしょう。幸村氏が一通目で『我々は感染拡大防止のための「社会責任」を課せられ、「自粛警察」などと呼ばれる輩などに監視されながら「自粛」を全うさせられる。』と的を射た表現をされていましたが、同じ構造がこの問題にも見て取れるわけです。「社会責任」と物理的精神的ストレスが天秤にかけられ、私たちは常にマスクをつけるべきかという問いが目に見える形で問われています。一つの共同体がストレスに曝されたとき、何かしらの行動規範を共同体は求めています。その行動規範こそが「社会責任」に違いありません。共同体の「社会責任」という形でストレスは還元され、一人一人がその「社会責任」を果たすことで共同体を保っています。コロナ禍に限らず、戦時中も同じように人々は大きなストレスに曝されていました。飢餓や出兵、強制労働、空襲などのストレスに曝されていた戦時中において「国家のために自己を犠牲にして尽くす国民の精神(滅私奉公)を推進した」運動(国民精神総動員)は「欲しがりません勝つまでは」「贅沢は敵だ!」「聖戦だ 己れ殺して 国生かせ」などの戦時標語を生み出し、贅沢をしている人やお洒落をしている人、国家に奉仕していない人を排斥する相互監視型の社会を形成しました。人が「社会責任」を代弁し始め、異端者を排斥する構造は人類の歴史に根深く根付いたものです。これは人、あるいは共同体の本質なのでしょうか。昔は隣人同士が監視する極めてローカルな構造でありましたが、現在は情報通信技術、特にSNSの普及によってグローバルな形でこの相互監視型の社会は形成されています。今や全世界の人々が持っているスマートフォンは無責任な形で動画や写真を流出させ、その内容を共同体の精神に判決を下して貰っています。ローカルな構造では、あくまで排斥者は「社会責任」を代弁する一人の人間でありましたが、現在において共同体の精神を代弁する一人の人間は沈黙し、SNSという共同体に「社会責任」を代弁させるという気持ち悪い構造になっています。「炎上」や「誹謗中傷」がその典型例であることに疑いの余地はありません。しかしこの構造はどこまでも救いがありません。「社会責任」という天秤にかけ、哀れな罪人に足かせをつけること、呪いをかけることは罪人という一人の人間を見ていません。動画や写真だけが一人歩きし、SNSという法廷で人々は裁判官を気取り(これは同じ「社会責任」を果す共同体の一員であることに対する強い自負に由来しますが)好き勝手に判決を下していますが、罪の本質が許しにあることを失念しているのではないでしょうか。罪を、そして許しを与えることが出来る人間は罪人の目の前にいる、そう写真や動画を撮っている貴方です。そして現在、SNSは幸村氏が指摘したように<剥き出しの生>が支配する空間であり闘争領域ですが、私は文学には目の前にいる人間だけでなく画面の向こう側にいる人間をも抱きしめることが出来る力があり、それは今のSNSを変えていく力があると信じています。時に文学は「社会責任」や「世間でよいとされていること」を解体することで<生>を、<許し>を得ることができるためそれらと対立することがありますが、今求められている文学はまさにこのようなものではないでしょうか。蛇足ですが、SNSの写真や動画は「エクリチュール」で、その幽霊的な記憶、構造主義的意識を呼び起こすことは文学と関係しているのでしょうか。最近、デリダを読み始めたばかりで「エクリチュール」と文学の関係性をミスリーディングしているかもしれませんが書き進めているうちにふと思い浮かんだので問題提起という形でここに記したいと思います。

 ここまでコロナ禍で浮き彫りになった情報通信技術の発達と共同体の関係性や文学の可能性について述べてきました。SNSの炎上や誹謗中傷といった<剥き出しの生>の負の側面ばかり話してきましたが、古谷氏が取り上げていたようにチュニジアで起きたいち青年による焼身自殺事件の動画を発端として「アラブの春」は巻き起こりましたし、今回のblacklivesmatterもジョージ・フロイド氏の動画が拡散されたことによってここまで大きな問題として表面化されてきました。今まで日の目に出なかった「叫び」がSNSという<剥き出しの生>において増幅し、マイノリティであったものや抑圧されていたものが大きなうねりをもって私たちを否応なく巻き込みました。このように一人の人間が一本の動画が世界を変えるだけの力を持つ一方で、マイノリティの叫び、訴え、悲鳴はSNSという共同体の中でマジョリティに飼いならされ、無毒化されていったことは確かでしょう。それはマジョリティのマイノリティを理解や共感を示しているようで自己欺瞞や偽善、傲慢な一面があるような気がします。いずれにせよ、コロナによって反グローバリゼーションが進む一方で、より世界的な問題に直面しているパラドックスにある今、共同体がどうあるべきなのか、SNSという<剥き出しの生>とどう向き合うべきなのか、マジョリティはマイノリティに対してどうあるべきなのかという問いはますます重要になってくるわけです。問題を提起するばかりで何も答えていないような気がしてならないので、次の方にも自由な応答をお持ちしております。

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