解放のあとで 十通目 β

2020年8月20日

メルキドさんへ

 書簡の投稿が遅くなり誠に申し訳ございません。メルキドさんから書簡を受け取ってもう二週間が経とうとしています。夏も後半戦を迎え、心なしか日が沈むのも早くなったように感じますが、この暑さはいつ和らぐのでしょうか。
 さてメルキドさんの書簡を拝読させていただきましたが、二十年前の写真や映像技術の肌感を持っている人は素直に羨ましいと思いました。今僕たちの生きる時代は主にスマホの普及により写真や映像の価値が暴落しています。写真や映像は研ぎ澄まされた感性を持った人たちの表現の場から大衆化し、より綺麗で映えるような写真を撮ることに価値がシフトしてきたように感じます。大衆化したことで僕はカメラを手に取り写真を撮れるわけでむしろ感謝しなくてはなりませんが、僕はカメラを構える時スマホで撮る写真を念頭に置いており、一種の呪縛のように僕の写真を制約しています。そのためスマホがない時代のフラットな写真観を持っていたかったと感じているわけです。
 メルキドさんからこの書簡でヘッセを端緒に芸術論を展開して欲しいとのことでしたので、写真の雑感もこの辺で止めて、早速本題に移りたいと思います。僕はこの度ヘッセの「車輪の下」と「知と愛」を再読致しました。「車輪の下」と「知と愛」は対となる作品です。どちらも「精神」と「愛」の軋轢に少年が苦悩する物語ですが、一方では神学校の制約的な空間が少年の感受性豊かで純粋な心を蝕み、もう一方では神学校を逃走し放浪と浮気な恋の中に生きます。ここで「精神」と「愛」という広義な言葉が出てきましたので、ある程度その意味を誤解なく伝える努力をしなくてはならないでしょう。
 「精神」は「科学」と言い換えることができます。「科学」は再現性を何よりも重要視しています。誰でもある特定の条件下で実験(証明)を行えば同じ結果が出ることが再現性ですが、再現性のあるものを体系化したものが「科学」であり「知識」です。絶対零度の固定化されたロゴスの世界が即ち「精神」です。一方、「愛」は...自然を愛すること、人を愛すること、音楽を愛すること、それはフィシスあるいは自然(じねん)ともいうべき人間の本来の性質と捉えることができます。
 では「精神」と「愛」の対立の中で「芸術」はどのような役割を持っているのでしょうか。「車輪の下」で芸術は「科学的な人」と「芸術的な人」を対比する文があるように「愛」に寄与するものでした。しかし「知と愛」で芸術は「精神」と「愛」の対立の融和の可能性を示唆するもので、ヘッセの芸術観の変化をみることができます。

芸術は父の世界と母の世界との、精神と血の結合であった。芸術は最も感覚的なもので始まり、最も抽象的なものに通じることができた。あるいは、純粋な観念の世界に始まって、最も血の気の多い肉で終わることもできた。真に崇高な芸術作品であって、巧みな魔術であるばかりでなく、永遠の秘密にみたされているようなものは、たとえば、親方の聖母像のように、本物の、まぎれもない芸術家の作品は、すべてあの危険な微笑する二重の顔を、あの男性的で女性的なものを、本能的なものと純粋な精神性とを同時に持っていた。 「知と愛」

 父の世界—男性的・観念・精神—と母の世界—女性的・感覚的・血—の二面性を持つ芸術。またこの二面性つまり「精神」と「愛」の対立の融和が得られるものは真に崇高な芸術品のみと度々述べられています。真に崇高でない芸術品を「非常に巧妙に作られた、きれいな魅惑的なもの。—それは芸術愛好家を喜ばし、聖堂や会議室の飾りとなる、美しいものであったが、神聖なほんとの魂の像ではなかった。」として、技術的な器量さだけで“ほんもの”の芸術品を制作することができないことを説いています。しかし同時にその技術的な美しさが「魂の像」を一段高いものへと昇華させることができると別の箇所で述べられています。
 次に「魂の像」の製作について述べられた一文を引用します。

愛する使徒ヨハネの瞑想する姿はいよいよ純粋に木の中から迫り出してくるので、彼は乗り気なときだけ、つつましく心を打ち込んで制作した。
「知と愛」

 この一文は夏目漱石の「夢十夜」の第六夜に登場する仏師・運慶の「なに、あれは眉や鼻を鑿で作るんじゃない。あの通りの眉や鼻が木の中に埋まっているのを、鑿と槌の力で掘り出すまでだ。まるで土の中から石を掘り出すようなものだからけっして間違うはずはない」という台詞やミケランジェロの「全て大理石の塊の中には予め像が内包されているのだ。彫刻家の仕事はそれを発見する事」という言葉を思い出さずにはいられません。そしてどれも彫刻についてしか言及されていませんが、一般化しますと制作に芸術家のエゴは必要なく、つくるべきものをつくるのが芸術家と言うことができます。つくるべきものとは一体何なのか。「知と愛」に登場するヨハネの瞑想する姿を彫る彼は友人の神父をモチーフとしており、メルキドさんが仰っていた「個人的な記憶」に起因するものであります。
 ところで芸術は「精神」と「愛」の対立の融和の可能性を示唆するものと先に述べましたが、それがどういうことか詳しく述べていませんでしたのでそれについてお話したいと思います。まず2カ所の抜粋をご覧ください。

おそらくすべての芸術の根本は、そしてまたおそらくはすべての精神の根本は、死滅にたいする恐怖だ、と彼は考えた。われわれは死を恐れる。無常にたいして身ぶるいする。花がしぼみ、葉が落ちるのを、くり返し悲しくながめる。そして、自分たちもはかないもので、まもなく衰えはてることの確かさを、自分の心の中で感じる。われわれが芸術家として像を作ったり、あるいは思想家として法則を求め思想を公式化するとき、大きな死の舞踏の中からせめて何かを救い、われわれ自身よりながい寿命を持つ何かを樹立するために、そういう営みをするのである。「知と愛」
彼は省察にみたされ、芸術家となり、愛すべきはかない無意味な人生に精神の力で働きかけ、意味のあるものに変えたいという悩ましいあこがれに苦しむのだった。「知と愛」

 つまり芸術の原動力には無常に対する恐怖あるいは人生の無意味さに対する挑戦であり、芸術は流転する「愛」の世界を固定化し「精神」の世界に移行させる行為です。固定化されうるものを固定化することが「精神」であるのに対し、本来固定化することのできない無常なものを芸術品として残すつまり永遠化することこそ、ここで言う「精神」と「愛」の対立の融和なのです。
 ところでヘッセは東洋的な思想の影響を受けたことが有名ですが、この芸術論は西洋的だと感じます。所々で東洋的なエッセンスは盛り込まれているものの無常に対する恐怖故に頑強な記念碑を打ち建てることで無意味さを克服する行為は無常を積極的に肯定し風化し錆びれ消えていく世の中の耽美である日本の美的価値観とは対照的なものでしょう。
 さいごに小説の芸術性についての雑感を述べたいと思います。僕は同様にヘッセの芸術論を小説に適応できると考えています。即ち「魂の像」なき小説に芸術性を認めることはできません。「魂の像」なき小説は文学的娼婦であり、読者や文壇を喜ばす技術はあれど愛はなく芸術に奉仕するものではないと僕は考えています。
 次の水底さんには時事的なことよりも個人的な興味事について自由にお話していただけると幸いです。

えすてる

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