解放のあとで 六通目 β

2020年7月19日 

 幸村さんの書簡を読ませていただきました。コロナ禍においての「自粛」とヒステリーの症例として紹介される男の「自粛」の類似点は非常に興味深く思いました。家政婦に鍵を委ねる行為が「自粛」を望みつつも行政に判断を委ねる市民の姿と重なる点もなかなか面白いです。
 さて新型コロナの話は早々に切り上げて、マイノリティ的未来を思考することの可能性や意義について言及していきたいと思います。マイノリティ的未来は二種類に分類できると思われます。
 第一に技術的マイノリティな未来。これは現在の科学技術を鑑みて実現度が低い未来を指します。『ドラえもん』に登場する21世紀の生活は分かりやすい例です。空飛ぶ車がビルとビルの間を走るサイバー都市。ドラえもんのような自我を持ったロボットが人間と共に生活する未来。タイムマシンが存在する世界。いずれも現代の科学技術では実現不可能な世界ですが、何百年後かに技術的に可能な世界が到来するかもしれません。つまりマジョリティ的未来が現在の延長線上にある未来であるのに対して、現在と断絶のある未来が技術的マイノリティな未来です。断絶の架け橋には全く新しい科学技術を必要としており、いかに多くの人がSFなどを通してその技術的マイノリティな未来を共有しているとしても、根底にそれが「フィクション」という意識つまり断絶に対する諦めが存在するという点で、やはりマイノリティ的未来と言うことができます。一方でSFを中心に描かれた技術的マイノリティな未来は科学技術の発展に寄与してきました。ARやVRの技術はSFからインスピレーションを得て発達してきたし、より具体的な例を挙げるなら、映画『ターミネーター』で登場する液体金属で作られた殺人ロボットT-1000に着想を得て、中国の研究者は自在に形状を変化させることのできる液体金属で作られたロボットを開発しました(もちもん殺人ロボットではなく人の立ち入れない場所での人命救助や病気治療を目的としたロボット)。このように技術的マイノリティな未来の提示はより明瞭に科学技術の断絶を意識させる一方で、発想の断絶を越える―発想されることのなかったものを考えさせる―こと自体が科学技術の断絶を越えるインスピレーションになり得ます。
 第二に信条的マイノリティな未来。現状マイノリティな価値観、思想、主義、イデオロギー、集団が拡大した未来を指します。マジョリティな信条が社会を支配しその社会構造を決定づけている一方で、マイノリティな信条は社会から差別や抑圧あるいは無視されてきました。そのため信条的マイノリティな未来を思考すること自体が現在のマイノリティの救済であり、マジョリティ的未来に影響を与える、延いては変容させることができる可能性を秘めています。
 ここで写真家森山大道氏の言葉を引用したいと思います。

「過去はいつも新しいという謂は、カメラマンであれば当然の日常感覚であり、未来がつねに懐かしいという謂も、きたるべき未知の時間や風景は、いま街角の片隅のそこそこに、予兆となって浮遊しているという日ごろのぼくの実感である。」


私はこの言葉に趣味で写真を撮っている一人として強く共感しました。「過去はいつも新しい」と森山氏が述べているように、写真フォルダを見返していると写真は新鮮なものに感じられ、思わぬ新しい発見が多々あります。私は「写真を見る」と視点の存在を意識させられます。その風景が見える視点はもちろん写真には写りませんが、想起することによって一人の撮影者ないしは視点(レンズ)が立ち現れてきます。視点には意志あるいは幽玄的な心の機微が宿っており、「写真(風景)を見る」ことでそれに触れることができます。写真を撮る時の視点と写真を見返す時の視点は変化しているので写真(過去の風景)をいつも新しく感じるのではないでしょうか。これはスマホの写真フォルダを見返した時、昔の文章を読み返した時、新たな自分を再発見するのに近い感覚と思われます。
 では「きたるべき未知の時間や風景は、いま街角の片隅のそこそこに、予兆となって浮遊している」とはどういう意味なのでしょうか。私は「浮遊している」ものを「時間」「想い」「用」に分けて解釈しました。「時間」は欠けたコンクリート、変色した壁、無造作に伸びた雑草などの風化していく物質や風景、あるいは高層ビルや電柱がない風景などの進歩的な風景に感じることができます。「想い」はいたる場所に風景として現れています。壁に殴り書きされた落書き、家の前の花壇、置き捨てられたアルコール缶、積んでいる段ボール箱。行き交う人々の言動もその一つです。「用」は役割、はたらきという意味で「用」を具現化したものに看板や照明、電柱などが挙げられます。この三つの視点を通して未来の風景が予兆として浮かび上がってくるのだと私は考えました。「時間」はその風景の向かう場所(過去であるか、未来であるか)を教え、「想い」は何が残り、何が消えるのかを教え、「用」は人(風景)の必要なものを教えてくれます。「用」は基本的にいつの時代も変わらないので、「複数としての未来」風景を考えるのなら、街角の片隅に浮遊している「時間」と「想い」に目を向けるべきなのではないでしょうか。そして私はこの二つが「美意識」に根差すもので、「美意識」を再考することが未来を構想することに繋がると思っております。
 最後に「身体性」について触れたいと思います。コロナ禍において仕事や勉強、娯楽などあらゆるものがデジタルへ移行しました。デジタル移行によって「身体性」の重要性が意識されるようになりましたが、私はむしろ「身体性」がコロナ以前から喪失していたことに気づかされました。そもそも「身体性」とは何でしょう。「身体性」を定義することは難しいですが、ここで単に官能としておきます。私は「身体性」について考えた結果、現代社会において官能が常に外側にあると気づきました。例えば、エアコン。温度調節機能がエアコンに委ねられています。時計には時間が委ねられています。スマートフォンは様々な情報にアクセスできるので官能の集合体とも言えます。私たちは便利さや快適さと引き換えにもともと身体に備わっている機能を外部化、機械化することによって行為主体感つまり「身体性」を喪失してきました。主体が外部にある危うさは自己の存在を透明化させ、「身体性」即ち「生」の実感を奪い去ることにあります。
 ところで最初に「身体性」に言及した人は荘子ではないでしょうか。「荘子」外篇・天地第十二に次のような言葉があります。

「機械有るものは必ず機事あり。機事有るものは必ず機心あり。機心胸中に生ずれば、則ち純白備わらず。純白備わらざれば、則ち神生定まらず。神生定まらざる者は、道の載せざるところなり。」


機心というはからいのある心があると「純白」ではなくなり、機械に頼るとその成績にのみ心を囚われるというのが大まかな意味です。荘子は心身ともに「道」と一体化することを重要視していたので安直に「身体性」についての洞察と言うことはできませんが、主体が外部にある機心の不自由さを十分に伝えてくれます。
 そして身体性の喪失の先にあるものが季節感の消失です。季節感というのは官能の産物であり、機械は季節を情報としてでしか認識できません。「身体性」や季節感を失った人は花見、花火、海水浴、お月見、スキーといった季節行事(イベント)を楽しむことで季節の追体験しているのではないでしょうか。花火や海水浴で夏らしさをセルフプロデュースしているのが現代人です。海水浴やスキーがレジャーとして普及したのは20世紀に入ってからで、季節の追体験という現代人の要請が消費活動として結びついたと言えるかもしれません。
 次のYoshiokaさんには写真を撮ることについて伺いたいです。Yoshiokaさんの撮った写真はTwitterで拝見しておりますが、色彩の映え方がとても綺麗だなという印象を持っております。Yoshiokaさんにとって写真を撮るという行為がどういった意味を持つものなのか、またシャッターを切るのはどういったタイミングなのか是非お聞きしたいです。

えすてる

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