解放のあとで 十四通目 β

幸村さんへ

 僕が綴る書簡はこれで最後です。今月で書簡「解放のあとで」は終わり、毎週二通の書簡がインターネットの片隅に投函されるのを楽しみに待つことがもうなくなるのだと思うと寂しいですね。思えばこの書簡が始まったのはコロナが最も猛威を振るっていた時期と記憶しています。未知のウイルスに戸惑い、恐怖と不安が覆った社会では情報や信条、感情が錯綜し人々の対立が目立ちました。その中でさまざまな社会問題が表面化し、混沌とした感情の坩堝に僕たちは放り込まれました。多感にならざる得ない状況下で書かれたこの書簡は個人の心に刻まれものが生乾きの油絵具のように生々しくその筆の痕跡が如実に残っており、どれも読みがいのあるものでした。書簡「解放のあとで」に参加し、拙い文章ながらも皆さんと一つのキャンバスを描けたことを嬉しく思うと共に感謝しております。

 さて書簡を書くのも最後ということで感傷に浸っておりましたが、幸村さんへ書簡の応答をしなければなりませんね。まず幸村さんの子供向けアニメの着眼点に驚かされました。僕は言及されているアニメの中でアイカツ、それも一期のみしか観たことがありませんが、脱中心化しつづける価値がアイドルの「個性」として、奇面組の「笑い」として表現されているのは面白いと思いました。また男児向けアニメの特徴として「明らかに誤ったもの」に一元的な価値を置くことを述べられていましたが、これは非常にエキサイティングかつロックな考えではありますが、現代社会の成立と共に淘汰されてきたように感じます。該当するものとして騎士道、武士道、粋、ヒッピーなどを挙げることが出来ますが、いずれも旧世代の価値観であり、一般的な現代の価値基準からすれば、多くの人がこれらの信条を胸に抱いて生きていたことは信じ難いです。個人の生死すら管理される清潔な合理主義が行き届いた社会において、致し方ない結果であるように思えます。

 ところで最近では画一化する価値観に警鐘を鳴らすが如くして「多様性」が謳われています。しかし「多様性」は価値の均質化つまりあらゆるものに価値がない故にあらゆるものに価値があるという逆説的な言葉である(と僕は考えている)が、市場原理から避けられないためか「多様性」を語るとき「違っている方がよい」というシニカルな、それこそ「笑み」を浮かべる立ち位置にいることが多いように感じます。「自然」は人間の計らいによって価値の順位付けが行われていますが、本来等しく価値がなく等しく価値がある「多様性」が権化したものであります。聖書に下記の記述があります。
And God saw everything that he had made, and, behold, it was very good.
「このグッドは善悪の善でもなく、好醜の好でもない。すべての対峙をはなれた絶対無比、それ自身においてある姿そのものなのである。」と鈴木大拙は言っていたが、まさに「多様性」とはこのことです。「多様性」について考えなければならない今こそ「自然に帰れ!」と言うべきかあるいは東洋的な地平が開けてくるのではないでしょうか。

 幸村さんが『全ての前衛はあらかじめ失敗を約束されているとも言えるでしょう。しかし、それでも失敗が逆に成功に転じるような、「差異」を少しでも生み出すことができればそれは前衛と呼べるのではないか』と素敵な表現をされていて、僕はこれ以上の言葉を見つけることができません。ただ、一つ文学において前衛が失敗する理由を述べるとしたら、それは言語の硬直性にあるように感じています。文学は読者と共に歩むものですから、懇切丁寧な説明なしに突拍子もない描写をすることは出来ません。そのため映像表現のような純粋なインパクト(暴力)を残すことができず、言語の呪縛と言うべき表現の不自由さが目立ちます。その硬直性を打破するために新規の言語を作ったり、文語体と口語体を混ぜたり、敢えて形式をつくってからそれを着崩したりとさまざまなことが行われてきました。僕は曲がりなりにも今回前衛小説を書くにあたってモチーフとしたのが禅文学です。「不立文字」と言われている禅において禅文学は一見矛盾した行為です。しかし何よりも禅文学は言葉の硬直性に真正面から挑んでおり、西田幾多郎の言う「絶対矛盾の自己同一」つまり「Aは非Aだから、それ故にAである」と言うことによって、存在を解体し肯定的なエネルギーをもって再構築しています。創造的破壊。「解体する文学」に誂え向きだ!物語の不連続性による連続性、主人公の解体、描写のキリトリ、、、完成前に自分の作品を解説していることの可笑しさに笑ってしまいますが、腕を振るって「解体する文学」の名に恥じない小説を書きたいと思います。

えすてる

 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?