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閉鎖病棟の窓から、青空を見てた

つい、かっこつけた文を書いてしまう。
賢く思われようとする心。
教えたがろうとする心。
慰めてもらおうとする心。
全部バレバレ。

本当は、ちゃんと、伝えたいことがあるんだ。

私は、心をひどく痛めたことがある。
「詰んだ」「ドロップアウト」「負け組」。
そんな風に言う人もいた。
「あの人は、もうおしまいだね」と。
直接言われなくても、言われているような感じがした。

それでも、私は、回復した。

皆に伝えたいことがある。
嘘をつかないで、と。

何年も考えて、気がついた。
今からそのことを書きたい。リアルに。

受け取ってもらえるかどうかわからない。
それでも、投げる。
伝わって、くださいと、願いながら、まっすぐ投げる。

私は、精神的に一度死んだことがある。生き返ったとき、感じたことがある。その話をする。特殊な体験で、自分とは全く関係がないと思うかもしれないけれど、「苦しい」「空しい」「生きにくい」と感じたことがある人なら、通じるものがあると思う。

28歳の時、クリスマスまでの二週間を、閉鎖病棟で過ごした時の話だ。

少し話が長くなる。短くしようとしたけど、これ以上削れなかった。目次から、気になる所を読んでもらうだけでも嬉しい。

私について
ライター。1977年生まれ。大学卒業後、東京で編集者として働き、現在は、出身地の千葉に戻り、築50年の実家をリフォームして、夫と猫四匹と暮らす。童話とエッセイを書く。草の花を愛す。


心が死ぬ時

当時、私は、東京の編集プロダクションで、働いていた。担当していたのは、ガーデン雑誌。全国の個人邸の庭をたずね、ガーデンデザイナーや施主に話を聞いた。

会社のある三階建てのマンションは、「不夜城」と呼ばれていた。日中の業務が終わると、寝袋で仮眠をとる。そして、静かになった会社で原稿に向き合う。疲れると、神楽坂の銭湯に行った。自転車で頬に夜風を感じながら、カラカラと音をさせて、坂を下っていく。会社に戻り、また、書いた。本づくりに打ち込む日々は、楽しかった。

風向きが変わったのは、親しくしていたカメラマンKさんの死だった。そのカメラマンとは、庭の撮影にずいぶん行った。Kさんはとても楽しそうに撮影をする。ファインダーをのぞき、微笑むと、目じりに皺がきゅっと寄る。そんな彼がカメラを向けると、相手も微笑む。

気心が知れて二年経ったころ、取材先でKさんに異変が起こった。冷たい霧のなか、伊豆高原のペンションの庭での撮影中、胃痛を訴えて倒れたのだ。指先も唇も冷たかった。ただ事ではない気がした。

帰京後の検査で、スキルス性の胃がんであることがわかった。手術の日に私が見舞うと、手術中のはずのKさんが病室に戻っていた。開腹したけれど、手の打ちようがないほどがんは進行していて切除手術ができなかったのだ。

治らないとわかると見舞いの足が遠のく人もいた。しんどそうな姿を見るのがつらいという気持ちもあったのだろう。彼の家族も中々来られないと聞いた。覚悟を決めなければいけないと思った。やるなら、最後までやろう。

仕事帰りに、毎晩、東京から新横浜まで見舞いに行った。病院の前に川が流れていて、夕暮れ時、川沿いの道を、日産スタジアムに向かってアイドルのうちわを持った女の子がはしゃいで歩いていく。彼女たちとすれ違いながら、病院に向かって歩く。

見舞いに来た人は、私にそっと、「Kさん、がりがりになっちゃったね」と言った。でも、私には、そんな風に見えていなかった。いい顔をしているなあと思っていた。Kさんは、私に「自分を撮ってみろ」と言い、写真を教えてくれるようになった。「見舞い」ではなく「レッスン」という言葉がふたりとも救いだった。

Kさんを撮りながら、死を見つめて並走した。亡くなったとき、彼に寄り添った代償として、わたしはがりがりに痩せてしまっていた。

なぜそこまでしたのか? 若かったから? はじめて身近な人の死に直面したから? 今となってはわからない。

悔いはなく、見送ったという安堵感があった。
すこしゆっくりしようと仕事もセーブした。
ところが、ひと月が経った頃、私はおかしくなった。

閉鎖病棟への緊急入院

その頃、アパートで恋人のJと暮らしていた。12月、夕焼けの街でそれは起こった。悲鳴のような赤に浸りながら歩いていた。そんなイメージが残っている。

マンホールの上にキラっと光っているものを見つけた。駆け寄ると、五円玉だった。何となく「私に何かを知らせたかったのかな」と感じた。マンホールには、亀が2匹、水瓶を支える絵が浮き彫りになっていた。「なるほど、これを五円玉は知らせたかったんだ」と合点した。「近く、大洪水が起こる。亀と私がそれを食い止めている。私は救世主なんだ」と、閃めいた。限界を超えた脳がつくりだした幻想だった。

家に帰ると部屋に閉じこもった。飲まず食わずの不眠不休で、救世主を務めた結果、駆け付けた両親に、車に詰め込まれ、実家のある千葉へ強制送還させられることになった。

私は、Jに、「またね!」と言った。来世で会えたらの「またね」だった。私は出来損ないの救世主だった。世界はもうすぐ終わる。私の覚悟を知らず、Jは優しい顔で笑っていた。安心させたかったのかもしれない。

車は、ガソリン臭くてたまらなかった。エンジンの音は、爆音。窓から見える街の明かりが眩しくて目を開けられない。五感が獣のように鋭くなっていた。人間は、にぶい、と思った。現代社会に暮らすうちに、鼻が耳が目が退化してしまったんだろう。高速道路にひしめくテールランプの洪水は、神々の怒りを象徴しているように思えた。私は、パニックになり、手足をばたばたして暴れた。両親はそのまま救急外来に駆け込み、閉鎖病棟に緊急入院することになった。

言葉をなくす

強い鎮静剤を打たれたのか、それから数日間の記憶はない。朦朧とした意識の中で、両親が見舞いに来てくれたのはわかった。
「ゆうこ~」と呼びながら、顔をなでまわしてくれた。

「生きてはいるけど、ゆうこじゃない、ゆうこがどこにもいなくなっちゃった」と言って、母は泣いた。後に、父からそう聞いた。その時の母を思うといたたまれない。

自分が瓦解して、赤ちゃんに戻ってしまったようだった。言葉を紡ぐことができなくなっていた。

例えば、「眼鏡を持ってきてください」というその一言が出ない。アパートから連れ出す時、私が抵抗したので、正気に戻そうと、父は、「すまん」と言って頬をぶった。その時に眼鏡が吹き飛んだままだった。近視が強いので、目がほとんど見えなくて、トイレも行けない。「何でひとりでトイレに行けないの」と看護師さんに言われても、説明できない。

最初の記憶は、看護師さんに、スプーンでおかゆを食べさせてもらっているシーンだ。フェルメールの絵画のような色調。野生の獣が人間の食べ物を受け付けないように歯を食いしばり、おかゆが口からこぼれた。

閉鎖病棟の窓から見た青空

私は、不思議な世界の中にいた。

様々な物事が、関係しているように思えたのだ。例えば、赤いパジャマを着ている人は、「赤信号」だから、危険。近寄っては危ない、などまるで連想ゲームみたいに思考がつながっていく。幻聴が聞こえていたわけではなく、何となくそう感じるのだ。

保護室はしんどかった。
まだ、洪水が来て世界が滅びると信じ込んでいたし、手足は拘束されていた。「誰か来てくださーい」と叫んでも、誰も来ない。そう言ってると思っていただけで、うめき声しか出せていなかったのかもしれない。

保護室の小さな格子窓から、青空が見えた。
不思議と、何日も何日も、雲ひとつない、真っ青な空。

空は、私に言ってくれた。

「青信号」、「だいじょうぶ」、「進め」。

そう、感じた。

きっと、だいじょうぶだと、思えた。

生き続ける努力を手放して生き返る

ここまで読んで、「なんて悲惨なんだ」と思ったかもしれない。でも、意識を取り戻した私が感じたのは、「解放感」だった。

大部屋の窓際のベッドにいた。午後の柔らかい光の粒が、黄色いカーテンの中に満ちていた。

私は、枕を背もたれにして、空っぽの心と体で、ほっとしていた。

もう、がんばらなくていい。

ある意味、閉鎖病棟は、デッドエンドと言えた。普通の人生からドロップアウトした感があった。

ああ、清清したと、思った。

悔いなく見送ったKさんを思い出すことはなく、それまでの人生を振り返っていた。結局のところ、未来を良くするために頑張ってきたんだなと。高校受験、大学受験、就活、入社したあとはもっといい会社への転職…頑張らなければ手に入らなかったものがたくさんあった。でも。

「未来」のために、「今」を犠牲にしていなかったか?

ここまで来たら、もう、好きなことだけすればいいじゃないかと思った。そう思ったら、枯れていた心の泉に水が湧き出し、小さな魚がぴょんと跳ねた。子どもの頃、大好きだったことをした。絵を描いて、詩や物語を書いた。大人になるにつれ、やめてしまったことが、しみじみと楽しかった。なんだ、こんなことがしたかっただけなんだな。

誰に頼まれたわけでもないのに、頑張っていた。親の期待もあっただろう。「あなたのために」という優しい言葉が寄り集まって、硬くなって、私を閉じ込める鳥かごになっていた。それを切り裂いて飛び出さないのは、「皆に認められたい」という欲だった。本当にやりたいことは、口に出せなかった。

それが、誰の役に立つんだい?いくら儲かるんだい?

誰に言われたわけでもないけど、そう言われる気がしていた。自分がいちばんそう思っていたのかもしれない。

誰も手足を縛っていない。鳥かごの扉は最初から開いていた。

いつでも自由になれるのに、自分で自分を縛り付けていたことに、気が付いた。

カーテンを開けると、窓から、木々の梢についた雫が輝いているのが見えた。その向こうには、青空。世界は、こんなにきれいだったんだなあと思った。

世界は、いつでも輝く「用意」がある。
そのことに気づけない私だっただけ。

誰だって、いつだって、空を自由に飛べる。

閉鎖病棟の日常

大部屋には、6床あり、私のほかに、60代くらいのNさんと50代くらいのOさん、YちゃんとMちゃんという高校生がふたりいた。明るい茶髪でギャル風のYちゃんは、幻聴があり、入院していた。Yちゃんは好奇心旺盛。目をきらきらさせて質問ばかりする。
「ねえ、Oさんも旦那さんと手を繋いだの?キスをしたの?」
Oさんの見舞いに来た旦那さんが帰ったあと、質問するYちゃん。
「さあて忘れたねえ」ととぼけるOさん。
「やめなよ。Oさん困ってるじゃん」
Yちゃんをいさめるのは、ロングヘアの手入れに余念がないMちゃん。退院間近なので、皆の面倒を見てくれるしっかり者だ。
「ねえ、ゆうこさんも手を繋いだことある?キスもした?」
Yちゃんの攻撃が私に向いた。
「Yちゃんもあるんでしょ」
と、反撃すると、Yちゃんは、「えへへ」と、子どもみたいな笑顔ではにかんだ。

怖くて部屋を出られず、トイレに行けないでいると、「一緒に行こ!」と言って看護師さんが腕を組んで、「いっちにぃ、さんしぃ」と元気よく掛け声をかけて連れて行ってくれた。

精神科の閉鎖病棟と言えば、叫んだり、暴れたりする人、患者を人とも思わない医師や看護師のイメージが強いかもしれない。けれど、私が滞在した時の記憶では、どこか皆かわいらしかった。

ところが治ってくるにつれ、何となく皆が変に思えて怖くなってきてしまった。先生にそのことを話すと、「そうでしょうね」と言い、退院の許可が出た。退院が決まったことを皆には隠していた。何だか裏切り者になった気がして。皆、口々に、別れを惜しんでくれた。今でも、Yちゃんや皆はどうしているかなと思うことがある。その後、私に幻想がおきることはなかった。

傷つかずにはいられない、傷つけずにはいられない

わたしは、いったい、どうしたら、よかったのか?
どこが道の分岐点だったのかと考えることがある。

ただ、振り返っても、あれ以上できなかったな、と思う。

結局のところ、生きていれば、傷つかずにはいられない。傷つけずにはいられない。

大前提として、命は、命を奪って生きている。

食べなければ生きてはいけない、食べられなければ生かすことはできない。

誰にも迷惑をかけたくない、誰も傷つけたくないと願ってもかなわない。

何もかもなければ、傷つくことはなかったが、時間をさかのぼっても、私は、同じように、するだろう。

傷ついても、「愛」を感じたいと願うだろう。

「心」という臓器はない。
心=脳だが、しっくりこない。
心は、脳と世界の狭間で、響きあい、軋み、削られて、スパークする。

傷つくことは、心を磨くこと。

今はそんな風に思っている。

当時の私を知る人に、「どうして、変になっちゃったの?」と聞かれたら、こんな長すぎるストーリーじゃなくて、「好きだったからだよ」と、答えると思う。

普通じゃない称号がほしかった無の日々

映画じゃないから、退院してめでたしめでたしにはならない。

痛めた心身を完全に治すには、10年かかった。
その間、感じやすい心を鈍感にする薬を飲んだ。
いつでも眠い。
太りやすい。
ピント外れなことを言ってしまう。
何だかのろまになった気がした。

あんなに輝いた世界は、どろんとした厚い雲に覆われてしまった。

ずいぶん人が離れていった。
心の病気は外からわかりにくい。
性格が変わってしまったように見えただろうから仕方ない。

Jとも離婚した。
アパートを引き払う日。「編集者の頃は、かっこよかった」と言われた。
過去形に泣けた。

玄関で、さよならと言うと、「またね、でしょ」と言って困ったように笑った。付き合ったとき、別れるときは、またねと言おうと決めていた。もう一度、さよならと言って別れた。

満足に働くことができないまま、日々が過ぎていった。何とかしようといろいろなことをしたが、続かない。凪だった。

世間は、人より劣った「普通じゃない人」に厳しい。「普通じゃないこと」を肯定するために、「普通より優れた称号」がほしいと焦っていた。離れていった人を見返したいという気持ちもあった。いろいろな職種を試し、ハンドメイドのお店を開き、国家資格も取得した。でも、どれもピンと来ない。

ある日、見返したいと思っていたひとりが、権威ある賞を受賞した。でも、私はその人を「普通より優れている」と思うことはなかった。その時思った。

復讐のために生きるのは、しょうもないな。

自分についた嘘に騙される

最近、ふと、気がついた。
苦しかったのは、自分に嘘をついていたからだと。

10年間、「私」は、迷子になっていた。
本当に、「やりたいこと」も「やりたくないこと」もわからなくなっていた。

「好きに生きなよ」「やりたいことをやりなよ」と、よく言われた。「やってるよ。楽しいよ」と答えても、相手は微妙な顔をした。「本当に」楽しんでいないことを見抜かれていたのだろう。

当時、もがきながらしたことを、「本当に」「私が」願ってしたことだったのか?と問われれば、今なら、「違う」と答える。

自分につく3つの嘘の見抜き方

自分で自分に嘘をついた場合、騙されていることに気づけないことが、厄介だ。「自分につく嘘」は、どんな「嘘」なのか、よくよく考えて、分類してみた。

自分につく嘘とは、不足、過剰、主語が他人

例えば。

不足の嘘
例:全然疲れてないよ!
限界、もう寝たい

過剰の嘘
例:すっごく可愛い~
そこまででもない

主語が他人の嘘
例:(お母さんが喜ぶから)結婚したい
括弧を自覚せず、あたかも「私が結婚したい」と思い込んでいる。

自分に嘘をつき続けると、「本当にしたいこと」「したくないこと」の境が不明瞭になり、迷子になってしまう。

「本当の言葉」を取り戻すために私がしたのは、とてもシンプルだ。

「正確」に話す

これだけ。

正直すぎると人を傷つける。
本質を語るのは難しすぎる。
だから、「正確かどうか」に注目する。

注意深く検分するのだ。
「本当に、私は、そう思っているのか?」と。

心にも思ってないことを言っていないか?
苦しいのに無理して飲み込んでいないか?
誰かや世間体のために、しようとしていないか?

この文章もそう自分に問いかけながら、何度も何度も直して書いた。

ちょっと大変なようだけど、これを続けると、どんどん自分らしくなっていく。楽に気持ちよく生きられる。

もう誰にも、嘘をつきたくはない。

「こんなこと、どう思いついたの?」と友達に言われたけど、自分でもわからず、「何となく」と答えた。

でも、そのあと、過去に書いたエッセイを読み返していて気が付いた。
Kさんについて書いたエッセイだった。
Kさんは、私に写真を教える時、こう言った。

下手くそなんだから、いいと思ったらシャッターを押す。それだけでいい。嘘をつくな

ああ、これだったのか。
とっくの昔に言われていたんだなと思った。
その時は、何とはなしに聞いていた。
「ふうん、それはそうでしょ」と。
でも、全然わかっていなかった。
やっと腑に落ちた。理解できた。

嘘をつかないだけでよかった。


たったひとつのことを知るのに、20年かかった。

ああ、疲れた。

もう、味がしなくなったチューインガムをいつまでも噛むのはやめる。

私は、先に進もうと思う。

今しか書けないと思って、書いた。

皆に伝えたかったんだ。
嘘をつかないで、と。


シリアス過ぎたらごめん。
もっと、クスっと笑える話が、出来たらよかったんだけど。

2024年6月28日
大谷八千代


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