mother's history を、著していきます。
mother's history No.4
亡き妻のことを、昔から時間を追って書いていきます。
時々、時代が前後するかもしれません。でも、これは恥でも何でもないと思っています。記憶に頼っているので。
これは、家族以外誰もが知らなかった、妻の真の姿を知ってもらうことにより、私が彼女の名誉のために出来る、最後の罪滅ぼしの仕事だと思っています。
その姿を思い浮かべながら読んでいただくと、とても嬉しいし、そのことが彼女に対する最大の供養になるものと信じています。
既に著した3作品
mother's history No.1 今はクラゲのように、明日は雲のように!
mother's history No.2 それほどまでに、していたのに・・・
mother's history No.3 毘沙門天様を残して、妻は逝ってしまった・・・
は、このように追記しておきます。
子供が生まれてからは、妻のことを私は「お母さん」と、どこの家にもあるような呼び方をしていました。
妻が通学していた高校は、朝日町というところにある「県立丹生高校」だ。家からかなり離れた所にある、乗り込む電車の駅は「陶の谷」というところだ。この駅までを徒歩、または自転車で行ったと聞いている。朝食もそこそこに、駆け出して行った苦労を何度も聞いたことがある。
今は、廃線になっている福井鉄道という私鉄の線だ。鯖江~織田までのこの線は廃線になって久しい。
そのとき、父も鯖江の小さな工場に努めていたので、同行したのかどうか。ひょっとして、自転車で通勤していたのかも。
高校での話を、一つだけ聞いたことがある。
美術の先生の話だ。
後で、越前陶芸村が出来る時に、ちょっと有名になった先生がいた。陶芸が本職で美術に造詣が深いと言われた、水野九衛門先生だった。
余りぱっとしない、田舎のおっちゃんだよと言っていたっけ。
芸術家とは、所詮そんなものだよと相槌を打っておいた。
この先生、あとで分かったことであるが、鯖江の造り酒屋の次男坊だった。実家の更に奥の、熊谷という日のあまり当らない暗い集落に養子に来たらしい。
既述のように、妻の家族は6人だった。
長兄は、これまた陶芸に遠の深い越前陶芸村の窯業試験場というところで試験員として勤めていた。農業を生業としない新所帯から始まった山本家は、長兄の公務員勤務で少し生活が楽になったように見えた。
そのころ、妻は高校を卒業して、望んだのかどうか知らないが、大阪の百貨店専属の和裁学校に入っていた。母が女の子は手に何か職を持たせないといけないと言って、和裁の道に進ませたと聞いている。母も和裁が好きで常に縫物をしていた姿が今でも思い浮かぶ。。
妻が、果たしてこの道を満足していたのかどうか、知る由もないが。綺麗な仕事をしていたのは事実である。
何度か、仕事として縫物の注文を持って行ったことがあるから分かる。
私は、その時呉服屋を営んでいたのだ。その縁が彼女を結び付けたのだが。
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