希望も絶望も制約も、大抵は自分の心が決めるものだから

僕は、ネガティブに考えやすい人間だと思う。

小さなことでクヨクヨする。仕事で問い合わせに回答した後、会話の内容を反芻して「ああ、こう言えば良かった。失敗したな。」と小一時間引きずることも少なくない。


振り返ると、絶望しやすかったな、と思う。大学受験で浪人した時も、もうこの世の終わりであるかのように、毎日毎日「もうだめだ...」と思っていた時期があった。

就職してからは、少し仕事が立て込むだけで「終わらない..どうしよう。」「これくらいの仕事も片付けられないなんて、自分はダメだな」と思っていたし、営業の数字が上がらない時期は昼も夜も、絶望感に囚われていた。


僕は思い込みが激しくて、自分で自分を縛りやすい人間だと思う。

高校時代は、いわゆる「自称進学校」に通っていて、偏差値が高い大学に行かなくては、と考える節があった。
勉強は「やらなきゃいけない」もので、勉強をしていない時間は無意味かのように思っていた。
大学の時は、世間的に「良い」大学を出たんだから、よく知られて世間的に「良い」とされる組織に就職しなくてはいけないと思い込んでいたと、今になってみると思う。
そして今は、「30代から新しいチャレンジをしても、これまでに経験を積んできた人には敵わないんだから、意味がない」とか、「会社を辞めても、行くところはない」みたいな思いに、どこかで囚われていると思う。
日常生活でも、誰が決めたかわからない「常識」や、本当は従わなくてもいい「ルール」で自分を縛っている。


そんな風にして生きてきたけど、最近、そんな自分に疑問を感じるようになってきた。

これまで何度も「もうダメだ」と思ってきたけど、実際にはなんとかなった。
「お先真っ暗」と思っても、日々をこなしていけば、意外と楽しい未来を迎えることができていた。
「もうダメだ」というのは、自分の頭が勝手に決めつけたことで、実際には全然ダメじゃなかった。

あれ、僕ってもしかして、必要以上に心配をして、不安になって、自分で自分を息苦しくしていただけなんじゃないか?と思えるようになってきた。


大人になって広い世界を見渡すと、自由に楽しんでいる人がたくさんいた。
大学卒業後、料理に目覚めて小さなお店を経営している人。50歳を過ぎてからピアノを始めて人前で演奏している人。会社を辞めて、新しい畑に行っていきいきしている人。
そんな人たちをたくさん見て、自分が自分に課してきた制約が、馬鹿馬鹿しく思えてきた。「この年になったら○○はできない」とか、「こうしなきゃダメだ」みたいなことは全然ないじゃないか、と思えるようになってきた。


希望も絶望も、制約も、自分の心が勝手に決めていたものじゃないか。

目の前には、単なる事実しかない。
その事実を「良い」と感じるか、「悪い」と感じるかは、自分の心持ちの問題だ。
自分が前向きに捉えれば、事実は「希望」になるし、悪く捉えれば「絶望」になる。

なにが「成功」で、なにが「失敗」かを決めるのも、自分の心持ちの問題で、失敗を失敗だと思うのは、自分の思い込みでしかない。

「自分にはできる」と思えば大抵のことは実現できるだろうし、「自分にはできない」と思えば、簡単なことですらできなくなる。
もちろん、置かれた環境とか、体力とか、センスとか、得意不得意とかの資質は人によって異なるから、なんでもできるわけではないけど、それでも自分の心持ちと努力次第でなんとかなることは、意外と多いんではないだろうか。


この手の話は巷でよく聞くけど、ようやく、自分の中で実感を伴ってきた。


希望も絶望も制約も、大抵は自分の心が決めるものだから、これからは自分で希望を選び取り、自分で勝手に作った殻を破っていきたいと思う。