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きっと、何も、終わってはいない

先日、ばあちゃんの1周忌だった。ばあちゃん、というのは、夫の祖母のことだ。自分の祖母のことは「おばあちゃん」と呼ぶけれど、夫の家族はみんなばあちゃんのことを「ばあちゃん」と呼ぶので、私もそう呼んでいる。

ばあちゃんは大正生まれでもうすぐ100歳というところまで生きた。いつも明るくて、おちゃめで、食欲旺盛で、90代になってもビールを飲んだ。

夫の実家に帰省すると、ばあちゃんの話し相手になるのが私の役目で、いつもご飯の準備を待つ間、ばあちゃんと私はずっと話をしていた(というか、ばあちゃんが9割話した)。ばあちゃんは少しずつ記憶が曖昧になってきていて、帰省するたびに同じ話を繰り返ししてくれるのだけれど、その大半が、生まれ故郷の町のことと、戦争の時のことだった。

終戦の時、ばあちゃんは、まだ幼かった娘(つまり夫の母、以下義母)と満州にいたこと。じいちゃんは出兵していたこと(そしてソ連の捕虜になり、シベリア抑留を生き抜いて、戦後しばらくして帰ってきた)。引き揚げ船に乗るために、義母をおぶって死に物狂いで逃げたこと。途中で義母がさらわれそうになって、必死で取り戻したこと。義母が高熱を出したけど、軍医さんの知り合いがいて、九死に一生を得たこと。ばあちゃんもその時高熱を出して、あまりに苦しくて、持っていたハサミで喉を突いて死んでしまおうかと思った夜があったけれど、苦しすぎてハサミを入れていた荷物のところまでたどり着く気力すらなくて生き延びたらしい。壮絶な満州からの脱出劇を、ばあちゃんは何度も何度も、行くたびに、私に教えてくれたのだった。

そういえば私の実の祖父も、90歳で亡くなる直前は、戦争の話をすることが以前よりも増えていた。祖父はシンガポールなど南方戦線の経験者で、生前ほとんど戦争のことは語らなかった。一度、一緒にシンガポールに旅行をしたことがあるのだけれど、その時もただ懐かしそうに目を細めるだけで、ここでどんな日々を送っていたのか、どんなことがあったのか、そういう話は一切しなかった。それが最期の1~2年、ほんの時折だけれど、戦争の話をするようになって、今まで祖父の中に深く深く閉じ込められていたものが、少しずつ、あふれ出てきている感じがした。

先日そのことを父に言ったら、そういう話を祖父は父にはしたことがなかったらしく、「やっぱり自分の子供には言いたくないこと、言えないこともたくさんあったんじゃないかな」と言っていた。

長い人生を生きて、戦後の人生のほうが遥かに長いのにも関わらず、そしてきっと楽しかったこともたくさんあっただろうけれど、歳を重ねて目の前の日常の記憶がぼんやりと曖昧になってきた時に一番鮮明に残っている記憶は、ばあちゃんも祖父も、戦争のことだった。その事実に、戦争というものがどれだけ深く、その人の人生に刻まれているのかを思い知る。

先日観劇したNODA MAPの「Q」の中で、「戦争が終わった日に、戦争は終わらない」というセリフがあって、それがいたく印象に残ったのだけれど、そういうことなのだ、きっと。

今日は終戦記念日。戦が終わった日。けれどきっと、あの戦争に関わった人たちにとっては、何も終わってはいないのだ。

そして今も世界のあちこちで繰り返される戦争の中で今まさに生きている人たちがいるし、教科書やニュース上では終わったとされている戦争とともに生きている人たちがいる。そのことを忘れたくはないな、と思った。

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