言葉の意味から考える”正義”と”悪”

 まずはじめに、私は言葉の”厳密な運用”にあまり興味がありません(学術論文やマスメディアによるニュース、政府発表のように正確さが求められる場合を除く)。

 言葉はコミュニケーションツールなので、より楽に、より多くの人に伝わればそれでいいと思っています。始まりが誤用であっても、定着した言葉は生き残っていき、正しくても使われない言葉は”死語”になります。

 たとえば最近見かけるようになった”永遠と”という言葉は”延々と”の誤用が発祥と思われますが、なんだか生き残りそうな雰囲気があるので私もそのうち使い始めるかも知れません。

 上記のように言葉というのは、きわめて民主的な(もしくは適者生存的な)ツールということができます。言葉に限らず、道具というのは常に合理的で自然な(そして無慈悲な)競争原理にさらされているので当然といえるかも知れません。

 さて、そのうえで表題にある”正義”と”悪”についてですが、これは言葉の意味を掘り下げて考えるとものの見方が変わる(かも知れない)、という現象の例として取り上げます。

 なぜ”正義”と”悪”かというと、それは私の職業が漫画原作者であり、職業柄よく読む物語の技法書の類には繰り返し”魅力的な悪役”の重要性が書かれていたからです。”悪役”について考えるには”悪”についての思考の補助線が必要だと思い、”正義”に対する理解は、そのさらに補助として使います。

 確かに、『ドラゴンボール』のフリーザや『ジョジョの奇妙な冒険』のディオ、『鬼滅の刃』の鬼舞辻無惨など、魅力的な悪役には物語を圧倒的に面白くする力があるように思います。

 「言葉をあえて厳密に検証してみるとちょっと面白いな」「言葉を扱う職業の人間というのは、こういうくだらない事に脳みそのリソースを使っているんだな」「そんな暇があるならとりあえず物語を書けばいいのに」などと思っていただければ幸いです。

 では説明していきます。

 まず、”正義”と”悪”は言葉としてだけ考えると、きれいに対立する概念ではなく、それぞれ”主張””結果”である、ということができます。

 ”正義”とは何か?

 これは古今東西、映画や小説、漫画やゲームなど様々なコンテンツの主題になってきたテーマですが、割となんとなく使っていることが多いように思います。だって”正しい義”って意味分からなくないですか?そこで、言葉の意味を分解して整理してみます。

 すると、”義”という言葉はググってみると”正しい道”、”利害を越えて条理に従うこと”、”公共のために尽くすこと”という意味を持つということが分かります。

 つまり、”正義”とは”みんなが正しいと思う道から外れずに従うこと”という意味だといえるでしょう。「正義の味方」という言葉は「ルールを守って生きているみんなの味方」ということができます。

 ここで、「”みんな”って誰?」「ルールって誰が決めたルールなの?」と突き詰めて考えると、「じゃあつまりそれは、あなたが正しいと信じているルールに従う”みんな”の味方ってことだよね?」という結論に落ち着きます。たとえば警察官というのは、”その国の法律に従って生きている人の味方”という意味で確かに”正義の味方”です。ただし、その従っている法律=ルールが絶対不変の正しさを持っているとは限りません。

 いまでは陳腐になってしまった「正義の反対はまた別の正義」というフレーズのように、正義が主張の数だけ存在してしまう理由もここにあります。不完全な存在である人間が定めたものの中に、世界共通、永久普遍のルールというものは存在しないからです。

 たとえば私は信仰を持たないので、宗教世界の正義を信じることができません。ですが(極端なたとえで本当に申し訳ありませんが)、ある種の信仰を持ったテロリストにとってはテロを行うことは神のため、それを信じる人たちのための”正義の戦い”です。たとえ同じ信仰を持っている仲間が迷惑に感じたとしてもです。

 ということは、結局のところ正義とは個々人の信じるルールに則った主観に過ぎず、あらゆる”正義”は主観に基づいて思い込んでいる”主張”に過ぎない、ということができます。

 この世界からあらゆる争いが無くならないのは、人間は主観から自由になることが絶対的に不可能で、ポジショントークを完全に廃することができないからです。また、”正義”を自称する人たちを私たちがどこか「うさんくさい」と感じてしまうのは、その”正義”が外部からの支持が得られるかどうかは社会的ルールに則った公益性に適っているかどうかによって判断されるからです。

 なので我々には現在のところ、「他者の正義(主張)を尊重しつつ、自分の正義(主張)を尊重してもらう、そんな世界が理想ですよね」以上のことが言えません。個々人が信奉しているルールが変われば正義も変わるからです。このまま最近よく言われる”多様性の尊重”という言葉の持つ意味についても考えてみたくなりますが、論旨が変わってしまうのでこの記事では置いておきましょう。

 さて、以上のような理由から、「絶対的な正義が存在しない以上、悪もまた存在しないのではないか」、という人もいます。はたして本当にそうなのでしょうか。

 結論から言うと、”悪”は存在します。

 最初の方に申し上げた通り、”悪”は”結果”、もしくは”よくない結果が予測されるもの”です。”悪”というのは”正義”と違って”主張”ではないんですね。

 ここで「”よくない結果が予測されるもの”ってなに?」と思った方であっても、「飲酒運転は”悪”である」と言われれば「確かに」と納得できるのではないでしょうか。そこに”主張”は存在せず、結果、または予測される結果があるだけです。

 悪というのは”正しくない”、”よくない”、”不道徳”、”法律に反する”という意味を持ちます。また、”みにくい”、”不快”、”不調和”、”不適当”という意味でもあります。

 こうして考えてみると、”悪”とは”状態”ということもできそうです。ではどのような”結果”で、どのような”状態”なのでしょうか。

 ここで、スケールの大小に応じて2種類の”悪”について考えてみましょう。

 大きいスケールの”悪”について考えるテキストは、デリケートな時事問題で大変恐縮ですが、コロナウィルスの流行に対する、ある国の対応についてです。

 私がこの記事を書いている現在(2020年4月8日)、世界中で新型コロナウイルスが大流行し、先進国の政府はその多くが民間人に不要不急の外出を控えるように訴えています。公権力による半強制的な外出制限を課している国もあります。日本では昨日、東京含む7つの都府県に対する緊急事態宣言が出されました。

 そんな中、ちょっと変わった主張をしている国もあります。遠く南米、ブラジルのジャイル・ボルソナロ大統領は外出制限を「大量監禁」として批判し、コロナウィルスによる症状を「ちょっとした風邪」「私たちはみな、どうせいつか死ぬ」「私たちはウィルスに立ち向かわなくてはならない。男らしく戦おう。子どものようにふるまうのはやめよう」と訴えました。

 他にも「コロナウィルスは間もなく終息する」など風説の流布まで行っているため、その過激な主張については、国内外から賛否両論が上がっています。

 詳細と賛否については下記の記事を参照してください。

 さて、この主張は”悪”でしょうか。

 先ほどの前提に立ち戻ってみれば”悪”は”結果”ですから、”主張”そのものが”悪い”という結論にはならないはずです。

 もちろん、日本のように公衆衛生に対するリテラシーが発達した国に住んでいると「無茶苦茶だ」と思うかも知れません。

 ですが私は、それとは別に「国家を”ひとつの生物”として見做した生存戦略としては一理(だけは)ある」とも考えています。

 コロナウィルスがもたらしている災禍の両天秤に乗っているのは、”経済”と”生命”だと考えることができるからです。

 外出を抑制し、世界経済は大きく停滞しています。アメリカでの失業者は15%に達するかもしれないという見込みも発表されています。ここで、「国民の生命を守るためには致し方ない」というのが生命至上主義的な見方です。

 またもう一方で、国家元首は国家の運営を任されていますから、「このまま経済が停滞すればコロナウィルスが直接もたらす以上の人間が大量に、かつ長期的に死ぬ。最終的には国家が滅ぶかも知れない」という見解も持っていなければなりません。

 私たちはおそらく、上記の両方をそれぞれの倫理と現実に基づいた、それぞれのバランスで"主観"として内包しています。

 現時点の先進各国の政策は、この両天秤をどちらかに極端に偏らせることなく終息を待つという方向でおおむね一致しています(ただし、アメリカのトランプ大統領は経済を取りそうな気配があります)。

 このように考えた場合、ボルソナロ大統領の主張は、「大量死という痛みを受け入れても国体を守る」、という確固たる主張と考えることもできるのです。

 ポイントは”人口における若年層の比率”と”集団免疫”です。

 コロナウィルスというのは、特に高齢者の致死率がきわめて高いとされています。その一方で、ウィルスですから、一度感染してから回復した人の中にはコロナウィルスに対する免疫が獲得され、今後かかりにくくなったり、かかったとしても症状が軽くなる可能性があります。労働人口である若年層ほど回復および免疫獲得の可能性が高いわけです。

 さらに集団免疫という、あるウィルスに対して免疫を獲得した人数が多くなるほど、免疫を持たない人も罹患しにくくなるという考え方があります(ウィルスが免疫を持たない人に届く前に、免疫を持つ人でストップがかかる可能性が高くなるため)。この効果を期待するには、だいたい人口の60~70%以上が免疫を持っていることが望ましいとされています。

 以上のことから、大流行が起こっている状況で外出を奨励するということは、このふたつの要素を鑑みた上で「早急に全国民の60~70%に免疫を獲得させ、終息に向かわせる」という考えに基づくものだと考えることができます。

 生命倫理をまったく排して考えるならば、出生率が高く、若年層の比率が高い国家ほど(たとえばインドネシアなど)、この”賭け”は有利になります。さらに、高度な医療体制が潤沢に整っていればなお勝率は増すでしょう。自動的に、少子高齢化が進行している日本を含めたほとんどの先進各国ではこの”賭け”にベットすることは事実上不可能だということも理解することができます。では、ブラジルはどうでしょうか。

 残念ながら、ブラジルではすでに少子高齢化が始まっています。出生率は1.73(2016年)で置換水準(2.07~2.08)を下回っており、さらにこの先、コロナショックにより経済が大打撃を受けた状態になるとさらに低下する懸念もあります。

 私はここまで考えて、やはりボルソナロ大統領の主張は”賭け”として大穴狙いが過ぎると考えていますが(何よりもまず医療崩壊が深刻になり過ぎます)、大統領は(最大限に良く言えば)2億人の国民の”生命力を信じて”経済の停滞を緩和させる選択肢を提示したというわけです。

 この場合、【1】(医療崩壊まで含めるとコロナウィルス以外の病気や怪我を含む)直接的な大量死によって国が大打撃を受ける、【2】大打撃を受けたとしても経済の停滞が緩和され、深刻な事態を回避できるかの2択…ではなく、【3】大打撃を受けた結果、経済の停滞まで長期深刻化するという最悪のパターンを含めた3択になります。

 私はボルソナロ大統領の言う通りにした場合、【3】最悪のパターンに陥る可能性が高いと考えているので「ボルソナロ大統領の主張は後世で”悪”とされる可能性が高い」「しかし、現時点では”悪”とは決め付けられない」と結論づけることにしました。

 もしも大穴=他国よりはるかに短期間で集団免疫を獲得するというシナリオが現実になった場合、ボルソナロ大統領は今後しばらくは批判を浴びるでしょうが(一時的な大量死と深刻な医療崩壊が避けられないため)、さらに後世になると「痛みは伴ったものの英断を下した」と判断される可能性があるからです(あくまで国民ひとりひとりではなく、国家レベルの話をしています)。

 ”悪”と”英断”の狭間はどこにあるのかについて、現実にある他の例から考えたい方は、フィリピンのドゥテルテ大統領の麻薬対策についてお調べになるといいかも知れません。

 このように、”悪”は時代ごとの評価(この場合は納得度)によって移り変わってゆきますが、そのすべてが”結果”、もしくは”結果の予測”によって判断されるということができます。逆に言えば、直感的に”悪い”と感じる”主張”がプラスの”結果”を運んでくる場合も往々にしてありますから、”主張”だけでは”悪”たりえないのです。

 さて、もっとミニマムに、個人レベルで考えた場合の”悪”とはなんでしょうか。

 それは”人為的に引き起こされた、納得できない不都合な事象”です。

 ”悪”の意味を紹介したときの後者の状態、”みにくい”、”不快”、”不調和”、”不適当”は、当事者にとっての”都合の悪さ”を表しています。ある人為的な事象が自分にとって不都合であると感じたとき、そしてそれに納得できないとき、人はそれを”悪”と感じる場合があるということです。また極端な例を出します。

 あなたの大切な人が殺人犯によって特に理由なく殺されたとします。

 この”結果”はあなたにとって大変に都合が悪く納得もできないため、きわめて明快に殺人犯を”悪”と断ずることができます。

 また、そのニュースを目にした多くの人たちが、「この出来事が自分に降り掛かったとしたら、不都合な上に納得もできない」と直感的に考えた結果、やはり”悪”と断ずるだろうと推測することができます。個人レベルの”悪”というのは、シンプルです。

 物語に出てくる”世界の崩壊を招く存在(たとえば魔王)”は、その世界に生きる人々にとって”不都合かつ納得できない”から”悪”なのです。さらに、その対象が我欲のみによって他者に”悪”をばら撒く場合、我々はそれをきわめて悪質な”邪悪”であると判断します。

 そして、”人為的で、不都合かつ納得できない事象”への憎しみを説明するために、人はそれを”大義名分”(=正当性を主張するための道理・根拠)という形で言語化または受容し、それを討ち倒すことを”正しい道”=”正義”であると主張します。

 人間の自然な感情に訴えれば訴えるほど、”大義名分”は”正義”を後押ししてくれます。これは卑近な例でいえば、ワイドショーなどの”不倫報道に対する世間の反応”を見れば理解しやすいかと思います。

 また、復讐譚や義賊を扱った作品がたびたび”正義”か”悪”かという議論の俎上に上がるのは、殺人や窃盗・強盗という一見”悪”に見える行動を、主人公視点から描いたときに”正義”にすり替えているようにも見えるからです。

 たとえ一部が公益に適っていたとしても、共同体のルールを破壊している時点で、復讐譚や義賊を扱った作品が追求するものは”個人の満足”であり、”正義”ではないということができます(これは、受け手にとって主人公が”正義”かどうかは面白さに寄与しないということの確認にもなります)。

 『忠臣蔵』や『モンテ・クリスト伯』をはじめとする復讐譚が心に迫るのは、それが読者にとってはるか遠く架空の世界の出来事であり、個人的に不都合でもなければ納得できないものでもないからです。これが現実なら、復讐された側の家族や友人にとっては悲劇そのものでしかありません(私がボルソナロ大統領の主張を両論で考えようと思えることも、やはり感覚として遠い国の出来事だからに過ぎないでしょう)。

 そして、前述した内容とは相反するようですが、不倫や浮気が”道ならぬ恋”として架空の物語で支持を得ることがある理由も同様です。物語全体を”恋愛感情”という万人に心当たりがある”個人の満足”で覆っているからです。

 もちろん、架空のエンターテイメントであればまったく問題ありませんし、主人公に感情移入して応援して楽しんでもらうために、制作者側は様々な手を尽くして主人公サイドの”個人の満足”を大義名分と正義を使って後押ししたり、罪悪感を薄めたりします(たとえば復讐譚や征伐譚で古くからよく使われるのは、対象を人外に設定して殺人=同族殺しの抵抗感を薄める方法です)。また、制作者の込めるメッセージによってはそれらを最終的に否定することもあり得ます。

 さて、なぜ急に復讐譚などの話をしたのかというと、この記事を書いているうちに、「物語のテーマとしての”正義”は、私たちの”個人的な満足の追求”と”最大多数にとっての正義”の間にあるのではないか」と思ったからです。

 身も蓋もない言い方をすれば、”個人の欲望の充足させながらみんなの役に立つ”ということです。欲望の充足と公益性、どちらに寄るかは作家次第でしょう。

 また、無数に存在する”正義”を表現するために、主人公には仲間や友人が必要なのかも知れませんし、その最大公約数を探すことでテーマが浮き彫りになっていくのかも知れません。

 そして、”最大公約数の正義”に対して、決して省みることなく”個人の欲望の充足”のために”悪”を振り撒く存在。つまり”邪悪”であることこそが、冒頭で挙げたような”魅力的な悪役”の条件、少なくともそのひとつとは言えそうです。

 たとえば、所属する共同体の公益性のために他の共同体(主人公側)を攻撃するキャラクターは”敵役”ではあっても”悪役”ではない、それこそ「正義の反対はまた別の正義」ということになるのでしょう(『ガンダム』のシャアは敵役ですが、『ラピュタ』のムスカは悪役です)。

 では、ただでさえ長くなってしまった記事がこれ以上とっ散らかってしまう前に、まとめて締めてしまいましょう。

・”正義”とは、時代、地域ごとの共同体のルールに則った”主張”である。

・”悪”とは”不都合をもたらす結果”である。スケールによっても変わる。

・よって、”正義”と”悪”は正対または相反する概念ではない。

 以上、私を含めた物語のクリエイターが「魅力的な悪役は、物語をすごく面白くする」という、知識としては知っていることを「どこまで掘り下げて考えればいいのか」という思考の補助線、その一例として書きました(ほとんど自分のためです)。魅力的な悪役が”永遠の生命”を求めがちなのも、私たちの欲望を代わりに充足させようとしているからかも知れません。

 ひとつの事象を考えるときは、要素ごとに分解し、相反する(してそう)な概念を持ってくることで、掘り下げた思考をしてみる助けになるような気がします。概念的な言葉に一本ずつ補助線を引いて考えるのも、たまにやってみると面白いのではないでしょうか。

 ですが、こういうことを永遠と考えるのはやっぱりすごく疲れるので、Twitterなどの普段の言葉については気楽に扱うことにしたいと思います。

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