SNSの”怒り疲れ”と”超天才”の定義について考える

 SNSを見ていると、毎日誰かが何かに怒っています。

 それが個人的なことだったらいいのですが、一見すると「それ、本当にあなたに深く関係してる?」と思うような内容もあります。

 政治だったり差別だったりお金だったりスキャンダルだったりと様々ですが、とにかく何かに怒っている。それを”義憤”と呼べば呼べるのかも知れませんが、なんというか、最近は「…この人たちは怒るために怒っていて、怒るためにトピック探してるんじゃないだろうか」と思うようになりました(蛇足ですが、自分が「面白い!」と思ってフォローした人がアルファに育つ過程で”怒り”を撒き散らすタイプに先鋭化するのを見ると毎回悲しいです…)(パフォーマンスとしてウケがいいのは分かるんですけどね…)。

 私はいわゆるツイ廃(Twitter廃人)なのですが、タイムラインを見ていると「ま~た怒ってるやん…」と気分が下がることがあって、大きなニュースが炎上している日はアプリを開かないようにしています。他人の怒りに付き合うのは疲れるからです。たぶん、怒ってる本人も疲れてると思います。怒るのってエネルギー要りますもんね。

 ちなみに”自分と直接関係のない怒り”は、”もっとも共感しにくい感情”として知られていますが(Twitter見て「なんでこれで怒れるんだ…」って思うことありますよね)、主要SNSはとにかく分母が多いので、ある程度どんなタイプの怒りにも一定の「わかる!私も…」という人が存在します。

 こういうのを見ると、普通に考えたら「怒って言いたいこと言ってるんだから、ストレス発散になってるんじゃない?」とも思うのですが、どうも一概にそうではなくて、溜め込み続ける人もたくさんいるらしい。なぜか?

 私の仮説は、「日常的に怒ると疲れるのは、それが”超天才の感性”だから」です。超天才じゃない人が超天才の情動をトレースしているから疲れるのです。

 というわけで、この記事では、SNSではびこっている”怒り”についてと、”超天才性”の関係について述べていきます。

 まず、”天才”の定義についてです。

 私もクリエイターの端くれとして才能に関する本や記事をたくさん読みましたが、まとめると「世の中の問題を解決する意志と能力を持つ人」と言うことができそうです。

 天才がイノベーション(技術革新)を起こすと、世の中の問題がひとつ解決し、その後の世界が変わります。通信を例に出すと、インターネット以前と以後、携帯電話以前と以後、iPhone以前と以後などを考えていただければわりと理解していただけると思います(クリエイティブのイノベーションは”発表当時衝撃的で、かつ他人にパクられまくって定着した表現”です)。

 しかしこれだけでは結果を観測したまとめに過ぎません。このまとめから天才の日常を逆算して、そこから別の定義を導いてみましょう。

 それは、”天才は基本的にいつも怒っている”ということです。付け加えるなら、”いつも理不尽に怒って”います。

 私の周りにいる「この人は超天才だな」と思う人も、いつも怒っています(「普通の天才」はクリエイティブ業界にいっぱいいますが、それでも普通の人たちよりは潜在的に怒っていると思います)。

 体感で恐縮ですが、潜在的な怒りも含めると、”普通の人”が人生のうち10%怒っているとすれば、”天才”は30~40%、”超天才”は80~90%怒っていると思います。

 さて、天才は世の中の問題を解決する力を持ち、そのためにアイディアを生み出します。アイディアを生み出すためには、世の中の問題を発見し、認識する能力が必要になります。そして、世の中の問題を発見して認識すると、天才は”怒り”を抱きます。

「なぜ世の中は(人間は)こうなんだ?こうなるべきだろ!」

 これ、SNSでよく見かける怒りのスタイルとそっくりじゃないですか?

 天才が普通の人と違うのは、彼らは問題解決のためのアイディアを発見・創造する感性を持ち、それを具現化する能力を持つということです。

 任天堂のゲームプロデューサー、宮本茂さんの有名な言葉に「アイデアというのは 複数の問題を一気に解決するものである」というものがあります。

 ここで言われている”複数の問題”を、私は”矛盾”と置き換えて理解することにしました。

 単純化した古いたとえで恐縮ですが、たとえばゲームボーイは、「”テレビ”ゲームを”外”で遊ぶ」という矛盾を解決した商品だということができます。

 当時のテレビというのは据え置きが一般的で、屋外で見るようなものではありませんでした。”しかし”、テレビを使ったゲームを外でも遊べるようにしたい。そういうことが当たり前の世の中にしたい。天才はこういった問題を発見しては矛盾を抱え、それをアイディアとして昇華し、実現して解決します。これが後からいわゆる”イノベーション”と呼ばれるものです。

 もっと一般化して、イノベーションを恋愛にたとえてみましょう。あなたが「恋愛がしたいのにモテない、しかし積極的な行動はしたくない」という矛盾を抱えているとします(恋愛でピンと来なければ、「お金は欲しいけど働きたくない」でもOKです)。矛盾を抱えているだけで終わるなら、あなたは”普通の人”です。

 もし、その矛盾に対して(これはもう本当に理不尽な)怒りを抱き、「なぜモテない奴は行動しなければ恋愛できないんだ!こんな世の中間違ってる!」と思ったとしたら、あなたはその怒りによってエネルギーを消費し続けるので、”疲れる人”です。

 しかし万が一、その怒りから思考をフル回転させて「そうだ!こうすれば行動しなくても恋愛ができる!その仕組みを思い付いたぞ!」というアイディアを生み出し、それを実現することができれば、あなたは”天才”です。

 このように、矛盾という「あちらを立てればこちらが立たぬ」という問題を解決するアイディアを生み出し、実現すること。これができることが天才の条件なのです。

 天才、いいなー!と思うでしょうか。実はそう単純ではありません。

 この定義でいくと、天才は常に怒りを抱え、矛盾を抱え、普通の人よりも圧倒的にエネルギーを消費し続ける運命にあります。昇華して発散できるのはアイディアが発見できて、運良く実現できた場合だけです。その他の時間は、ずーっと潜在的な怒りを溜め込み続ける状態になります。

 昇華できたとしても一瞬です。なぜなら、ひとつの問題を解決すると、その解決法によって新たな問題が生み出され、自分で生み出した矛盾に対しても向き合わなければならなくなるからです。

 たとえば、スマートフォン文化は私たちに圧倒的な情報量をもたらし生活を便利にしましたが、スマートフォンに依存しないと何もできないという問題もまた生み出しましたよね。

 このように、ひとつの問題の解が新たな問題を生み、それを社会全体が矛盾として抱え込むことにもなりかねないわけです。

 そして天才とは「世の中の問題を解決する意志と能力」を持っていますから、常にそれらと向き合い続けなければいけないわけです。これを言い換えると、「”世の中の問題”を”自分の問題”として抱え込んでしまう人」ともいえます。私は本当に根性がないので、こう書いてるだけで辛いですね…。

 超天才になると、状況はもっと深刻です。

 アニメーションの天才、宮崎駿監督は(基本的に)子供たちのためのアニメを作り、その中で自然の素晴らしさを繰り返し説いていますが、子供たちがスタジオジブリの作品を見続けて、外に出なくなるという矛盾を生み出しました。また、原発に反対しながらも、その原発が生み出す電気でアニメを作らざるを得ないという状況もまた、矛盾です。

 スティーブ・ジョブズは禅に救いを見出しましたが、残念ながらそこで得た気付きはビジネスとイノベーションに転用することしかできず、生涯”怒り”から解き放たれることはありませんでした(昇華した一瞬だけを除いては)。

 天才って疲れるんです、やっぱり。

 そして、天才の周囲にいる人もその怒りに巻き込まれる運命にあるため、やはりだんだんと疲弊していきます。まるで怒りが渦巻くTwitterを見ていて、毎日少しずつ心が疲弊していくようにです。

 超天才や天才以外が怒ることに、意味がないとは言いません。そもそもこの記事はその是非を問うものではなく、ただの考察に過ぎません。ですが、もしもあなたがあなたの怒っている問題を解決できる天才ではなく、そしてその問題があなたの人生に深く関わるものではないなら、その問題をきれいさっぱり忘れた方が心身の健康にいいかも知れません。

 そしてもしも、あなたが毎日常に何かに怒っていて、それを解決しようという意志と能力を持つなら、あなたは天才か、運が良ければ(悪ければ)超天才である可能性があります。問題解決のための行動を続け、あとは運が味方してくれることに期待しましょう。

 以上、ただのいちクリエイターによる、SNS上に渦巻く怒りによる疲れと、超天才の定義について、その関係性についての考察でした。

 毎日色々ありますけど、なるべく心穏やかに生きていきたいですね。それではまた!

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