ショートホラー「古書」
僕が消えて無くなってしまう前に、記録を残しておかなければならない。いつあれが僕の元を訪れ、襲い掛かってくるかも分からないからだ。あれは閠していて、非常に墸りていた。だから僕は今、恐怖することを余儀なくされている。ああ、なんて恐ろしい……あれの存在が頭から離れない。いつか彼らのように気がおかしくなってしまうまでに、次にここを訪れる者のためにも記しておかなければならない……
思い出してみるに、すべての始まりは何の変哲もない日常の延長上にあった。大学生というのは暇を持て余していて、退屈な日々を埋めるように友人たちと集まり、時間を溶かしていく。その日もまた、例に漏れず単なる暇つぶしのつもりだった。
大学の食堂にて、僕は友人のタクマ、レントと共に談笑を交わしていた。とは言っても中身なんて無い、浅ましい会話だ。視野は狭く、話す範囲も限られている。何の生産性も無い会話中にふと、レントは、
「なあ、うちのサークルの先輩から聞いたんだけどさ」と前置きをした。「この近くの公園には山があるだろう。観光用の道が出来ていて、ある程度行くと広場もある。ただそこから外れると、鬱蒼とした森が広がっているばかりで、入ったが最後、出られなくなる」
突如始まった話に、僕とタクマはどうしたものかと顔を見合わせたものだった。それでも一応、これから何を話すのだろうかと好奇心に駆られ、お互い黙って聞き続けていた。幸いにも、僕たちには余りある時間が残っていて、こうした無駄な事にかけるだけの余裕はあった。
レントの口調は淡々としていた。
「普通なら、森の中に入れば迷うだろうことくらいは区別が付くはずだ。でも、先輩の友人は違ったらしい。何かに惹きつけられるようにふっと柵を乗り越えて獣道を渡り、山奥へと姿を消してしまったらしいんだ。それきり彼は二、三日ほど行方不明になっていたんだけれど、暫くして大学に顔を出した。その時の彼は、もうおよそ生きているとは言えないような顔つきになっていて、表情にも絶望の色が濃かった。先輩は『どこへ行っていたんだ』と心配していたことを告げると、その友人は、『森の奥に小さな館がある』そう言い残して帰ってしまったんだ。不思議に思った先輩は、ネットから調べてみたがそんな様子はない。ただ気になるのは、また友人が行方不明になってしまって、もう二度と姿を現すことはなかったってことだ」
レントはそこでカップに口をつけた。数秒してから、
「先輩は、友人を探しに行くと言って居なくなった。サークルの皆も心配していたんだけど、昨日になって、ほら。俺の元にこんなメールが届いた」
彼は端末を取り出すなり、画面をこちらに向ける。そこには、『 に挧ては ない」とあった。
「なんて書いてあるんだ?」僕は聞いた。
タクマも首を捻る。
「さあ、分からない」レントは端末を仕舞うと、「でも俺思うんだ。先輩も、あの館に行ったんじゃないかって。そこで、何かあったんじゃないか。どうしても気になるんだ。今日はもう講義もないし、俺はこれから行ってみようかと思う」
「おいおい、なんかやばそうじゃないか?」タクマが不安そうな顔で言った。「……その話が本当なら、だけど」
「どうしてそんな話を僕たちにしたんだよ」
僕の質問に、レントは、
「やばそうってのは、やっぱり俺も思ったんだ。だからさ、一緒に来てくれないか?」
と、彼は目の前で両手を合わせた。僕とタクマはまた目を合わせて、どうしたものかと悩んだ。僕は特に心霊現象だとか怪異といったものを信じてはいなかったし、恐怖することはないだろうと思っていた。その上暇だったから、ちょうどいい時間潰しにもなるんじゃないかって考えた。
けれど、それ以上に面倒ごとは御免だった。あまり変なことに首を突っ込みたくはない。そう思って、僕とタクマはこれを断った。タクマはまた別の理由があったに違いない。そうか、とレントは寂しそうに頷いて、
「仕方ない。じゃあ、俺先に行くわ」
と言って、食堂を出て行った。彼と話すのはこれが最後だった。
数日経って、レントと連絡がつかないことを不審に思ったタクマが、
「彼に何かあったのでは」と言った。
彼はレントの所属していたサークルにも聞きに行ったらしいのだが、彼がどうなったかは誰も知らなかったらしい。また、レントから聞かされた、先輩とその友人の話は誰もが知っている話だった。確かにその先輩はもう数週間ほど姿を見せていないようだったが、こうした噂話に対しては懐疑的だったという。彼は元からサークルにはあまり顔を出さない人だったらしい。その噂話とは関係がない、と思われていた。
中には「作り話だろう」という人も居たのだとか。それはまあ、僕もそう思っていた。現実と虚構が混ざり合っている。この話にはそんな印象を抱いた。けれどタクマは違ったらしい。レントの口ぶりや、実際に居なくなったことから見て、ここに真実味を持つに至ったようだった。
「確かめに行かないか」とタクマは提案した。「嘘なら嘘と分かるだろうし、話が本当ならそこへ行けば何か分かるかもしれない」
僕は名状し難い嫌な予感に襲われて、あまり行きたい気分ではなかったけれど、タクマが積極的に勧めてくるものだから、気圧されて山奥の森林へと向かうことになった。大学から徒歩数分の距離にある公園から、その目的の館まで行けるらしいのだ。
講義のない日を選び、僕たちは公園の広場に集合した。まだ正午前の、日が上に差し掛かる頃合いに、タクマと僕は柵を越え、誰の目も届かない木々の間へと歩を進めた。この季節外れの肝試しは、あまり楽しいものではなかった。秋風が吹いて肌を冷ましては、身も心も侘しくさせる。ふたりの息遣いだけを耳にして、次第に鬱いでいくようだった。
正直、この道で合っているものかさえ分からない。また帰れるかどうかも保証がない。一方通行に、まるで沼へと落ちかかっているようで、足が重たく感じられた。そんな思いで歩き続けていると、突如として視界が開かれ、目の前には件の小さな館が出現した。
「あっ」とタクマは声を漏らし、僕の方を見つめた。僕は頷き返し、
「本当にあった」と言った。
端末から地図を確認してみたが、当のこの場所には何の情報もなく、白く塗り潰されていた。鼻息を漏らし、僕は端末から館へと目を移す。
「今もここに居ると思うか?」
「さあ」僕の問いかけに、彼は首を振った。「でも、痕跡くらいは残ってるだろう」
古ぼけて、今にも崩れ落ちてしまいそうな外観をしていた。相当な年季で、今はもう誰も住んでいなさそうだった。と言うのも、電気はついておらず、割れた窓からは家具の散乱した室内が見え、どうにも住めそうになかったのだ。果たして本当にここへ来て正解だったのか、今一度僕は逡巡したけれど、すぐに思考を切り替える。
揃って館へと足を踏み入れようとした瞬間、遠くから唸り声が聞こえた。こちらへと走り寄る音もして、僕らは怯えた。誰が来ているものか、音のする方を見てみれば、それは虚ろな目をした老人だった。白いタンクトップによれよれのジーンズを履いて、下は裸足だった。そんな彼が、こちらに手を伸ばし「うぉお」とも「うぼあ」ともつかない奇妙な声を発して、雑草を踏みつけながら向かってくる。
「やばいやばい!」と、タクマはびっくりした様子で僕の手を引くと、「中に逃げよう」
それに賛同して、僕らは中へと入り込む。玄関戸が開かないようにふたり掛かりで封じると、老人がノブに手を掛け、がたがたと大きく揺らしながら開けようとする。それでも踏ん張っていると、やがて老人は諦めたように力が弱まった。やがて足音が遠のいていくのが分かり、僕たちは扉から一歩離れた。
大粒の汗が額から零れ落ち、地面に着地する。真っ暗な部屋の中、僕らはその場にへたり込んだ。脱力して、気を抜いてしまいそうになった。思い切り立ち上がると、友人を起こし、先へと向かう。
不気味なのは、部屋に埃がひとつも舞っていないことだった。もしかすると、ここを誰かが掃除しているのかもしれない。そう考えて、先程の老人はここの住人なのではないか、と今更になって気がついた。実際にはそうではなかったのだけど、ただこの時はそれと知る術はなく、不法侵入ではないかと恐れを抱くばかりだった。
そんな僕の思いも知らず、タクマはずんずんと先を向かっていく。ひとりの姿も見えない伽藍堂を抜け、辿り着いたのは書庫だった。何故ここを訪れたのか──今になっても分からない。ただ吸い寄せられたような、神秘の導きがあったとしか言いようがないのだ。それは同時に、何者かの悪意によってここまで招かれたような気がするのだった。
棚には豪華な装丁の、分厚い書物が並んでいて、タクマはおもむろに一冊を抜き出した。背表紙に題名はなく、開いてみるまで中身の様子が見えない。僕も適当な一冊に目星をつけ、手に取ってみた。予想よりも重量があって、これまた厚い。表紙は黒を基調とし、そこに黄金色の幾何学模様で装飾されている。
ページを捲ると、僕は驚愕のあまり息を飲んだ。そこには僕の名前が記されていた。一字一句同じである。隣からもあっと声がして、タクマの持つ古書は地面に落とされた。目を見開いた彼と目が合って、どうしたものかと訊ねると、
「自分の名前があった」
ややあって、彼はそれを拾い上げるなりページを開き、僕に見せる。そこには確かにタクマの名があった。僕もまた彼に手元の本を見せると、彼は唾を飲み、「なんだこれは」と呟いた。印字されたこの本には、その後のページは白紙ばかりで、何も書かれていない。それはふたつとも同様だった。
ふと見れば、部屋の隅に開かれた状態で落ちている古書を見つけ、僕は恐る恐るそれを取った。中にはレントの名が記されていて、僕らの物とは違い、その後には数百ページにも渡って生涯が描かれていた。いつの間に誰がこんな物を用意したのか、全く分からない。僕とタクマはすっかり混乱してしまって、頭が痛くなった。それは恐らく、この部屋に窓ひとつなく息苦しい所為なのだろうと思い、扉を大きく開け放つ。
「もしかして、他の物にも誰かの名前が書いてあるのか」
タクマの疑問を耳にして、僕はもう確認せずにはいられなくなった。書棚から無作為に本を見繕うと、それを開いて中を覗く。これを何度か繰り返してみて、はっきりとこれが『実在する誰かの物語』らしいことが分かった。それはレントの物も同じで、誕生から消滅までが克明にしたためられているのだった。不気味なことに、消滅までに大半の者が発狂し、正確に物事が認知出来なくなるという。
不思議なのは、僕たちの書物には中身がなかったこと。また、物語の主人たちは必ずこの館を訪れている描写があったこと。こうした関連性に、僕たちは何か大事に巻き込まれてしまったのではないか。そう予感した。これから僕らは、手元にある彼らのような末路を辿るかもしれないのだ。非情な運命を予知し、避けられないだろうと知って、自暴自棄になりかけていた。その刹那、隣の部屋から窓ガラスの割れる音がした。
思わずそちらに目を向けるも、壁に阻まれて当然のことながら何も見えない。僕とタクマは互いに頷き合うと、静かに扉を閉めた。それから彼は、人差し指を口元に立てる。再度、僕は首肯する。
渡り廊下からは足音と念仏のような、くぐもった声がして、僕の身体は硬直した。緊張して、心臓が強く脈打ち、息が浅くなる。我慢するために口元を手で覆うと、祈るように目を瞑った。どうか遠くへ消えてくれ。そんな願いも虚しく、それの足音はこの部屋の扉を前にして止まった。鼓動もまた、止まったようだった。
これから奴が入ってくる。そう思うと、僕はこれからのことを考えてぞっとした。殺されるのだろうか……。いたぶられて、死んだ方がマシな思いをするかも知れない。視界が涙で薄くぼやけていく。欠伸でないことだけは確かだ、と頭のどこかで間抜けな感想が湧いた。
タクマは僕に向けて、扉の横に着くよう指で指し示した。間も無く彼は、壁に身体を密着させ、早く来るよう手招いた。そこへ来て漸く、僕は彼の考えが伝わった。扉は部屋の内側に開くように出来ているから、その影に隠れようという魂胆なのだ。見渡しても、他に隠れられるようなスペースは無い。と、がちゃりとノブの動かされる気配がして、咄嗟に彼の横へと飛び退いた。
開け放たれ、扉は壁にぶつかった。何者かが部屋の中を歩き回り、その度にひたりひたりと肌の擦れる音がした。相手は裸足の、恐らくはあの老人なのだろう。僕は唇を噛み締めながら、どうしてこんなことをしてしまったのかと、自分を呪った。
老人は、地響きのような声を一言発すると、何事もなくその場を離れていく。暫くして、足音が聞こえなくなるのを見計らってから、ふたりで扉の元から抜け出すのだった。命からがら館から脱出した時には、寿命が幾らか縮んだような気がしてならなかった。自分たちが幾つかの書物を手にしていることに気がついたのは、広場まで戻ってからのことだった。
自室に居るというのに、落ち着かない気分だった。目の前に友人の物語が佇んでいるから、ひとりきりのように思えなかったのだろう。レントの物語には、彼が生まれてから僕たちと出会い、今にも朽ちてしまいそうなあの館へと向かうまでのことが文章として残されていた。それはまるで日記のような、彼自身の視点でありつつも俯瞰するような書き方がなされ、それを読む僕としては実に奇妙な体験に感じられた。
彼が館で体験したのは、僕やタクマと同様のものだった。つまり、白痴の老人に追い立てられ、逃げた先の書庫で沢山の人の物語を見つける。レントの場合、そこで消えた先輩の名前を見つけたらしい。どうやら、彼の噂話は本当だったのかもしれない、とそう思うようになった。
館を抜けてから、彼は次第に精神を蝕まれるようになったという。それは彼が先輩の物語を読み、これから辿る運命を知ってしまったが故のことらしい。本にはこう記述されている──"完璧な絶望というのは、そもそも絶望それ自体に完璧さが含まれているように、二重の意味が重なって矛盾してしまっている。だから、本来ならば完璧な絶望と形容すべきではないが、今回ばかりはその限りではなかった。俺の未来には地獄への一本道だけが寄越され、避けようにも避けられない運命にあったから、これを単なる絶望と片付けるのはどうにも度し難く思われた"──と。
即ち、レントはまず先に先輩の末路を知り、その通りに自分も従ったのだ。彼らはこの古書のことを『悪魔の書』だとか『ドッペルゲンガー』などと表現した。それと言うのも、読み開いた瞬間に自分の歴史をすべてそこに置換し、代わりにこの肉体からすべての魂を抜け落とし、物語の中に閉じ込めてしまうらしいのだ。
徐々に記憶を失い、比例して、書物には自分の知らない過去が加わることになる。例えば僕の物語には、"母リコ、父トウマから生まれた"とある。しかし当然ながら、僕にはそんな記憶がない。それと自覚して、長いこと呆然とした。自分は誰の子なのか、事実の真偽を確かめようとしたが、どうしてか、端末に保存されたはずの連絡先にも、母子手帳や、保険証などから幾ら思い出そうとしても、両親のことを思い出すことは出来なかった。
両親のものと思われる名前だけが目に入らないのだ。不自然な空白や、そもそもそんな欄が見当たらなかったりして、一向に記憶の蘇る気配はなかった。またこれは、レントや彼の先輩も同じだったらしい。この事実がまた僕の焦燥感を駆り立てる要因となった。
次第に僕から過去が失われていく恐怖。レントの物語を深く読み込んでいくと、恐るべきはこればかりではないようで、真に悍しいのは、つまり、これから訪れるだろう未来さえも先回りして奪われてしまうことにあった。
レントはこれを知ってしまったがために、発狂したらしい。そして、狂い悶えるうちに誰の目にも映らなくなって、消失してしまったのだ。未来の肉体を奪われ、誰からも認知されず、自分のことすら認識出来なくなってしまう。ただ歴史のひとつとして記録され、この書物は完成するばかり。あの館は言い換えるなら、死体安置所なのだ。かつての生者たちの記憶を納めた、未来あったはずの若者たちの墓場──そこへ僕とタクマは訪問してしまった、ということなのだ。古書を読み進めていくうちに、僕たちはこの呪いにかかった者──要するにレントのことだ──の近くに居たから感染してしまったのではないか、そんな可能性を知って動揺した。
レントの物語には、また更に不可思議な記述があった。"あの老人は正しかった! 正しかったんだ!"……
その時はまだ、僕にはそれの意味するところが分かっていなかった。今になって、彼の言葉がよく理解出来る。何故人は、実際に体験してみない限り深い納得を覚えないのだろう? もっと以前に異なる選択をしていれば、ずっとマシな未来を描けていたのではないのか、と後悔している。
僕は古書を読み終えてから、次に自分の物語を読み耽った。そこには幼少期の頃のことが書かれていて、それが同時に自分の肉体から抜け落ちたものだと思い知って、背筋が冷たくなった。僕はこの恐怖をひとりで耐えるのは苦しく感じられて、急いでタクマに電話をかけた。ところが、彼は電話に応じなかった。
この日以来、彼は二度と僕の前に姿を見せることはなかった。
それから間も無くして、幾つかの怪奇現象が見られるようになった。とは言っても、幽霊が見えるようになったわけじゃない。いや、ある意味では幽霊だった。もっと厳密に言えば、言葉が少しずつ僕から離れていくのを、自覚させられる──そんな怪異が僕を襲ったのだ。
ふの街中を見てみれば、沢山の文字で世界は溢れている。看板やポスター、端末の中にも、物事を表現するための言葉がそこら中には存在している。言葉は、僕らの生活には必要不可欠で、そんな普遍的な文字ひとつひとつからも、意味が失われていく恐怖は隠れ潜んでいたわけだ。
ポスターに、『彁い空、暃い雲」と書いてある。
僕はこれを見つけて、頭の上にクエスチョンマークを浮かべることになった。文字化けだろうかと考えて、しかしポスターなのだからそれはあり得ないと考え直した。ではこの言葉は一体なんだろう。まったく知らない形容に当惑して、更に、その漢字を一度も見たことがなかったと気がついた。僕はすぐさまそれを端末から調べてみると、それは幽霊文字と言われるものだと知った。
何故そんなものが? 僕はこのポスターが変なのだと決めつけて、その時はスルーしてみせた。けれども、また別の場所でも同じように奇妙な言葉を見つけたものだから、次第にこれは古書の所為なのではないか、と思うようになった。レントの物語にも、そう言えばこのことが書いてあったのだ。
彼の先輩にはない事柄だった。どうやら人によっても齎される怪異は異なるようで、文字化けして見えるのはレントだけのように思われた。でも、実際のところは違っていた。僕にも影響があった。これは恐らくだが、彼の物語を読んだ者にも効果が付随されるのではないか──つまるところ、読書体験による悪影響があるのではないか……
レントの先輩は、文字が虫のように身体中を這いずり回った経験をしていた。勿論、これを知った僕もまた、同様の体験をすることとなった。深夜のベッドにて、眠りにつこうとする瞬間を邪魔されて、一睡も出来ずに朝を迎えたこともあった。
一番恐ろしかったのは、僕から『椦』という字が抜け落ちてしまったことだ。お陰で横を通り過ぎて行く者たちが皆、ぶつぶつと囁き蠢く影の塊に見えて、外を歩くにも正気を保つのが難しいのだった。まだ僕は僕のことを見失ってはいないから、鏡の中は安全だったが、それも時間の問題なのだ。時間が約束してくれるのは時間の経過ばかりで、解決は保証してくれない。決着はいつも暴力的で、誰もが悲しい思いをする。それが、自分の未来に訪れることだった。そう思うと涙が出て止まらなくなる日も頻繁にあった。
この頃になると、普通の生活をするにも支障をきたすようになっていた。外を出歩くことはおろか、家の中に居ても文字のある物事からは離れなくてはいけない。かと思えば、自分のことを綴った書物や、レントの物語からは離れ難く、依存しきっていた。もしかすると自分自身を救う方法はここに描写されているのではないかと思われて、何度も読み返してはみたものの、それらしき解決法は見当たらない。反対に、自分の知らない過去が増えていくばかりだった。
自分が見知らぬ他人になっていく。このままでは現在のことも、未来のことも分からなくなってしまう。僕は自分の気が触れてしまいそうで──それとも既にそうなっているのかも知れないことに──叫びたくなった。けれど、何か言葉を発する気にもならないのだ。一度自分の声を録音してみたところ、僕が思ったような言葉が上手く聞き取れず、呻き声のように聞こえてしまい、恐ろしくなったからだ。これはまるで、館の老人みたいではないか──
絶望するその度に僕は涙で目を枯らしていく。そのうち、僕のすべてが朽ちていく予感に苛まれ、具体的な友の死を頭に刻み付けられ、もう会えなくなった友人たちのことを想って、二度と元の日常には戻れない──そんな寂しさのために、僕は泣くのだった。
「これからどうすれば良いんだ」
僕の呟きも、他者からすれば不気味な上擦り声だろう。そう思うと、何故か老人のことが無性に懐かしく感じられて、会いたいと思うようになった。同族意識からだろうか、分からない。彼ならば何か分かるのではないか──そんな淡い期待もあったかも知れない。レントが言っていた、"正しかった"という言葉を頼りに、僕はまた件の館へと向かったのだった。
悍しい姿をした群衆の隙間を抜け、僕は公園の広場まで歩いた。この頃にはもう、柵を乗り越えるにも視線を憚らず、堂々と森へ向かうようになっていた。館に辿り着いたとき、あれほどまでに嫌悪していたにも関わらず、安堵するような心持ちでその場所と相対していた。僕の訪問を感知したのか、例の老人が怒るような、悲しいような引きつった顔でこちらへと駆け寄ってくる。
「そこへ近づいてはならん」と老人が叫び、僕の胸ぐらを掴んだ。「あそこで何をするつもりだ!」
僕は彼の言葉が十分に理解出来たことに驚きと感動を覚えて、
「貴方に会いに来たんです」と、思わず頭を垂れていた。
涙を流す僕に、老人は困惑したのか、はたまた同情したのか……。優しい声色で「そうか」とだけ返事をしたのだった。
気分が落ち着いた頃になると、僕は自分の身に起きたことをすべて余さず話していた。ひとしきり話し終えると、老人は苦渋の表情を浮かべ、
「ならばもう君は元に戻れない」と断言した。「今の君にならもう、あれが見えるだろう」と。
彼の指差す先には、ああ、思い出すのも悍しい。その先には僕が居た。どこからどこを見ても僕と瓜二つで、しかも──閠していて、墸りている。恐ろしい、恐ろしい、恐ろしい。奴は僕だが僕じゃない。何故なら、僕はまだ僕を見失っていないからだ。ならばどうして、そこに僕は居るのか──
「あれが誰かは儂も知らん」老人は言った。「ただ成り済ましては街中に消えていく。あれは恐らく器だろう」
「器?」僕は聞き返した。
「そうだ。君たちはいずれ記憶だけの存在になる。そうして書物になって、どこへともなく消える。あれはその残りカスなんだろう。そう考えるほかに何もない」
僕はもうひとりの僕を睨み付けるように見つめていた。彼は僕にはまったく興味を示さず、それでいてこちらに差し向けた、悪意の込もった何かを感じずには居られなかった。僕は耐えきれなくなって、
「僕はどうすれば?」
「君はあと、消えるのを待つだけだ。自分を見失うまで、何か言葉を書き残すと良い。それで救われることはないだろうが、これで助かる者も居るかも知れない」
こうして、僕は彼の助言に従って、この手記をしたためた。あれは今、僕の見える範囲には居ない。ただ次に現れた時にはもう、僕の命はないだろう。この手記は、普通の人にはまったくの意味を為さない、デタラメな言葉に読めるはずだ。けれども、もし同じような境遇にあって、苦しい思いをしているのなら、僕の言葉は親愛なる友人として、僅かばかりの慰めにはなるかも知れない。もし、僕の経験が貴方の助けになるようならば、それほど嬉しいことはない。
ただ願わくば、貴方がこの館を訪れず、手記を見つけないことを祈るばかりだが……