僕がプログラミングに感じる好き嫌いと、作品に対する好き嫌いの違い

僕は割とプログラミング、テキストエディタその他に対する好き嫌いは、無機質的な好き嫌いだと思っていて、作品、たとえば小説や漫画、アニメ、映画その他文化にまつわる好き嫌い、あるいは人間に対する好き嫌いはもっと有機的な好き嫌いだと思っている。

あるプログラムとか言語とかエディタとかライブラリとかを好きだの、嫌いだのいうとき、そこの背景にあるあらゆるもの(特に人間)をほとんど見ていない。

ところが、とあるコミュニティで会話していて、実は僕みたいな物の見方をする人はマイナー側なのかな?という気がした。

2つの異なる好き嫌い

たとえば、何かの作品を貶すのは好ましい行為だとは思わない。

自分の好きな作品を他人にディスられると腹が立つという気持ちならば、理解・共感ができる。

なんなら、天気の子をディスってた人がいて僕はマジ切れしたことがある。

自分が嫌いな作品であっても、それを好きだという人の感情を尊重したいなと思う。

ところが、たとえば Java だったり Ruby on Rails だったりをディスることに感情が絡むことを、僕は一切理解できないし、全く共感ができない。

たとえば僕は今、TypeScriptは最高の選択肢の一つだと思ってるし、ReactでもVSCodeでもなんでもいいけど、僕が良いと思ってるものをディスる人がいても、人格攻撃とかを含まないのであれば、別にディスろうが何しようがどうでもいいと思ってしまう。

人間そのものを対象としたディス、たとえば「○○を使うヤツはバカだ」のような人格攻撃がダメなことはもちろん理解できる。

プログラミング言語やエディタなどそういったものに、僕は有機的な執着を一切示さない(と自分では分析してるが、もしかしたらそういう側面があるかもしれない。あれば是非教えて欲しい)。

所詮、ただの道具に過ぎない。仕事がやりやすいかどうか?だけが選択基準にある。これはそれを使ってコーディングして楽しいか?みたいな要素もある程度含む。なぜなら仕事をする我々人間はモチベーションなり感情の生き物であることはもちろんそうだと思ってるから。(ただし、それは作品の好き嫌いのような感情とは全く違うベクトルだと思っている)

わかりやすく言えば、僕はもし明日 TypeScriptをリプレイスできる素晴らしい別の言語が現れれば、一瞬でそっちに乗り換えてる様子が手に取るように見えるし、なんならその後の僕は TypeScript を否定している可能性が普通にある。

道具に過ぎないのだから、より良い道具が現れたらそれに乗り換えて、古い道具はそれなりの対応をする(おそらく捨てるはず)というだけなのだ。

そういう意味では、特定技術のユーザーコミュニティに長期的にコミットできるモチベーションなんかも、実は理解ができないのだ。ほんの一瞬ならともかく、2年後、自分はその技術を捨て去ってるかもしれないと考えてしまうと、僕には無理だ。

もちろん、それをできる人たちや気持ちをディスるつもりは全くない

単に、僕にはそういった人に共感できるEQのようなモノが、ごっそり欠けてるのだと思う。

これはたぶん、仕事で書いたソースコードを、書き換えられることにショックを覚えるかどうかみたいな話にも通じるのかな?とは思っていて、僕はプライベートで書いたコードならともかく、仕事で書いたコードに執着心はない。なんなら二ヶ月前の自分のコードがよりよくなるのであれば、自分のコードでも完全に否定できる。

この記事で言いたかったこと

この僕の考え方は世の中ではマイナーな感じ方っぽいし、EQの低さのようなものを考えると、技術をディスらない方が無難に生きられると知った。

僕の感じ方や考えを理解してくれという傲慢な主張をするつもりは全く無い。人にはそれぞれ感じ方、考え方があるし、それらは理解されなければいけないわけでもない。

ただ、こういったスタンスの違いが、割とコミュニケーショントラブルになりやすいような気がする、ということを備忘録的に記したかっただけだ。

「クソコード」だとか「クソ技術」だとかの言い方の悪さだけではなくて、そもそも何かしらのコードや技術の批判はしない方が、遙かに人生楽になるのだろう。

無意識のうちにディスったりしてる分は気をつけないといけないなーと思いつつも、それはそれでなんかしんどい気持ちもある。まぁ、少しずつ改善できればいいのではないか?と思う。

理解や共感ができなくても、尊重はできるはずだ。

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