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役割と、願望と――子供部屋の手記

『役割』を求める何物でもない僕――辿り着けるのかわからない運命の先

 先週の4日の月曜日に札幌シネマフロンティアでガンダムSEED FREEDOMを観て、僕はオルフェたちの言葉になんとなく共感してしまった。
「役割」通りに振る舞うことを期待されて作られたアコードたちに哀れみを覚えつつも、僕は「役割」があり、示されているのは羨ましいなと言う思いも同時に湧いていた。
 それほどまでに今の僕は「役割」が無いことに焦燥しているのだ。

 何度か話しているが、僕は作家として手詰まりになった後、新人賞を応募しながら、就労移行支援で障害者枠就職を目指している。
 元々就活というものがとにかく苦手で、バイトでさえ落ちるのが当たり前で、就活の頃にはあまりの手応えのなさに、生まれた頃から仕事の決まるデスティニープランを望んでいた程度には自分に向いている仕事も会社もわからなかったし、書類審査が通ることも珍しいぐらいの確率な現状の就職でも、そう思う事がよくある。
 殆どアマに近いプロアマ状態だったが得られた小説家の役割も作家飽和の中で生き残り戦略を怠けてそこから落っこち、今まさに復帰を目指しても予選落ちばかりになっているのだから、本当にどうしようもない。

 僕だけかも知れないが、「役割」がない人間はとにかく落ち着かない。
 そこに存在を許されているようで許されていない気がするし、社会に存在できるパスポートとしての具体的社会的価値も何も無いので据わりが悪い。
 周りが甘やかしているだけで僕自身には存在する価値も無いのではないか、という疑問も僕の中には渦巻いている。
 そして自分で道を切り拓き「役割」を作ろうとしても、周りがそれを求めなければそこに社会的価値は見いだせない。
 新人賞予選落ち然り、書類選考落ち然りだ。
 僕は自分の「役割」を求めて、空回っている状態である。
 支援員さんやフォロワーのプロ作家さんはあと一歩欠けている部分を補えばすぐにでも届くと言ってくれているが、実際どうなのかは怪しい。

 正直デスティニープラン自体は争いはないが変革も起こせず、様々な問題を現状維持で抱えたまま緩やかな自殺に向かう施策だとは解っている。
 それでも自分がこの世界で必要とされているか怪しく、何の役割も与えられないままでは、自分の存在があやふやで、ここにいても良いのかわからなくなって、役割を求めて焦燥するのもまた確かなのだ。
  そしてそれが無ければ別にこの世にいる必要もないーーむしろ税金や養われている費用分、居ない方がメリットもあるとさえ考え始める。
 承認欲求とそれ以前の社会欲求がグラグラなので、そこを欲するのだ。

 僕自身が誰かに愛され必要とされているのか。それもあまり実感がない。
 家族や親戚に対しても養われていたり良くしてもらっているのは、自分が何も出来ないことに対する埋め合わせや義理のようにも感じるし、異性との交際経験や交友経験などゼロだから家族・親族以外で誰かから愛を向けられる経験をダイレクトに感じたことはない(だからコテコテの恋愛書くのは実は苦手なのだ)。

 自分の小説も誰かに確実に読まれてはいると言うのは知っているが、WEB連載でいざ数字を見ると悲惨な閲覧数や評価・感想で終わっているのだから、本当にどうしようもない。
「トプカプ戦記」にしても、「少女環状線」にしても、悲惨な数字と読者が付いて無いことが一発でわかる評価しか無いから、余計に必要とされてないんじゃ無いかと思うのだ。
 最近では伊佐良シヅキという作家は初作の「うみまち鉄道運行記」が呪いとなってて、あの作品と同じ路線でないと必要とされないし、また評価されないのではないかとさえ思っている。
  それがエンタメ性の再現ならまだ良いのだが、もしマニアック性の再現だったら僕は八方塞がりだ。
(売上は次作の「紅茶館くじら亭ダイアリー」の方が高く、割と反応も好意的なのだが、評価や感想の数で言えば「うみまち」は圧倒的すぎるのだ)

 僕はこの2024年、誰にも示された道を用意されない、手助けされてるとは言え自分で切り拓くしかない運命の先に何かをつかみ取れるのか。
 何もつかみ取れなければ悲惨の一言だが、もう最後には破れかぶれで何か、一つでも生きるパスポートを掴み取りたいものである。

求めたいけど、求めるのには不相応なもの

  自分がいつか求めたいのは職と自分の役割もあるが、他にも二つくらいある。
  他人の目を気にせず、家族に気後れせずに好きな時に好きな場所へあちこち歩ける環境。
  もうひとつは自分が色々相談出来て気軽に話せる異性ーーまあ恋人とか嫁さんとかだ。
  正直相反している願望ながら、どちらか、出来ればどちらも欲しいと思っている。

  今の僕は何かをふらっと買いに行ったり、ジャンクフードを食べに行くのに気後れしたり、どこか遠くに出かけるのも、何か趣味のものを通販で頼むのも、なんとなく家族の目が気になって気後れしている訳だ。
  この気後れや怠け癖故に僕の行動範囲は狭まる一方な訳である。
  1人暮らしならどうにか出来るのかもという気持ちはあるが、それも多分運良く働け始めても賃金的に厳しい気はする。
  それにもし1人暮らしが出来ても、僕の心配性なんだか破滅的なんだかわからない金銭管理や時間感覚のむちゃくちゃさできっと気後れしだす気がするので、きっとあまり意味は無さそうだ。

  そして恋人または嫁さんに関しては、正直親以外で自分の話が通じて、創作や生活で相談出来たり話をかわせたりする誰かに側にいて欲しいと言う思いがある。
  高校大学の友人と合うことも少なく、ネット上の友人は多いが軒並み遠方住まい(むしろ僕こそ遠方住まいなのだが)の僕は友人と気軽に合うことがあまり出来ないのもあって、SNS主体の交友関係を築いていると、どうしてもSNSに張りつくばかりになってしまう。
  だからリアルで趣味や創作を話せて、そして親とも違う、一緒にいても気後れしない遠慮のない関係の異性に愛されて、話したり、一緒に居たりしたいと言うワガママな願望を僕は抱えている。
  家族以外の誰かに愛されたいと言うだけでもワガママだが、僕のワガママ極まった願望を満たしてくれる都合いい女性が突然現れたりする訳も無い。
  その人を愛せても、僕の気まぐれで自分本意な性格や隠し事や内面を見られたり触れられたりするのが嫌なところで傷つけるかもしれないし、僕の話のボキャブラリーの無さもある。
  どちらにせよ僕にはまだ縁遠い話だ。

  という訳で結局、僕は求めるには不相応なものを心の奥で求めながら、今週再販のプラモがヨドバシに日曜日に並ぶという情報を信じて日曜日の朝に出かける計画を立てるのであった。

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