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〈綺想異風派〉――80年代/90年代の音楽批評を分かつもの

ようするに〈マニエリスム〉のあるやなしや、である。
以下の引用が80年代地下音楽宣言の精華といっていい。

阿木譲「雑種と綺想異風派音楽」 

境界領域が曖昧な80年代音楽は、歪曲的、超現実的、抽象的で、霊感と感情だけをたよりにマニエリスム世界を表現する。それらの誰とも、どっちともつかぬハイブリッドな《歪曲された遠近法》の中の迷宮世界は、拡大された微粒子間の隙間(空白)のように、ただ無感覚なものだ。
死という鏡と隣り合わせにあるヨーロッパは、再びゴチック・ロマンスやニュー・ロマンティックスを謳うことによって、中世の幻想の森に踏みこんでいる。その不可視の神の世界は我々の凸凹した精神のように、綺想異風な出で立ちで、すでに原子核分裂の放射能をうけたかのような症状を呈している。
しかし、暗い。
そしてとっくに狂いだしている。
雑種=それは多過ぎるゆえの詭弁。概念のニュー・モード。自己のサブジェクトへの信仰。外界への寄るべなさ。不条理に満ちた悪魔的風景の中で、ハイブリッド・キッズたちは遁走した神々の【いない】(原文傍点)、新世界の未だやって【こない】(原文傍点)混沌の森や鏡の中で右往左往うろたえている。
捩れたままの、円核のない新感覚音楽は畸型児たちの歌だ。視角を変えた歪みとズレを生むサイケデリック=畸型は、不安と孤立と恐るべき混沌の80年代の、我々の目の前にある現実世界だ。ついにやってきた。青ざめたる馬が。

(『ROCK MAGAZINE』1982年第41号巻頭言より)

G・R・ホッケ『迷宮としての世界』、というか端的に「マニエリスム」に言及している音楽誌は、ぼくの観測範囲では北村昌士の『フールズ・メイト』と、阿木譲の『ロック・マガジン』だけだ。まずもってはっきりさせておきたいのは、僕は上の宣言文を疑いなく信じる、ということ。

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マニエリスムを筆頭に、音楽批評からそうした「曖昧なもの」「深淵なもの」「詩的なもの」が排除されたのは明確に90年代からだと思っている。敢えて誰が殺したかは言わないが、例えばその中の一人の「殺し屋」は以下のようにインタヴューで答えていた(この方から僕も少なからず影響を受けたので、一応名前は伏せよう)。

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