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『サピエンス全史』著者「なぜ虚構は真実に勝るのか」

私たち人間は、地球上のどんな種より「真実」について多くのことを知っている。しかし、最も多くの「虚構」を信じているのもまた人間なのである。


前書き

日常の些細な疑問は心のどこかで温めておきたい。些細に思えることでも、よくよく考えると、意外に大切なことが紛れ込んでいる。例えば、ダイエットのトレンドは日々変化する。だが、次のことは誰でも知っている。ダイエットの王道は「適度に運動して、適度な食事を心掛ける」ということだ。みんなこの真実を知っている、これで万事解決ではないか!ところが、流行はそれを許さない。数年前は「水素ダイエット」、最近は「食べる炭ダイエット」が流行りだとテレビや雑誌が喧伝する。そして面白いことに、適度な運動と食事を心掛けたダイエットよりも、真偽すら怪しい〇〇ダイエットに精を出す人があまりも多いのだ。真実に近しい情報を知りながら、どうして虚像に心惹かれるのか。

こうした疑問に1つの示唆を与えてくれたのが『サピエンス全史』著者ユヴァル・ノア・ハラリがThe New York Timesに寄稿した「Why Fiction Trumps Truth?(邦題:なぜ虚構は真実に勝るのか)」である。とても興味深い内容だったので、ぜひご紹介したい。

以下本文翻訳

「真実は力を表す」と多くの人が信じている。現実を見誤った指導者や宗教、思想は結果として、より判断力に優れた対抗相手に敗北を喫する。よって、力を獲得するためには、真実にこだわるのが最良の戦略である。不運にも、こういった考えは気休め程度の作り話にすぎない。実際には、真実と力は遥かに複雑な関係にある。なぜなら人間社会において、力が意味するものは2つあり、それぞれ全く異なっているからだ。

「力」が持つ1つ目の意味は、客観的実在を操作する能力である。例えば、動物を狩る/橋を建てる/病気を治療する/原子爆弾を製造する、等の行為が当てはまる。こういった種類の力は真実と密接に結び付いている。もし間違った物理法則を信じているなら、原子爆弾を製造することはできない。

他方で、人間の信念を操作して、効率的に多くの人々から協力を得る能力も「力」が意味するものである。原子爆弾を製造するためには、物理について理解が深いだけでなく、何百万人もの人間による組織的な労働力も求められる。チンパンジーや象よりもむしろホモ・サピエンスによって地球が制服された理由は、私たちが非常に大きな数単位で力を合わせられる唯一の哺乳類だからなのだ。そうした大規模な協力は、人々が共通の物語を信じているかで決定する。しかしながら、この共通の物語が真実である必要はない。神や人種、あるいは経済について全くのフィクションである物語を信じさせることで、何百万人もの人々を団結させることが可能になるのである。

「力」と「真実」が持つ二重の性質が示す興味深い事実は、私たち人間は他のどの種よりも真実を知っているが、また遥かに多くの"トンデモ"を信じているということである。私たちは最も賢く、また同時に最も騙されやすい地球の住人なのだ。例えば「うさぎ」は、相対性理論や宇宙が138億才であること、DNAがシトシン/グアニン/アデニン/チミンによって構成されていることは、1つも知らないだろう。一方で、何千年の間も無数の人間を魅惑してきた神話的空想や愚かな思想を「うさぎ」は信じない。天国で72匹の処女うさぎが褒美として手に入る希望を頼りに、ワールド・トレード・センターに飛行機を衝突させるなど、うさぎならまず1匹もいないだろう。

共通の物語で人々を団結することに関して、フィクションは、真実にはない3つの固有な利益を享受している。1つ目は、真実が万国共通である一方、フィクションは局所的である傾向が高いということである。もし私たちの部族と外国人を区別したいなら、結果としてフィクションの物語が真実の物語よりも遥かに良質なアイデンティ・マーカーとして機能するだろう。私たちが部族の者に「太陽は東から昇り、西に沈む」と信じるよう教えると仮定してみよう。それは部族の神話としては非常に効果の薄いものになる。もし私がジャングルで誰かに遭遇して「太陽は東から昇る」と言われたらどうだろう。部族の忠誠な一員であることを指し示しているかもしれないが、私たち部族とは別に同様の結論に達した知性ある外国人であると考えても差し支えないのだ。だから部族の者たちには「太陽は毎日空を飛び回っている巨大なカエルの目だ」と教えるほうがマシである。なぜなら、例え知性が高くても、私たち部族の外でこの特定の考えに思い当たる外国人は皆無に等しいからだ。

フィクションがもたらす利益の2つ目は「ハンディキャップ理論」と関係がある。ハンディキャップ理論は「信頼に足る信号は、信号を発する者にとって犠牲が大きいに違いない」という仮説を提唱している。そうでなければ、悪意ある者が簡単に信頼足る記号をでっち上げてしまう可能性がある。例を挙げるなら、雄のクジャクは巨大で色鮮やかな尻尾を誇示することで、雌のクジャクに自身の健康状態を記号として発信する。これは雌のクジャクにとって信頼に足る記号である。なぜなら、尻尾は非常に重くて扱いにくい上に捕食者を引き付けるからだ。本当に健康状態の良い雄のクジャクだけが、このハンディキャップを物ともせず、生き延びることができる。似たようなことは、物語でも起こる。

もし政治的忠誠が真実の物語を伝えることで発信されるなら、誰でもでっち上げることができるだろう。しかしながら、馬鹿げていて風変わりな物語を信じることは多大な犠牲を要するからこそ、忠誠を伝えるために良い記号となる。仮にあなたの指導者が真実を話す時しか彼ら/彼女らを信じないなら、忠誠がどうして判るだろう?対照的に、あなたの指導者が空想に耽っている時でさえ彼ら/彼女らを信じているなら、それはまさに忠誠だ!狡猾な指導者は、信頼に足る信奉者と都合の良い支援者を見分ける手段として、時に馬鹿げたことを「意図的に」言うかもしれない。

3つ目が最も重要だ。真実は、しばしば痛みを伴い、心に不安をもたらすのである。混じりっ気のない本物の現実に固執するなら、あなたに付いて来る人はほとんどいないだろう。仮にアメリカ合衆国の大統領候補者が、偽りの無い真実、アメリカ合衆国の歴史に関する真実だけを国民に伝えるなら、彼/彼女は選挙に負けると100%の確証をもって言える。アメリカに限らず全ての国の候補者に関して同様のことが言える。どれほどのイスラエル人やイタリア人、インド人が、自身の国家に関する傷ひとつない真実に耐えられるだろう?妥協なく真実に執着することは、精神の実践としては賞賛に値するが、この戦略で政治に勝つことはできない。

社会の結束がもたらすどんな短期的メリットよりも、フィクションの物語を信じる長期的コストのほうが大きいと主張する人もいるかもしれない。一旦、馬鹿げたフィクションや都合の良い嘘を信じる習慣を身に付けると、この習慣はどんどん多方面に波及して、結果的に粗悪な経済的意思決定を下したり、逆効果な軍事戦略を採択したり、科学技術を効果的に発展させることに失敗するだろう。こういった失敗は時として起こるものの、普遍的な法則では決してない。最も過激な狂信者や熱狂者でさえ不合理を区別できるからこそ、ある分野では馬鹿げたことを信じる一方で、別の分野では極めて理性的なこともある。

例えばナチスについて考えてみよう。ナチスの人種理論は馬鹿げたエセ科学であった。彼らは科学的根拠で理論を裏付けようとするにもかかわらず、何百万の人々を殺害することを正当化するような強い信念を持つために批判的能力を放棄せざるを得なかった。だが、ガス室を設計してアウシュビッツ行き電車の時刻表を準備する時が来ると、ナチスの人々に眠る理性は隠し場所から無傷で現れるのだった。

ナチスに当てはまることは、歴史におけるその他多くの熱狂的なコミュニティにも当てはまる。科学革命が世界で最も熱狂的な文化のもとで始まった事実に気付くとハッとさせられる。コロンブスやコペルニクス、ニュートンが生きたヨーロッパは、歴史において宗教的過激派が最も集中した、最も非寛容な時代だったのである。ニュートン自身は物理法則を解明するよりも、聖書の隠されたメッセージを探すことに明らかに多くの時間を費やしていた。ユダヤ人やムスリムを追放し、大量の異端者を焼殺、猫好きの老女に紛れた魔女を裂き殺して、満月の日に必ず新たな宗教戦争を始める社会で、科学革命の指導者は生きていたのだ。

もし約400年前に戻ってカイロやイスタンブールへ旅に出たら、多文化の共生する寛容な大都市を見出すだろう。そこでは、スンニ派とシーア派やキリスト正教会とカトリック教会、アルメニア人にコプトにユダヤ人、時にはヒンドゥー教徒さえ隣同士で生活をしていたのだ。彼らなりに意見の不一致や暴動もあったが、ーーオスマン帝国は日常的に宗教的な理由で人々を差別したがーー西欧と比べれば、そこは自由主義の楽園だった。同時代のパリやロンドンへ渡ってみれば、宗教的な頑迷さで充満した都市が見えてくるだろう。そこでは、多数派の宗派に所属する人間しか生きていけなかった。ロンドンでカトリック教徒が殺され、パリではプロテスタンが殺された。ユダヤ人は長きに渡り追放され、ムスリムを受容する考えなど誰1人として思い浮かべなかったのである。だが、科学革命はカイロやイスタンブールよりもむしろロンドンやパリで始まったのだ。理性を保つ能力は、私たちの脳の構造と大きく関係している。脳の部位はそれぞれ、異なる思考の様式に対応している。人間は批判的思考に必要な脳部位の活動を停止したり、再開したりすることができる。それゆえ、アドルフ・アイヒマンはヒトラーの情熱を込めた演説を聴く間は前頭野前皮質の活動を停止して、アウシュビッツ行き電車の時刻表を読み込む時は活動を再開することができたのかもしれない。たとえ推理力の活動を停止するために犠牲を払う必要があっても、社会的な結び付きが高まる利益がしばしば大きいので、フィクションの物語は人間の歴史においていつも決まって真実を打ち負かすのだ。学者は数千年も昔からこの事実を知っているわけで、だからこそ真実と社会の統一のどちらを選ぶか、頻繁に決めねばならなかった。全ての人に同じフィクションを信じさせて団結をするよう企てるべきか。あるいは、社会の不調和という犠牲を払ってでさえ人々に真実を打ち明けるべきか。ソクラテスは真実を選んで、毒殺された。キリスト教司祭であれ、儒教の官僚であれ、共産主義の信奉者であれ、歴史上最も影響力を持つ学術的な権威層は真実よりも統一に主眼を置いてきた。だからこそ、彼らは大きな力を持っていたのだ。


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