見出し画像

松浦寿輝 作品紹介(2019年まで)

 一年前の2019年12月29日、大阪のtoi booksで「toiの読書会特別編トークイベント『松浦寿輝をめぐる黄昏時』」に登壇しました。一緒に松浦寿輝の作品について語り合ったのは作家の雛倉さりえさん。たくさんの方にお越しいただき、とても楽しい読書トークイベントでした。

 参加者へは特典としてわたしと雛倉さんが寄稿した小冊子(製作:toi books)をお渡ししていましたが、イベントから一年が経ったので、そのなかからわたしが担当した松浦寿輝の作品紹介の部分をnoteで無料公開することになりました。

 以下、特典小冊子からの抜粋となります。

--------------------------------------------------------

【作品紹介をめぐって】

 松浦寿輝の仕事のうちのいくつかの紹介。詩、小説、評論、随筆、翻訳、対談など、多岐にわたる松浦寿輝の作品のなかから、初めて出逢うひとにも読みやすいのではないかと思う作品を取り上げることで、より多くの読者に松浦寿輝の世界の入り口に触れていただけたらと思います。

【詩作品】

『ウサギのダンス』七月堂(1982年)
 松浦寿輝28歳の時の処女詩集。最初に配された一篇「物語」、その冒頭の《一人称の物語はここで終わる》という短いセンテンスに、ここからはじまる作者の作品世界、自身の叙情をうたうものとしての詩との決別、そして〈言葉〉の表象それ自体に対する問題意識が託されている。
 《にんげんとりわけ女と禿頭の男を避ける季節が近づいた 「ウサギのダンス」》という鳥肌がたつような文章から広がってゆく詩は、やがてラカンを思わせる《生きているうちに 自分の腐臭を嗅がなければならないとは!》という言葉へと着地する。
 《フワフワし》たり《ピョンピョン》する《いまひとつ別の種類のなまぐささの方へ》行くためには、〈言葉〉という〈幻想〉、あるいは〈否定〉を通してでしか、関わることはできないのだろうか。

『冬の本』青土社(1987年)、高見順賞受賞
 《たとえば、「冬」という漢字が私は好きだ。(中略)基本的には左右対称で、ただその対称のバランスが僅かに狂っているところがよいということだろうか 「たて組、ヨコ組」》。
 作者自身がそう語るように、一見美しく展開されているかのように見える〈言葉〉たちがやがて微かにねじれ、失調していく。自他の境界線を失っていくそんなさまが、なまなましく匂うような文章によって表現されている詩集。
 水性で、倦んだ夕暮れを思わせる詩群は、遠くから眺めてみればまるで〈物語〉のようであるが、目を凝らしてみると、〈物語〉にはけっして存在しえない〈詩〉特有の、対象を約束されないおぞましき〈何か〉があるのが見えてくる。

『吃水都市』思潮社(2008年)萩原朔太郎賞受賞
 〈ある都市〉をめぐってストーリー的に紡がれた、全二十四章からなる詩集。
 なによりもまず、『吃水都市』というタイトルが〈松浦寿輝〉彼自身の表象の結晶であるのだと読み手につよく思わせる。
 それまでに書かれてきた詩や小説、評論に頻出する、彼が長年固執し、依存し、取り憑かれているいくつかのモチーフ――たとえば、〈水〉〈東京〉〈魚〉〈言葉〉〈女〉〈植物〉〈性交〉〈唇〉〈雨〉〈闇〉――が、この詩集に余すところなく詰め込まれ、みずみずしく光っている。
 取り上げられるモチーフは、ややもすればありきたりなロマンチックさと、そのモチーフに纏わりつく先入的なイメージでもって、読み手にとっては新鮮には映らないかもしれない。けれど、ひとりの作家によって特定のモチーフが長年追い詰められ続けられると、それらは絶対的な意味を補強していく――のでは決してなく、むしろ、幾度も俎上にのぼらされ試され続けることで、瞬間ごとにその意味がゆらぎ、べつの官能の線上へつぎつぎに着地していくのだ、という事実を思い知らされる。
 松浦寿輝の偏愛の集大成でもあり、新たな可能性の生成に出逢える詩集。

【小説作品】

『花腐し』講談社(2000年)芥川賞受賞 *講談社文庫 
 花の勢いを腐らせてしまうかのような、まがまがしい雨の振りこめる夜。猥雑な街・新宿大久保の片隅に建つ古アパートとその周辺を舞台に紡がれる物語。
 職を失い、やむなくにわか地上げ屋という〈立ち退かせる男〉となった中年の栩谷。〈立ち退かない男〉として古アパートの一室でひとりマジックマッシュルームを栽培しつつ、万葉集の言葉をひもといては世の中をひねた気持ちで眺める、滑稽な中年・伊関。そして、若々しい肉体をもてあまし新宿の路地を浮浪する少女アスカ。
 世界の〈物語〉の直線からこぼれ落ちてしまった三人が交錯し、喪失感に満ちたそれぞれの過去に思いを馳せ、ゆっくりと粘る茸や夢や性交の幻想に、雨に濡れた街ごと呑みこまれてゆく。人間の背負っている業、日本が背負っているリアリティなき巨大な負債、まるで〈幽霊〉のようなそれらを受け入れるということ。生と死の境目を〈腐る〉という視点から問うてゆく作品。
 古井由吉との往復書簡・対談集『色と空のあわいで』に、松浦寿輝と古井由吉による『花腐し』の対談がおさめられているのでぜひ参考に。

『巴』新書館(2001年)
 四十歳半ばにささやかな短篇から小説をはじめてみた松浦寿輝が、(おそらく)初めて書いた長篇小説。『散歩のあいまにこんなことを考えていた』所収の「自作宣伝――巴」というエッセイでは、《長篇小説『巴』には何もかもぶちこんだ。》と、鼻息荒く興奮する作者の様子もうかがえる。
 物語のはじまる時刻は黄昏時、逢魔が時、大禍時。ふらふらと生きる男・大槻が、ひょんなきっかけで、篝山なる隠居老人の奇妙な誘いにのったことから、運命の歯車がまわりだす。篝山の豪邸で鑑賞させられたエロティックでグロテスクな16ミリのポルノ映画。そこに登場する少女・朋絵に、やがて大槻は身も心も支配されてゆき、朋絵の存在はやがて大槻のなかで眠っていた、性戯と殺人未遂の記憶を色あざやかに蘇らせる。
 作者の愛するヒッチコック映画のようなサスペンスとミステリー満載の作品で、〈映画〉そのものへ捧げられた小説であるともいえる。
 ストーリー展開や登場するキャラクター像は、のちに書かれる『半島』や『名誉と恍惚』といった松浦長篇への萌芽であるのかもしれない。
 《いまどきの流行りではないけれど、わたしは日影丈吉やドン・シーゲルみたいな職人肌のストーリー・テラーが大好きなのだ。》そんな作者の見事な語り口をどっぷりと味わえる、愉悦的で快楽的な一篇。精密描写マニアにもおすすめ。

『あやめ 鰈 ひかがみ』講談社(2004年)木山捷平文学賞受賞 *講談社文庫
 冥界へと誘う花・あやめの名のつくスナックで、同級生と再会の約束をしている木原。必ずやって来るはずの同級生は、しかし待てども待てども訪れず、そのうちに木原は、女、ギャンブル、子ども時代のなまなましい記憶といった、幻想の世界にまぶされていく。
 同じ歳末の一夜、むかし棲んでいたアパートの老人と飲み交わすため、築地市場で仕入れた特上の鰈を土産に想いをめぐらせる土岐。その生臭い魚を収めたアイスボックスを抱え、懐かしい場所へ向かおうと地下鉄に乗るが、呪詛のように押し寄せて来る記憶と影とに追い詰められて、どうしても電車から降りられず、気がつけば土岐は終わりのない世界に足を踏み入れ、自分自身のなかに迷い込んでしまっていた。
 そしてこれも同じ夜。ぬめぬめと濡れた鱗を光らせる蛇たち、それだけを残し、客を寄せつけなくなった鳥獣店の若主人・真崎。彼は存在しない妹〈タマミ〉への愛に長年取り憑かれていた。バー勤めの女や因縁のある幼馴染とややこしい夜を過ごすうち、この男の背後にもまた、冥界の影がゆっくりと忍び寄る。
 一夜のうちに起こった、必ずしも互いに無関係ではない三つの物語。《どの二つを取ってみても独立して存在しているのに、全体としては三つの結び目のように絡まり合っている三つの環というものがある。(中略) この三つの円環は、どの一つを切断してもその瞬間に三つ全部がいきなりほどけてばらばらになってしまうのだ。(あとがき)》。
 異世界の縁を覗きこむということ、世界から思わず滑り落ちてしまう一瞬を想う、繊細で妖しい連作短篇集。

『そこでゆっくりと死んでいきたい気持ちをそそる場所』新潮社(2004年)
 松浦寿輝の小説集のなかでも飛び抜けて松浦寿輝が〈松浦寿輝自身〉と対峙した、メタ的な幻想短篇集。鏡面的な存在への作者のフェティシズムも感じさせる。
 妖しい黒色の造本が魅惑的で、この本の表紙・本文挿画にはフィリップ・モーリッツなる銅版画家(松浦蔵)の作品が使用されている。
 この短篇集の入り口となるのは、そんなモーリッツの絵との出逢いをめぐる『モーリッツの銅版画』という一篇。時は十年前、セーヌ河付近の古ぼけた画廊を舞台にした〈わたし〉の淡々とした物語で、一読しただけでは作者の思い出話だとすんなり通り過ぎてしまいそうになるが、しかし、これが作者の内部から発芽した小説であるのだと意識したその瞬間、作中にみなぎる虚構と現実のきわにぞっと背筋が寒くなる。
 モーリッツの銅版画が現実にこの本を飾っているということ。そのモーリッツをコレクションする〈わたし〉が松浦自身を思わせるということ。〈わたし〉が、《何の変哲もないリアリズム線描画にすぎないように見えながらも突飛な組合せと衝突によって全体として禍々しい非現実を提示している》モーリッツの銅版画に、思いがけず魅入られてしまうこと。
 短篇のラストを締めくくる《「あなたのお好きなモーリッツの世界ね。わたしはあれがそろそろ現実になりはじめているような気がする。」》という老婆のひと言は、読み手のわたしたちを〈読み手〉なのだと、はっと目醒めさせてくれる。
 ほか所収の「同居」「逢引」の二篇は、かつて詩集『冬の本』で書かれた同名の詩をめぐる短篇小説となっている。松浦自身を思わせるプロフィールの〈わたし〉が、この二篇の詩によって〈いまのわたしの世界〉を狂わされていく。
 自作読み直し小説、と銘打てばやや野暮ったくなってしまうけれども、詩篇「同居」「逢引」をもとに生まれた小説「同居」「逢引」は、自作をめぐる自作というパラドキシカルな状態により、詩・小説・批評が渾然一体となったものとして読むことが可能である。とりわけ小説「逢引」ではその要素がつよい。
 詩と小説、ふたつの文学形態の深淵を覗き込む。一枚の鏡を前に、そこでたわむれる虚像たちを前に、松浦寿輝というひとりの作家が立ち尽くしている。
 小説「逢引」が詩篇「逢引」を覗き込む時、詩篇「逢引」もまた小説「逢引」を覗き込んでいる。テクストという〈時間を飛び越える存在〉に身を委ねることよって、松浦自身が果てなく膨脹し、増殖していく。
 それはもしかすると『鏡の国のアリス』の、赤の王様がアリスの夢を見ることで、あるいはアリスが赤の王様の夢を見ることで、あの世界が存在していたのと、とてもよく似ているのかもしれない。

『半島』文藝春秋(2004年)読売文学賞受賞 *文春文庫
 長年勤めていた大学を辞し、ひとりふらふらと瀬戸内海の半島S市に人生の仮初めの棲処を求めてやって来た中年男・迫村。どこか翳りを帯びる半島の住人たちと交流を重ねていくうちに、迫村の求めていた日常の糸は少しずつゆるみ、ずれていき、現実と非現実のあわいで起こるさまざまな事件に巻き込まれていく。
 『巴』の進化版といったテイストだが、『巴』発表から三年が経ち、ストーリー・テラーとしての作者の力がさらに発揮されている。壮大で、たっぷりと練られた長篇小説としてのスタイルが確立されており、幻想の迷宮へ読者を深く深く誘う。その力強さを、それまでの作品以上に読み手に味わわせてくれる。
 『人外』発表までの松浦寿輝の純文学長篇のなかではもっともファンタジー色がつよく、個性的なキャラクターや場所が妙になまなましい。《いわば中年という人生の一時期をめぐる一種の寓話のようなものであるかもしれない(あとがき)》と、作者は語る。

『名誉と恍惚』新潮社(2017年)
 時は日中戦争の只中、魔都・上海の共同租界(諸外国が共同で行政権を保持していた地域)、物語の主人公は工部局警察に所属していた男・芹沢。愉悦と享楽に興じ続ける上海租界にも、盧溝橋事件の軍事衝突による緊張感が漂っていた。
 ある日、芹沢は陸軍参謀本部少佐・嘉山から、上海アンダーグラウンドの王・蕭炎彬を紹介してくれと頼まれる。権力沙汰にとんと興味のない芹沢は、非番の際は骨董品や写真や音楽、また美少年を愛で、骨董屋の馮篤生という老人と懇意にしているのだが、じつはその老人の姪が蕭炎彬の第三夫人であることがわかって――。国家的陰謀に巻き込まれたひとりの若い〈日本人〉の男の、数奇な人生が描かれた大作長篇小説。
 ストーリー展開やキャラクター、愉悦的な性描写など、『巴』『半島』の系譜ではあるのだが、2006年から2010年にわたって新潮で連載された評論『明治の表象空間』のエッセンスが作中に色濃くあり、これまでの彼の長篇には見られなかった〈近代国家〉〈国体〉〈革命〉〈ナショナリズム〉といった骨太な政治的イデオロギーを軸に、物語全体が組み上げられている。
 当初〈日本人〉であったはずの芹沢は、物語がすすむうち、やがて自らのアイデンティティを見失い、同時に潔く見棄ててしまう。〈国体〉とはなにか。民族とはなにか。その境目をさまよいながら芹沢は、国家の陰謀の果てに俊徳丸のごとく身をやつし、沈昊なる中国青年に生まれ変わって、自らの生の衝動のまま中国の天地を駆けめぐる。
 名も言葉も前世も失ったひとりの存在が、流れのままに流されて生きていくその展開は、次作の長篇小説『人外』の根底につながっているといえよう。

【評論作品】
『折口信夫論』太田出版(1995年)三島由紀夫賞受賞 *ちくま学芸文庫
 匂いやかで幻惑的な世界を描きつづけた折口信夫を、『死者の書』に視点を据えて、緻密に分析した評論作品。
 折口をめぐる思考のなかでも、〈もどき〉とよばれる表象へのまなざしは、わたしたち読み手がもつ言葉への感覚をとてもつよく揺さぶってくる。
 《言語とは、そのものではありえないし、そのものであった試しはない。それはいつもそのものの「もどき」でしかないのだ。 『死の贄』》
 折口そのものの内部で、折口の言葉そのものに十分に語らせつつ、しかも折口から無限に遠ざかろうとする試みとして執筆されたのだ。と、まさしく〈もどき〉のスタンスそのもので、『死者の書』と対峙を試みる松浦寿輝。
 この本のなかでくりひろげられる〈もどき〉の迷宮へ足を踏み入れれば、きっと折口信夫と松浦寿輝、ふたりの書き手に奇妙な親和性を感じることだろう。

『官能の哲学』岩波書店(2001年) *ちくま学芸文庫
 〈表象(エロス)〉をめぐって展開される、多角的論考。
 言葉に接近する瞬間、わたしたちに必ず纏わりついてくる〈わたし〉という存在。〈わたし〉によって生起されるさまざまな表象を、文学・絵画・写真・映画・そして〈身体〉を補助線に引きながら紹介し、エロティックに論じていく。
 〈表象(エロス)〉をめぐる松浦の言葉は、その官能性に寄り添うように詩的で、評論に慣れていない読み手にも親しみやすい。
 《一つ一つの言葉を誘惑しそれを「征服」――性的な意味で――するようにして語りつづける「わたし」は、同時に、言葉によって絶えず誘惑されそれに「征服」されつづけているのだが、そうした相互干渉を通じて「わたし」が「わたし」の外へと溢れ出し、しかし「わたし」ならざるものへとついに脱皮しつくすまでには決して至らず、決定的な臨界点の手前で曖昧にたゆたっているとき、「わたし」の唇から洩れる言葉の連なりもまた、よそよそしさを徐々に放棄し「わたし」に対して濃厚な媚態を示しはじめる。 「erotiques/rhetoriques」》
 バルテュスの絵画をめぐる思考「インテルメッツォ」、解剖されて二つに分裂した老人の、右頭部と左頭部とが接吻している官能的な一写真をめぐる鏡面的思考「見えるものと見えないもの」の章は、本書のなかでもとくに秀逸。

『物質と記憶』思潮社(2001年)
 日本の近現代小説家や詩人をめぐり、十数年にわたって書いてきた随筆および評論をあつめた一冊。偏愛している吉田健一への冷静な解釈からはじまり、内田百間、永井荷風、川端康成、古井由吉、寺山修司、藤井貞和、北村太郎、吉増剛造、朝吹亮二、西脇順三郎といった作家への、細やかな分析と接近。
 それらをくぐり抜けると、現代詩の当時の状況に対する松浦の客観的な視点を垣間見られる随筆「明るい敗亡の彼方へ」。献本という慣習についてシオランやベケットを用いながらシニカルに語る「好意について」。まだ若き三十代の頃、〈文芸誌共同体〉への忖度をものともせずに勇ましく書いていた文芸時評、それらを黒歴史として終わらせず、きちんと本に収録するということ。
 《というのもデフォー以来高橋源一郎に至るまで、「小説」概念とは絶えず浮動しつづけるごく曖昧な文学的申し合わせによって辛うじて成立している仮初めの通貨であるにすぎず、その交換の現場においてはいかなる貨幣も基準通貨たりえない永遠の変動相場制が状態であるからだ。つまりここでは、そのつど書かれそのつど読まれるいちいちの具体的な作品がぼやけた輪郭のまま揺らめいているだけで、それらすべてを包括する一般的な「小説」像とか、それとの距離がそのまま個々の作品の畸形性の度合いとして計測されうる本質的な「小説」原型とかのような超越的な水準は想定しえない。「小説」はなく、小説のようなもののあれやこれやがあるだけなのだ。従って、そうしてものを書いたり読んだりする人間がいなくなれば、それはそのまま文学のこの一ジャンルの即物的な死の瞬間を意味することになろう。時間を越えて屹立する不滅の記念碑といった超越的な性格は最初から奪われている。
 ここに小説の魅惑がある。それを書きそれを読む具体的な行為を通じて、そしてただそれだけを通じてのみ、そのつどほんの束の間現勢化する非現実的な運動でしかありえないという宿命に惹かれて、われわれは小説らしいあれやこれやの言葉の連なりの中に自分を立ち紛らわせてゆくのである。 「小説以前について」》

『明治の表象空間』思潮社(2014年)
 《準備段階まで含めれば、結局わたしの五十代の全体をまるまる捧げることになってしまったこの仕事》と、作者自身があとがきで思わずため息をつかずにはいられないほどに長大な、日本における表象の歴史を包括的に語った大作評論。
 ドゥルーズ的な横断のもと記された、警察をはじめとする行政制度、近代刑法典の記述システムの変遷、〈漢文一致〉から〈言文一致〉へ至る書き言葉の変容、国体をめぐる政治思想、博物誌におけるシステム的論考の誕生、〈言葉〉による天皇制のイデオロギー、そして北村透谷・樋口一葉・幸田露伴の文業の表象的影響等の学術的論考は、直後に連載された『名誉と恍惚』の骨組みを成す。と同時に、現在の表象文化論の、まさに超域的な表象の結晶そのものであるともいえるだろう。
 松浦寿輝の本のなかでは相当難しくはあるものの、松浦初期に書かれた『平面論』『エッフェル塔試論』『表象と倒錯――エティエンヌ=ジュール・マレー』の代表的評論三書、そして詩集『吃水都市』がこの本の出発点であること、現在の松浦寿輝の到達点であることなどから、いつかぜひ一度ページをひらいてみてほしい一冊。

【その他作品(一部)とミニ紹介】

*詩作品

『レッスン』七月堂(1984年):同人〈麒麟〉での共著。

『女中』七月堂(1991年):とにかく造本が美しくて感動する、触ってほしい。

『松浦寿輝詩集』思潮社(1992年):とりあえず詩集は手もとにこれがあれば◎!

『鳥の計画』思潮社(1993年):鳥の本だけど鳥じゃないものも出てくる。

『afterward』思潮社(2013年):ひらがなのなめらかさを知る。久々の詩集出版でオタクが泣いた。

『秘苑にて』書肆山田(2018年):またまた久しぶりの詩集出版でオタクが泣いた。内容も作者による意図的なおじいちゃんみが出ており、ひじょうに泣ける。

*小説作品

『もののたはむれ』新書館(1996年):初の小説作品集。「わ」じゃなくて「は」。文春文庫で読める。

『ウサギの本』新書館(1996年):まさかの児童絵本。クリスマスプレゼントっぽい。

『幽 かすか』講談社(1999年):読後に〈幽〉という漢字をみたらギョッとして、もう二度とこの漢字を純粋には見られなくなる。講談社文芸文庫で読める。

『川の光』中央公論新社(2007年)
『川の光 外伝』中央公論新社(2012年)
『川の光2 タミーを救え!』中央公論新社(2014年)
:『ビアンカの大冒険』とか『ガンバの大冒険』的なキッズも読めるねずみ冒険物語。アニメ化もしていて、かねともも出演している。

『不可能』講談社(2011年):もしも三島由紀夫が自決せずに変態おじいちゃんになっていたらたぶんこんな事態になっていた件。

『BB/PP』 講談社(2016年):青髭の童話をアンドロイド話に置き換えたグロテスクでエッチなホラーなど。

『人外』講談社(2019年):けもけもした可愛いはずの生き物が妙に達観しているさまがシュール、ちょっと読みにくいけれど文章ののどごしがとてもよい。松浦寿輝が自身の偏愛対象を凝縮させて織りあげた寓話。

*評論作品その他

『口唇論 記号と官能のトポス』青土社(1985年):のちの『折口信夫論』に通ずる、くちびると息と言葉の官能性について。くちびるという入り口と出口。

『スローモーション』思潮社(1987年):〈今〉だけど〈今〉じゃない、スローモーションという現象のふしぎ。

『映画n+1』筑摩書房(1987年):ゴダールとヒッチコックほんとに大好きなんだね……と降参してしまうほどの強烈な偏愛。読むと映画の観方がわかってたのしい。

『平面論』岩波書店(1994年):究極の二次元論。岩波現代文庫で読める。

『エッフェル塔試論』筑摩書房(1995年):ザ・記号論。ちくま学芸文庫で読める。

『映画1+1』筑摩書房(1995年):クリント・イーストウッドなどに対する論考も載っており、現在の読者にとっても親しみがあると思う。

『青天有月 エセー』思潮社(1996年):たぶん吉田健一リスペクトで書かれた随筆集。どうして松浦寿輝は〈黄昏時〉に惹かれてやまないのか。

『表象と倒錯 エティエンヌ=ジュール・マレー』筑摩書房(2001年):写真と映像のあわいに思いを馳せる。表象文化論的な視点のなかに、医学的視点も垣間見られて興味深い。表紙も綺麗。

『青の奇蹟』みすず書房(2006年):水面に取り憑かれた作者のエクリチュール論。なんといがらしみきお『ぼのぼの』についても書いてある。

『散歩のあいまにこんなことを考えていた』文藝春秋(2006年):松浦寿輝のエッセイのなかで飛び抜けて読みやすい本。とにかくゆるゆる楽しめる素敵な一冊。

『波打ち際に生きる』羽鳥書店(2013年):東京大学退官講演をもとにつくられた一冊。読んだだけでオタクは泣く。『不思議の国のアリス』と『鏡の国のアリス』を補助線に、近代の時間システムをめぐって書かれた論考がとてもよい。

『黄昏客思』文藝春秋(2015年):地味めな一冊だけどまさに滋味豊富。黄昏に対するつよい憧れは『青天有月』からずっとずっと続いている。

『水火』:朝吹亮二・川上弘美と発刊していた同人誌。詩だけでなく日記とかもあって読むとたのしい。全ページ活版印刷で200部限定。たいへんまぼろしである。

--------------------------------------------------------

【書誌情報】
『松浦寿輝をめぐる黄昏時』
2019年12月29日 第1刷発行
著者:磯貝依里, 雛倉さりえ
発行所:toi books

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?