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ヒーローのいないこの世界で

あいつが悪いのだ!と指をさせたら、楽になるのだろうか。
心痛めるよりも、弱者を守るヒーローのような気分で、社会を傍観できるのだろうか。
悪者をやっつけて、パンチやキックで空の彼方へ吹っ飛ばすとたくさんの子どもが笑顔になるように、世界はそんな風で良いんだろうか。

尊い犠牲なんてものは無いと、私は思います。
みんなどんな国どんな境遇の人だって、犠牲になんかならなくて良い。
そこにあるのは悲しみだけだから。


間違えたリーダー、間違うリーダーを担ぎあげた誰か、間違いを止められなかった誰か、守りたいものを手放す誰か。
誰もが掌に爪を立てなくて済むその方法を考える術が私たちにはあるし、そのために私たちは何十年何百年と学び続けているのだと思います。


絶対的脅威に晒され、理不尽に傷つけられる誰かを守らなければいけないのは大前提。
ただ、それだけでは、また悲しみを繰り返すと思うのです。
傷ついている人は、他にいないか。
救わなければいけない人は、本当にそれだけか。
私たちの代表は、今なにをしているのか。
こんなに悲しいのだから、私たちは誰かを悲しみに葬らない代表者を、これからも選び続ける義務があるということ。

たくさんたくさん考えます。
憤って、がっかりして、私のあらゆる思考で世界が平和になることなんて無いのかもしれない、と絶望します。
言語を文化を文学を歴史を必死に学んで、沢山の人の話を聞いて、それなのに、こんなことが起きて全部くそくらえじゃないか!と思います。

でも私はやっぱり、考えます。
私たちには夢を見る力があって、「そんな物ない」「どこかに置いてきた」と思う人も、悲嘆するということはちゃんとにその存在を知っている人なのだと思います。
平和ボケだと、笑われても良い。
笑われるくらいに小さな子どもの頃から、わたしは七夕の短冊に「世界から戦争がなくなりますように」と願ってきました。
今小さな子どもたちがそんなことを短冊に書かなくて済むように、傷つかない世界をちゃんとに夢見ます。

願ったって考えたってなんの力も持たないわたしはやっぱりくそくらえだ。
いつになってもスーパーヒーローが現れないこんな世界もやっぱりくそくらえだ。

だから、今日もわたしは考える。考える考える。

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