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ここにある愛という生き物について

ただそこに座っているだけで輝いてしまうスペシャルないのちを持って生まれたこの星のみなさん、こんばんは。
今日はこの季節になると(きっとこれからも何度だって)思い出す記憶の話です。


数年前のある夏から秋頃の私は、笑うことも怒ることも悲しむことも忘れてしまっていました。
当時の日常はあまり覚えておらず、どんな風に運転して会社に向かったのかそれで帰ってきていたのか。
どんな顔で、どんな身なりで、澄まして社会の一員と胸を張っていたのか。
てんで、思い出せません。

そんなある日パートナーが、心を止めたまま生きる私を、何かを堪えるような目で見つめてきた事がありました。
何を言われたわけでも無いのに、瞬間的に怒りを覚えた私は、「あなたに私の悲しみや苦しみを理解できるはずがない。何十分の1だって分からないでしょ」と吐き捨ててしまいました。

彼はきっと今までで一番醜い表情をしていた私を黙って抱きしめ、「うん、分からない。君の悲しみを理解してあげられないから、こうやって今日も昨日と同じようにハグをしてあげられる。明日も変わらず」と言いました。

久しぶりに「怒り」というものを感じた私はなぜか嬉しくて、それで子どもみたいに大泣きしたのでした。

共鳴を価値とする世界で、あなたと理解し合えないからこそ寄り添えるのだと堂々と言ってのける他人が、この世界に生きている。
その事実そのものが光り輝いて見えました。


思えば私たちはひとりで生まれてきて、多くの人が唐突にひとりで消えてゆく。
生まれた時も消えゆく時も、願われるのは「ただそこに在ってくれればそれで良い」ということ。

いのちに関する「どうして」「なんのために」といった疑問の答えは、きっとそれだと思うのです。
本当は、今日もそこに在るというだけで良い。
綺麗事なんかじゃなく、きっとそれが答えだからこそ、あなたはそんな風に輝いて居るのだと思うのです。
たまに美味しいものに出逢って感嘆したり、不意にぐっすりと眠れて安心したり、もしそんなことがあれば120点ガッツポーズだと思うのです。

私がハグをするために、あなたは明日もそこに在って。
共感も生産も求めず。
あなたにハグをしてもらうためだけに、今日も私はここに在ります。

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