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クラゲ

 澄みきった夏空の下、山河勇気とその後輩二人を乗せたプリウスは、茅ヶ崎の海岸沿いを疾走する。今日は大学生の、長ーい長ーい夏休みの初日だ。富士(ふじ)大学芸術学部2年の勇気は、夏真っ盛りのリゾートバイトが始まる前にこの旅を実行に移したかったのだ。後部座席にはメアリーと蓮子が座っている。メアリーは、留学生としてハンガリーからやってきた。そしてこのメアリーが今回の茅ヶ崎旅行の理由でもある。英語の堪能な蓮子は、通訳要員という名目だったが、実際は金魚のフンのようなものだ。

 『東京物語』を観て以来メアリーは、小津安二郎を崇拝していると言っても過言ではない。日本に来てからすぐのゴールデンウィークには、小津がどんな所で生まれ育ったかを少しでも感じたい、とわざわざ江東区深川まで赴いた。古い建物の残る街並みは、下町らしい風情が溢れていて、メアリーは感嘆しきりだった。普段彼らの住む北陸もまた風情あふれる美しい土地だが、やっぱり違う。
 そんなメアリーが「チガサキニイキタイデス」などと言いだすもんだから、映画研究会の先輩である勇気は黙っちゃいられない。先輩の腕の見せ所である。早速ホテルを予約し、現地でのレンタカーを予約し、茅ヶ崎の海岸のどの辺りが小津作品に出てきたかまでネットで調べた。さあ、準備は万端。
 メアリーは日本語が堪能で、日本に関しての造詣も深く、よく「日本人より日本人」という褒めているのかただ事実を述べているのか分からない事を言われるのであった。しかしだからこそ勇気はメアリーに、日本の様々な場所を見せてあげたいと感じるのである。また勇気自身、高校時代に留学したイギリスで、ホストファミリーに大変良くしていただいたという思い出があるので、そのご恩を次の世代に返したい、という見上げた気持ちもあるのだ。

 メアリーが茅ヶ崎の海岸に降り立ち、足を水に浸してみると、その数センチ先にはクラゲが居た。見つけたメアリーは得意な気持ちになり、他の二人を大声で呼んだ。
「キャーーーー怖い!でもちょっと踏んでみたい」
「ダメヨ。カワイソウ」
 動物愛護家のメアリーは、ヴィーガンでもある。食用ですら動物を傷つけたくないメアリーが、娯楽のために動物を傷つけるのを許すはずがない。
「べつにほんとに踏むわけじゃないもーん」
蓮子はふざけてフグのような顔をする。
「気ぃつけてなー。刺されたら痛いんやから」
勇気は父親のような目で、はしゃぐ二人を見守る。

 海に足首まで浸かって浜辺の生き物を見つけつつ、小津映画について語りあいつつしていると、段々雲行きが怪しくなってきた。夕立が来るのだろう。夏であるにも関わらず、なんとなく寒くなってくる。
「どーしよーおしっこ行きたくなっちゃったー。でもトイレ遠いしー。もはやここでしちゃおうかな。なんて」
「ダレカガクラゲニササレルノ、マッテミタラ?」
「やだー!もう!メアリーウケるー!先輩聞きました?誰かがクラゲに刺されるの待ってみたら?だってw!」
「そんなん言うてくれはったら先に刺されといたのに!」
「何言ってんの先輩ーもー面白すぎー!大丈夫ですよーだ。トイレまで我慢するもん」
 メアリーと蓮子が、実はこの時勇気がふざけていたのではなかったのだと知るのは、まだまだ先の話。

私は、文章を書く時、だいたい自分の経験から書きます。したがって、いただいたサポートは、今後も様々な経験をしにいくことに使わせていただきます。