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原色と音の渦

私が成人式の頃は、私は、どんな私だっただろう?どんな風景の中を進んでいたのだろう?

当時、私には彼氏がいたが、彼氏には内緒でほぼ毎週末、通っている場所があった。彼が週末は必ずアルバイトに行くスケジュールであることをよいことに。

毎週末、マハラジャへ通っていた。

当時、ボディコンを着て入店したら無料とのことで、マハラジャのトイレやロッカーで着替えて無料で朝方まで遊んでいた。

遊びとは、ひたすらお立ち台で踊りまくる!

4人以上の仲間で行き、四隅に配置してあるお立ち台に別れて立ち、皆で踊りや掛け声を合わせて踊るのだ。

扇子や羽のショールも色とりどり沢山持っていた。もちろんボディコンも色んな際どいデザインの物を沢山持っていた。

ハイヒールで長時間踊るのが辛くなると、ヒールを脱ぎ捨て、素足で踊った。

視界の下のダンスフロアでは、盛んにナンパが繰り広げられているのが見える。あ、さっきの男達、また別の女に声掛けてる。トイレに連れ込んだ?時たま冷静に見物していると、人間模様も見えてきて面白い。

オトコ達はお立ち台に登っている女には目もくれない。水分補給の為に時々ソファー席へ降りてアルコールを飲んだりするのだが、その時も誰も声をかけてこない。おクスリ等の危ないお誘いも皆無だ。

我々は別世界のオンナなのだろう。

別に、オトコを求めに通ったわけではないからいいのだ。

欲したのは、高揚感。あの音楽が響き渡ると、ザーッと高揚感が足元から這い上がってきて頭の先を突き抜けていく。その直後、多幸感がバーッと降り注いでくる。

周囲は溢れるほどの光の渦と、足元にはギュウギュウに詰まっている人達。私達の掛け声やポーズに合わせて一緒にノッてくれる人、人。

お立ち台に登りたい。突き上げてくる理由は、その高揚感、多幸感を体感したいから。それと、目立ちたいからであったのだろう。

目立ちたい?ていうのとは違うんだよなー。なんて反論しようと思っても、他に理由は出てこない。

そう、目立ちたかったのだ。もっともっと目立ちたくなってボディコンももっと過激な物になった。

でも、そしたら、狭い地元の故、見知った人に目撃されるかもしれない。噂になるかもしれない。彼氏の耳に入るかもしれない。

私達が選んだのは、福岡へ行って福岡のお立ち台に登ることだった。県外なら心置きなく、過激な服装も踊りも出来る!しかも心ときめく都会だ!

お立ち台仲間はどんどん減って私と1人になっていた。その1人の友達の、お父さんが、博多駅の傍のマンションに単身赴任で生活していた。週末は必ず自宅へ帰る。お父さんが自宅へ帰って不在のマンションを、私達は使わせてもらった。最高の宿泊場所であった。

金曜の夕刻にJRに飛び乗り、福岡へ着くと、マンションに荷物を置いてボディコンに着替える。タクシーに飛び乗り福岡のマハラジャで数時間。残りの数時間はマリアクラブへ移動して踊る。朝方帰って爆睡だ。買い物や観光は全くしなかった。外食すらせず、コンビニ弁当をマンションで食べて、夜はまた踊りに行き、2泊3日を過ごした。

福岡のディスコは、規模も大きかったし、人もほんとに沢山の人がいた。

けど、やはり、オトコは一切絡んでこない。余所者だからか、黒服も私達には話しかけてこなかった。

収穫はというと、武勇伝がほんの少々ある。

ローカルテレビ番組出演の依頼の声掛けをされたことがある。もちろん断ったけど。今週のボディコンクィーンとして1万円賞金もらったことがある。歴代のクィーンと共にポラロイド写真が飾られた。店の外、マリア通りで博多大吉にナンパされたこともある。

あの当時の私は、いまが楽しければよかった。

今さえ楽しければ。他は何も考えなくてよかった。

単位取得や課題にうるさくない学校の学生であったから可能だったのだろう。アルバイトで遊び金を作り、欲しい物を買う。アルバイトも何らかの煩わしさが発生したらすぐに変えた。

あんなふうに、刹那主義な生き方をしたのは後にも先にもなかった。

そう思えば、それが一番の収穫だ。

色と音の洪水の中で、刹那的に生きていた私達。

私の人生の中でも輝きを放っているひとときである。



#エリコの思い出語り