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「どこまでも飛んで行ってしまうかもしれませんね」

少し前に、明け方思い出したことなんだけど、ずっと頭から離れないので、noteに書いてみる。

高校生の頃、かなり頭痛持ちで保健室によく行っていたので、いわゆる「保健の先生」となかよしだった。そのことにお礼をと卒業間際、親が何かのお礼の品を送ったことがあった。そして、お礼の葉書が届いて、そこに書いてあった言葉が、「絵里子さんは芯が強いので、これと決めたらどこまでも飛んで行ってしまうかもしれませんね」という言葉。

それを見ながら、そっか、私は横浜の大学に進学するしなぁと思った。地元から通える大学や短大なんかを選ぶ子も少なくない中で、東京に出ることしか考えてなかったから、そうい言われたのかなと。

ふと、気づいてみれば。東京どころでなく、名古屋に移ったこともあったし、そして今はハワイ。「どこまでも」はハワイで終わるのかもっとどこかに行くのか。

保健の先生は、わたしをよーく見てくれてたんだなと思った。それが、今更ながらに嬉しかった。社会人となっては、「自分にどんな価値があるか」「どんな価値を提供できるか」がその場所にいる理由になったりする。それで値付けも決まる。でも、保健室に行くっていう行為は、別に何者でなくてもいい。ただただ、その人のまんまで、そこにいて大丈夫。

それは安心できるよね。

保健室のひんやりしたベッドで寝るのが好きで、頭痛薬を飲んではよく寝ていた。理系の科目はずいぶんサボったから、よく3年間で卒業できたねという状態だったなと思う。未だに数学というか算数が苦手だし、理系の知識がゴッソリ抜け押していて、学生の頃の学問はある程度必要だったんだなーと思う。やり直したくは、、ないけど。


もとい、誰かとの間柄、誰かにとっての間柄は、何者でなくてもいい、何をしなくてもいい、保健室みたいだといいなと思う。そしてただただ、相手のことを見てあげられている感じ。そうありたい。




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