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舞台「もしも命が描けたら」感想と考察

とうとう私も『もしも命が描けたら』を観る事ができた。

とてもとても観たかった舞台だ。きっとコロナでなかったら日本に帰っていたはずだ。田中圭さんのファンになって4年目。常日頃から『もし圭さんの舞台があれば、次こそは絶対に日本に帰る。絶対に観たい。』と言い続けてきたのだ。その為に小遣いも貯めていたし、家族にも職場にも「そのうちまた日本に帰省したい…」と言い続け、私なりに地道な根回しもしていたのだ。どんなにシンドい仕事も「いつかきっと舞台を観に行く為だと思って(仮)!」と自分を鼓舞して頑張ってきた。でも、いざ舞台の知らせが出たときには、世界はコロナだった。もう手も足も出なかった。自分の住んでいる町から出ることさえも憚られる様になってしまったこのご時世、国を跨いで出掛ける事なんて到底無理だった。観たくて観たくて胃がねじ切れそうな程のやり切れない気持ちでしばらく不貞腐れていたのだが、なんと配信決定の知らせが届き、信じられない気持ちのままチケットを買うことができ、まだ夢じゃないかと思っているうちに配信初日を迎えた。

配信初見は、ただただ『役者 田中圭』の熱量に圧倒された。命を削るような芝居だったとは聞いていたが、噂に違わない凄さだった。セリフの量も勿論だったが、舞台上で圭さん演じる 月人の魂が本当に燃え尽きてしまうかのよう思えた。一人の人間が、こんなにエネルギーを発する事が可能なのかと驚き、心が震わされ涙が流れた。物凄いものを観た。すごかった。田中圭さん凄かった。本当に圭さん、めちゃくちゃ凄かった。

圭さんの舞台が観た過ぎて、胃がねじ切れそうな想いだった私は、圧倒的な物凄い『田中圭』が観れたことで、大きな充足感と共に「田中圭さん凄かった!!」というシンプルな感想しか暫く出てこなかった。

とはいえ2時間の舞台を観てそれしか感想が出てこないなんてどういう事だろう。

私は靄がかかったような記憶をたぐり寄せ、ストーリーの詳細を思い浮かべようとした。だが、まるで夢をみて目を覚ましたときのような不思議な浮遊感と違和感ばかりが湧いてきた。どうも内容が上手くまとまらない…。

幸いな事に配信期間中は、何度でも視聴可能だった。私は、圧倒的な「田中圭さん凄かった!!」以外に私が感じたこの作品の微かで奇妙な違和感を、もっと整理して形にしようと心掛けて注意深く2度、3度、4度…と時間が許す限り視聴を繰り返した。

そして、視聴を重ねるうちに、私なりの考察めいたものが浮かび上がってきた。少し異端な考えかもしれないし、ネタバレも多大に含まれるし、私の勝手な憶測も多い。でも、ちょっと書いておくのも面白いかも…という気持ちが膨れ上がったのでnoteにしたためたいと思う。とても長くなると思うが、暇つぶしにでも良かったら…。


舞台は、暗い森の中から始まる。主人公の月人は、どうやら首吊り自殺に失敗したらしい。「僕死んでいない?生きている?なんでだよ!!」と、とても苦しそうに泣く。そして、現れた『三日月』に対して、長い長い語りが始まる。月人が生まれ成長し、父の事、母の事、星子との出会い、星子の死で人生に絶望した経緯を語る。そして、その絶望から自死を図ったあと、また冒頭の森で「僕死んでいない?生きている?なんでだよ!!」の同じシーンが繰り返される。ただし、今回は三日月とのやり取りが冒頭のものよりも進み、月人は三日月から、絵を描く事で命を分ける…という不思議な力を授かる。月人は森を出て、虹子や陽介に出会い、大切な人のために絵を描いて、やがて絶命して物語が閉じるのだ。


私は、この冒頭から前半は月人の走馬灯だと考えるのだ。物語は月人がすでに首を吊った後の時点から始まる。舞台の冒頭の場面からすでに月人は死に向かっている。月人の生命が消えゆく過程で、彼の脳内でこれまでの人生が振り返られるのだ。月人の人生で起こった事柄が、月人の主観で再生される。

そして中盤の森のシーン以降は、いよいよ死に近づき、混濁した意識の中で月人が絶命するまでにみた長く苦しく幸せな夢だったのではないかと考える。死にゆく月人が、この世とあの世の狭間でみた夢。

誰もが夢をみた事があるだろう。夢の中では、辻褄の合わない出来事になぜか納得したり、そうだと思い込んだり、時系列が崩れたり、不思議な人物が出てきたり、なぜ楽しかったのかわからない事に妙に高揚していたり、支離滅裂だったり。この物語は、前半部分の過去語りはかろうじて現実感があるのに、月人が力を授かってからの世界は、統合性が崩れ、曖昧で奇妙で、どこか夢の感覚に似ているのだ。私にはそう感じられた。

以下、私の考察を交えてエピソードを振り返っていく。

どうしたら月人さんみたいな人が出来るわけ?

星子が言うのだ。「どうしたら月人さんみたいな人が出来るわけ?」と。月人さんは少し変わった人だ。

舞台の前半部分、月人は自分の人生を三日月に語る。とても悲しい過去だ。父親は2歳のときに出て行った。母親は11歳のときに消えてしまった。母の姉、サチコ叔母さんの家に引き取られ、そこで可愛がられて育つが、馴染めず『フリ』をして生きてきた。絵を描く事が好きで才能があった。無表情だった母親へのトラウマがあり人の顔は描かない。養家の家業の工場が経営不振になり叔父が自殺。金銭的な理由で絵を描く事を諦めた。愛を知らずに育ち、誰とも関らず、ただ毎日クタクタになって仕事をするだけの孤独な青年。30歳を超えて出会った星子。星子も7歳で家族を亡くし、叔母さんの家で育った子だった。同じく「フリ」をして生きてきた者同士、気持ちが通じるものがあり、次第に距離が近づくのだ。

いつかその重い服 脱げるときがきたらいいね。

星子とのお互い「フリ」あるあるで盛り上がったとき、星子は、自分の叔母が星子の幸せのフリに気づいていて、フリに伴走をしてくれていた事を話す。そしていつしかフリがフリでなくなったと。星子は「フリ」をする事を「重い服」に例え、月人もいつか「重い服」が無くなればいいね…と。それに対して、『僕はいいです。このままで良いです。僕と彼女の違いを知って寂しさが喜びを削った』と言うのだ。

月人はサチコ叔母さんの家に引き取られ、“スッゲェ可愛がられて育った”というのだが、愛を知らないで育ったのだ。養父母の家と言えども、サプライズでパーティーを開いてもらったり、一緒にゲームをしたりした関係だったらしいのに…。また、叔父が亡くなってから、無表情になった叔母さん。その叔母さんに月人はほっとしたと言うのだ。仮にも11歳から高校を卒業するまで育ててくれた叔母さんが、そんな悲しい事になったのに、月人のこの反応は思いのほか冷たいと私は感じた。高校卒業後もすぐに養家を出てしまう。家族として息子として期待されつらかった…とも言っていたが、期待をされていたことには気付いていても、その期待には応えたく無いようだ。月人は、夢を諦め、高校卒業後に甲本配送という配送会社に就職してクタクタになるまで働いていた。配送会社は、肉体的にキツい仕事だと聞くが、一般的に決して薄給の業種ではない筈だ。そこで10年以上も、趣味もなく誰とも関らずクタクタになるまで毎日働いた男子が、星子との結婚の際に結婚指輪も新婚旅行も無しなほどとは。無いのか…。

重い服が脱げたらいいね、という星子に対し、『僕はいいです』というような月人。とても硬く心を閉ざし、人との関わりから逃げてきた人物だ。人から関わられるのを嫌い、自分から関わる事もイヤなのである。その頑なさは些か普通ではない。

また、母親の無表情が怖くて『人物の顔を描かない』という月人。これは、正しくは『描きたくない』なのではないか?仮にも中高と美術部に所属し、美大受験までしたわけだ。一度も全く人物画を描かないわけがない。いくらなんでも課題があるだろう。だから描きたく無いながらも、絶対に描いているはずだ。クセの強い高校の美術の先生に『なぜゲットは人を描かない?』と言われたエピソードが語られるが、この美術の先生は、「才能があるのに人物画を描かないのはもったいない」と言った訳ではないと思う。人との関わりを極端に避ける月人に「絵の対象としてもっと人物を描けば、人と言うものを掘り下げ心も絵も成長出来るかもしれないのに」というアドバイスだったのではないか。それに対して『人物画は描きません』と拒否し、おそらく何度かは描いていたはずなのに無かった事にする月人の闇はやっぱり深い。

月人の魂はとても高潔だ。自分という殻に閉じこもり、他者との関わりを断つ事で、誰とも交わらない純度を保っている。繊細で脆く、儚げで美しい。厚い殻の中で孤独に生きる月人は、他者を拒絶するあまり、外から投げかけられる愛情や好意も受け付けられないのだ。そしてそれと同時に、人は自分から他者に愛情を差し出すことが出来るとものだいう事も全く認知していないのかもしれない。この時点では…。

独りぼっちでいいと思っていた僕の手を握って穴から引っ張り出してくれた星子さん。

星子との距離が縮まり、少しずつ殻から出てくることができた月人。束の間の幸せである。これから、どんどん愛や幸せを知るはずだったのだ。でも星子は死んでしまう。

星子が悲しい事故で亡くなってしまったあとに、月人は死んだ星子の顔を描く。月人はこの事故の日の朝に『今日こそ星子さんの顔を描く』と約束していたのだ。これは本当に悲しい。思えば、はじめて居酒屋で一緒に飲んだときから『私の顔を描いて』と言われていたのだ。プロポーズした日にも請われていた。だが、ここまで描かずにいたのだ。もったいぶっていたうちに、愛し愛してくれた女性の唯一の願いを叶えぬまま、死なせてしまったなんて…。これは悔やんでも悔やみきれないだろう。

星子の顔を描いたあと、月人は聖子の残した『月人さんの説明書』をみつける。「父さんと母さんは生きているよう。だが会いたいとは思っていない。でも本当は会いたいんだと思う。絵が上手いのに人の顔を描かない。でも本当は描きたいんじゃないかと思っている。いつか人の顔を描けるようになりますように。」説明書に、こんな風に書かれているのを読んで呆然としたような表情を浮かべる月人。

月人はこれまでの人生で、頑なに人との関わりを避け、硬い殻に閉じこもり、他者を拒絶してきた。その殻を強引にこじ開け、月人の心に手を伸ばした唯一の人物が突きつけた月人の本心。ここで殻が完全に破れ、月人の心は剥き出しとなり、悲しみと慟哭はうねりを上げて加速する。コントロールの効かない怒りにも似た興奮状態で森に向かい自殺を図り…暗転…。

「僕死んでいない?生きている?なんでだよ!!」

印象的な森での三日月とのシーンがリピートされる。先程までの月人の激しい慟哭。怒りにも似た叫び。圧倒的なおびただしい熱量が渦を巻き、舞い上がり、まるで夜空に浮かぶ三日月まで高く上昇したところから、急落下で落ちる月人の身体と照明。暗転。観客は、ひたすら圧倒され呆然となる。この流れで冒頭と同じシーンが繰り返しの形で差し込まれるので、まるで脳がバグったかのような軽い混乱を受ける。

いよいよ、月人の夢の世界に迷いこまされるのだ…。


人はなぜ夢をみるのか。現代においてもはっきりと解明されていない事ではあるが、いくつかの仮説がある。20世紀初頭の精神科医・精神分析学者フロイトによると、夢は満足したいという願望の表れだという。また、ウィンソンの仮説では、夢は記憶の再生と再処理過程で生じるといっており、実体験の記憶を整理し構築するのに役立っていると。

絵を描く事で命を分け与える不思議な力を授かった月人は、森を出て、山を降り、知らない町に出る。この町は今まで育ってきたのと違う、近くて遠い町で町全体に霧がかかったような、そんな町で…と三日月が語る。10年以上配送業をガムシャラに頑張り、細かい工事や一時停止表示にも気を配ってきたような月人が、近くにあるのにはっきりと認識しない町。微妙な違和感。

この場面から、月人のつなぎの上が捲られ真っ白のTシャツ姿となる。これまで頑なに心を閉ざしていた月人だが、ここからは重い服が脱げ、月人の心が白く無垢で剥き出しになっていることを体現しているようだ。

この町で、月人は水族館に行く。

夢診断によると、夢の中の水族館は無意識の中に閉じ込めた感情の象徴だそうだ。また、水族館に赴く行動は、その感情を確認している事を暗示している。

この水族館で、月人は虹子と出会う。月人は、虹子を見た瞬間、なんとも言えない表情を浮かべ虹子を凝視する。この時点で、観ている者は「なにかありそうだ」とうっすらと感じさせられるのだが、確信が持てない。2人は小さい病気のアシカをみながら会話をし、月人が不思議な力を使ってアシカを元気にする。虹子は喜び、2人の距離が近づき、一緒にお祝いをしようと虹子の経営するスナック フルムーンへ向かう。

喜びたいときに喜ぼう。いつ死ぬかわからないのだから。

虹子と出会ってからの月人は、とても軽やかだ。笑顔が多くよく喋る。臆すことなく質問もして、虹子からの問いかけにも軽快に応える。

「あ、画家っていう訳じゃないんですけれど……。まぁ…そう…です。画家です。」

虹子に画家かと聞かれた月人は、一瞬だけ否定をするものの、すぐに不自然なほどあっさりと自分は画家だと語っている。そこには卑屈さも嘘の空気もない。あんなに長くウジウジと引きずっていた叶わなかった夢をあっさりとここでは叶えている。

「うわ!オムライスだ!僕オムライス大好きなんですよ!」

虹子は月人にオムライスを振る舞い、月人は大喜びで食べる。オムライスは月人の母親が出て行った日の最後のメニューだ。過去の記憶の場面で、あの日のメニューはオムライスと唐揚げで月人の大好物だったと語っている。後のシーンで虹子は月人に手作りの唐揚げも振る舞っている。

この不思議な町に来てからの月人は、次々と彼の閉じ込めていた願望を叶えていく。この世界では、月人は画家であり、初対面の人間とも明るく会話をして、大好きな人が作ったオムライスと唐揚げを食べている。

夢を追うこと と 誰かを愛すること は喜びではあるけれど、裏切られた時に辛くなる。その2つが無ければたんたんと生きられる。

これは虹子のセリフである。だが、私には月人の言葉に聞こえるのである。月人の心が虹子を介して示されているように感じる。このセリフは、絵を描く夢を諦め、人と関わることを避けて生きてきた月人そのものではないか。

私は思うのだ。もしかしたら、虹子は、月人の脳内が作り上げたフィクションなのではないかと。月人が、彼の夢の中で、自身の心情を吐露したり、感情を整理するために利用する偶像なのではないかと。物語の中で、月人の母親の名前ははっきりとは明かされていない。でも”虹子“ではなさそうだ。また、ストーリーの中で「虹子」の在り方は、『彼女』であったり『母さん』であったりと、ぐにゃりと形を変える。

また、虹子は30〜40代の女性だ。30代の月人の母親としては、辻褄の合わない年齢の姿をしている。これは、月人の中に母親像が欠如しているからではないかと考える。

世間には事情があり、幼い子供を親族に託して離れて暮らす母親はいるものだ。女性が一人で子供を育てながら生きていく事は並大抵ではない。そして離れて暮らしていても、連絡をとり、ときに顔を合わせている母子はいると思う。

だが、おそらく月人は、母親と全く会うことがなかったのではないか。月人が11歳のときに別れた母親は、本来であればそこから20年程度の年をとった姿で登場した方が自然ではある。でも、月人にはそれを想像する事ができなかった。年をとった母の姿を全く知らないからだ。

虹子の人物像は、とても曖昧で矛盾も多い。これは、月人の中にある僅かな母親の記憶と、長年の無意識下の想像と欲望、また月人自身の主観で創り上げるられた人物だから…ではないかと思うのだ。

この物語には、いくつかの「死」が登場する。月人の叔父さんの死、星子の死、スナックの常連客 うみちゃんの死、虹子の元旦那(月人の父親?)の死、死にそうな子アシカ、余命宣告を受けた陽介。タイトルに『命』と入っている通り、生死がテーマの軸にもなっている物語であるが、ストーリーの中で描かれる生死感は些か未熟である。

早く死ねば良いやつがなかなか死なないで、もっと生きて欲しい人はなかなか生きられない。世の中バランス悪くできているよね、絶対。

これも虹子の言葉ではあるが、月人の持論だと思う。月人の中では、生命は平等ではない。少なくてもこの時点では。翻って、このとき虹子の語る生命も平等ではない。

ところが、虹子は情に厚く慈愛に満ちた人物としても描かれてもあり、観るものに微かな違和感を与える。

ムカつく。自分が死んで悲しむ人がいる事を考えて無いから。

将棋崩しの練習の場面で、月人は、自らの命を削って他のものを助ける動物たちの話をいくつかし、そういった自己犠牲の事をどう思うかと、虹子に問う。虹子は、キッパリとムカつくという。自分が死んで悲しむ人がいる事を考えてないからだと。悲しむ人がいない場合は?という月人に対しても、即答で、そんな人いるかな?!と返す虹子。一緒に酒飲んで一緒に笑って一緒に歌ったらさ、もう他人じゃない。例えば、あなたが誰かの為に死んだら、悲しむ人がいるんだよ、今は。そんなに周りの人間に情を抱き、命を大切だと語る人物が、一方で『早く死ねば良いやつがなかなか死なないで…』とも曰うのだ。なんとも奇妙である。

「私のせいだ…。」

常連客うみちゃんが殺されたと知ったときの、虹子は酷く動揺する。強く責任を感じて「私のせいだ!!」と目を剥き、声を荒げて取り乱す。……。そんなわけがあるか。常連客同士の痴情のもつれの殺人が、なぜスナックのママのせいになるのだ。だが取り乱す虹子に、月人は奇妙に同調する。叫ぶ虹子を宥めながらも、終いには月人は虹子に「あんたのせいですよ!!じゃぁ責任をとって死にますか?!」などというのだ。支離滅裂ではないか。だが二人の表情や口調には説得力がある。あまりにもボルテージの高い感情の爆発に、月人と虹子が発する言葉は輪郭を失い、ただただ強い情動となって観るものを飲み込んでいく。取り乱す虹子に、月人が諭すようにいうのだ。誰かを不幸にしたんだと思ったなら、少しずつで良いから、誰かを幸せにしましょ。僕も伴走しますよ、一緒に!一緒に伴走とは、星子と星子のおばさんの話だ。月人は、もしかしてそんな関係に憧れていたのかもしれない。虹子にいじらしくもそんな風に提案するのだ。だが虹子は、「生意気なこと言わないでよ!!あんたに出来るわけないでしょ!!あんたに出来るわけないでしょ!!!!もうシンドイのよ!!」と怒鳴り返すのだ。私はこの場面をみながら混乱した。この口論の発端は、常連客のうみちゃんが痴情のもつれで土屋さんに殺された事のはずだ。それがなぜ、”虹子のせい“になり、優しさを示した月人に対して、虹子はこんな強い罵声を浴びせるのだ?なぜこうなるのだ???と。そして虹子はおもむろに、我に返ったように月人に謝まる。それに対し、シンドイ人生を与えられたもの同士、寄り添うのが良いかもしれません…と月人は言い、虹子がそっと歩み寄り月人の肩を抱き、この胸が掻きむしられる様な苦しいシーンは終わる。

口論の発端の奇妙さはともかく、私は、月人はこの部分で、案外、彼の閉じ込められた願望を叶えているのではないかと考えている。月人の大きな願望のひとつは母親に会う事だった。そして、本当は母親に会ったら、母親を責めたかったのではないだろうか。母親を抱きしめたかったのではないか。寄り添って一緒に生きたいと伝えたかったのではないだろうか…。口論の内容や辻褄は重要ではないのだ。20年前に突然、何も言わずに自分を置いていってしまった母親に、月人がしたかった事がこの場面で成就されているのであると考える。

「ただいま帰りましたぁああん♪」

嵐のような感情の爆発のシーンの後、幸せそうに唐揚げを食べる虹子と月人のもとに、不思議な男が現れる。陽介の登場だ。重苦しかった空気を一気に払拭する楽しいシーンが差し込まれ、舞台の良いアクセントとなっている。

陽介は、太陽の陽を名前に持つ通り、とても陽気で軽やかな雰囲気を纏った男だ。そして、どうやら虹子を置いて姿を消していた例の恋人の様だ。

陽介、なにしに来たの?!ここはあなたの帰ってくる場所じゃない!!

陽介登場の際の虹子のセリフだ。いかにもダメ男が舞い戻ってきた雰囲気が出ている。これが、月人がフルムーンにやって来た初日に虹子が言っていた男か。「逃げやがったんだよ!店の財布から金取って消えたんだから逃走以外のなんでもないでしょ、あの野郎…」の、あの野郎か。

しかし、この陽介がとんでもない秘密を明かす。

陽介は月人に語る。彼は虹子が以前に別のスナックで働いていたときに知り合い、次第に恋心を抱いたと。だが当時、虹子は不穏な男、どうやら元夫に付き纏われており、そいつのせいで表情が曇り感情を捨てていた。そんな虹子をますます守ってやりたくなった陽介。ある日、陽介は、その男に虹子が包丁を向けられている場面に出くわし、慌てて近くの花瓶でその男の背部から頭部を何度も殴り、殺してしまう。

「ダメだよ!ダメ!!コイツのせいなんかで人生変えないで!!」「コイツが死んでも誰も困らない。だから…無かった事にしよう」

男が死んでしまい、動揺しながらも警察に行こうと言う陽介を、虹子は即座に止める。そして2人は力を合わせて男の死体を処理して、無かった事にしたらしいのだ。「全部捨てた!」「全部捨てる!全部捨てるしかない!!」そういって、全てを捨てて町を出たと…。

とんでもない話である。常識で考えて良いとするならば、この2人、ただのヤバい2人ではないか。正当防衛の状況であったとはいえ、絶命させるまで花瓶を「何度も打ちつけた」陽介にもゾッとしたが、即決で無かった事にしてしまう虹子も相当に恐ろしい。またこの話が“本当“ならば、自分が手をくだしていない殺人を隠蔽するために、虹子は11歳の1人息子を捨てて、突然消えてしまったのだ。なんてことだ…。

私は、初見の時、この「虹子」という人物をどう捉えて良いのかよくわからなかった。そして十数回の配信再生を重ねて、セリフを書き取り、じっくりと考察したあとでも、やはりどういう人物なのか良く飲み下せないでいる。虹子は、陽介が犯した殺人のために、全てを捨てて人生を再スタートしたのだ。相当の覚悟と重い決断だったのではないだろうか。だが、虹子にそのような種類の重苦しさはない。陽介が消えていた間、ひょっとしたら陽介は自首したのではないか…とか、自首に伴い自分も死体遺棄で逮捕されるのではないか…とか、もしかしたら陽介は苦悩で自殺したのではないか…とか、チラリとも思わなかったのだろうか。陽介が、元気そうな顔で舞い戻って来たときに、陽介に対する第一声も態度もなんだか解せない。あれはまるで、ただの浮気鴉が気まぐれで戻ってきただけのような雰囲気だった。もっと別の心配はなかったのか?やはり良くわからない。

だから、私は「虹子」は月人が、脳内で作り上げた偶像なのだと考える事とした。月人の夢の中の人物なのだと。この夢の世界では、彼が心の奥深くに閉じこめていた願望を叶え、長い間形の定まることの無かったトラウマを解放し、心の傷と向き合い、精神の再構築を試みている。そのために、キーパーソンでありつつ、さらに都合良く変化する人物が必要だった。それが「虹子」として現れているだけで、虹子の人物像としての統合性は、さして重要ではないのである。

陽介が語った大変な秘密を知ったあと、月人は虹子と会話をする。そしてその後、月人は清々しいほどに納得し、悟りをひらいたようにフルムーンをあとにして、何処かに向かい、たった1人で最後の絵を描く。

星子による『月人さんの説明書』には、こう書いてあった。月人は母親に『本当は会いたいんだと思う。』と。また『絵が上手いのに人の顔を描かない。でも本当は描きたいんじゃないかと思っている。いつか人の顔を描けるようになりますように。』と。月人はこの世界で【母親】に会ったのだ。会えたのだ。そして、絵を描くのだ。自らの命を削って描くのだ。これまで人との関わりを拒絶し、他者からの愛情も受け取らず、自分から愛情を差し出す事も知らなかった月人が、硬い心の殻を打ち破り、本心を解放し、幸せとはなにか、不幸せとはなにかの答えを見いだし、愛したもの【母親】のために、自らの命を差し出して愛を示すのだ。

最期の絵を描く月人。このとき彼は、きっとあの首を吊った同じ森の中にいる。暗闇の中で美しく光る三日月をみながら、その月明かりの元、魂を削って人生最期の絵を描いているのだ。絵を描きながら三日月に向かって叫ぶ。胸が苦しくなるような魂の叫びだ。だが以前とは違う。ここには深い絶望の代わりに、希望がある。愛を失った悲しみの代わりに、愛を捧げる喜びに満ちている。月人の苦しみは浄化され、もう恐るものはない。力を振り絞り、全てを捧げ、月人は命を全うするのだ。

月人が絵を描ききったところで、陽介は命を分け与えられ生きることができる。そして陽介は虹子のもとに帰り、2人は幸せになる。月人の魂は、三日月となり、虹子と陽介を見守ったり、また、子供の頃の月人に逢いに行ったりする。夜空から、美しく光り、あのアパートの窓を照らすのだ…。

そして舞台は終わる。


この舞台の特筆すべきところは、やはり、『役者 田中圭』の存在であろう。まず単純に尋常ではないセリフ量なのである。2時間の舞台、その大部分が月人の語りで構成されているのだ。膨大な量のセリフが、月人の口から延々と紡ぎ続けられるさまは圧巻である。そしてその語り口は、軽早でありつつも聴き易く澱みがない。観客を飽きさせることなく、繋ぎ止め続ける。本当に尋常ではない。これ全部、頭の中に入っているなんて。舞台配信の冒頭には、この脚本を書いた鈴木おさむ氏と、田中圭さん小島聖さん黒羽麻璃央さんの座談会がおまけでついてくるのだが、この座談会で麻璃央さんが『(台本を読んで)これが本当にできたら化け物だな、と思った。』と語っていたが、本当に同意しかない…大きな賞賛を込めて言いたい。田中圭は、役者として化け物だ。

また感情の表現の仕方が凄まじい。コミカルな場面ではコミカルに、嬉しい場面では嬉しく、悲しい場面では本当に悲しい…表情や声のトーンを自由自在に変え、まるで全ての出来事がそこに本当に実在するかのように月人の感情の粒となって放出される。観るものは、その粒を享受し、月人と共に、一緒に笑い喜び悲しみ苦しむのだ。

舞台特有の発声の仕方があるらしい。私は演劇の舞台はあまり見たことがないのだが、ミュージカルがわりと好きで、ミュージカル舞台は何本もみている。舞台の上の登場人物たちは、往々にして独特の抑揚のついた喋り方をし、のびのある声で観客に向かって台詞を届けるものだ。ミュージカルなどでは、この台詞たちがおもむろに音楽に乗り、歌や踊りにつながる。その現実とはかけ離れた様が、ときとしてジョークの対象となるようだが、私はこの様式美が好きである。夢のようで楽しい。舞台上で起こっている事は全て虚構である。現実ではないフィクションが繰り広げられているのだから、虚構を虚構として思いっきり楽しませてほしい。微妙に混ざる嘘臭さが良いスパイスとなって夢の世界に浸れるのだ。それで良いのだ。

しかし、舞台上の田中圭さんの発声の仕方は、舞台役者独特のものとは少し違うようだ。私は舞台演劇の世界にあかるくないので、確信は持てないのだが、その発声のトーンは、典型的な舞台役者さんのものではない気がする。しかし、その声は伸びやかで耳障りも良く、実に聞き取りやすい。そして独特の抑揚がないせいか、嘘臭さが無く響く。

母さん…!!!母さんが僕の前からいなくなったのは、僕を守るためだった……。

月人が最期に、絵を描いて命を捧げるシーンのセリフだ。魂を削るような激しい感情の発露が圧巻の独演シーン。ここで、これまでうっすらと感じさせていた、ひょっとして虹子は母親なの?そうなの?そうじゃないの?と思わせていた気持ちに、静寂を破る形で、『母さん!!』という月人の声が響く。

この一連のシーン。月人の長い独演を聴きながら観ていた私は、彼の激しい感情の波に大きく揺さぶられ、どんどんと息が苦しくなった。絵を描きながら気持ちを爆発させる月人。彼の強い感情の渦に、すっかり心が巻き込まれ、胸が掻きむしられる。そんな中、静寂の後に、ひときわ大きな波となって発せられる『母さん!!』という月人の声。月人の感情に飲み込まれ、私は涙を流していた。凄いとしか言いようがなかった。

しかし。しかし、だ。

月人の母親は、本当に月人を守るために、彼の前からいなくなったのだろうか??【母親】が“虹子”だったとして、今までみてきた話を総括すると、虹子は自分が犯していない殺人のために、そこまで深い仲だったかどうかは不明の男に付き合って、全てを隠蔽して、全てを捨てて、消えてしまったらしいではないか。本当に、息子を守るつもりだったのなら、なぜ陽介が何度も花瓶を打ち付け男を殺す前に止めない?なぜ陽介を自首させない?なぜ一緒に死体を隠した?自分の暮らしと息子を守るためだったのなら、絶対に他の選択肢を取るのではないか???思うのだ。冷静に考えると、甚だおかしいだろう。

でも。月人はこの最期のシーンで心から納得していて、【母親】が自分を守ってくれていた、愛してくれていた、と、強い幸せと喜びを感じている。すっかりそう思わされるのだ。月人は、本当は愛されていたね、良かったね…と、観ていてそう思わずにいられないのだ。

これは、実は、脚本の鈴木おさむ氏が仕掛けた、この作品の肝なのではないかと、私は感じている。おさむ氏は、この作品を役者田中圭にあて書いたという。「母親へのレクイエム的な…」というインタビューコメントも見た気がした。母子家庭で育ち、3年前にそのお母様を亡くされた圭さんに、母親と愛情と命の物語を書いたと取れなくもないが、そこには若干の違和感がある。配信冒頭の座談会で、田中圭さんが苦笑いをしながら「(あてがきではあるが)どんどん僕からかけ離れていってる。その辺よくわからないのだけれど…。」と語っている。そうだろう。月人は、内向的で自分という殻に閉じこもり人との関わりを避けるような人物だ。また、母親との関係は希薄で、母に対して強い飢餓にも似た欠乏を感じている。一方で、圭さんは、他者との関わりを積極的に求める寂しがり屋であると、普段から語っているし、本当にそういう人物だと見受けられる。また、お母様との関係は希薄どころか、とっても強固であった思うのだ。コアな部分で全く違う。では、どの部分で当て書きなのか。これは私の憶測なのだが、それは田中圭という役者の特性に対しての当て書きなのでは無いかと思うのだ。まず、この膨大なセリフを、田中圭さん以外の役者が演りきれるとは思えない。シンプルに、そこが当て書きな気がする。そして、役者田中圭の「虚構を真実かとみせるような力量」に、当て書きした…と思うのだ。役者としてキャリアの長い田中圭さん。これまで多種多様な役を演じられているが、どんな役をやっても、本当にその人物がそこに実在するかのように演じると定評がある。役者さんが演じるものは全てフィクションである。役者さんたちは、決してその役の人物ではなく、作品の中で発する言葉は書かれたものであるし、演じられる出来事は全て作りものである。舞台上で起こる事は全て虚構である。虚構という大前提の土台のもとに、私たちはそのエンターテイメントを享受し、魅せられ楽しむのである。そういうものなのである。例えばドラマの中での殺人がいちいち本物だったらたまったものではない。そういう事だ。しかし、圭さんは、この虚構の部分を飛び越えたタイプの演じ方をする。そういう役者さんなのだ。

私はこの長い感想の冒頭で『この物語は、前半部分の過去語りはかろうじて現実感があるのに、月人が力を授かってからの世界は、統合性が崩れ、曖昧で奇妙で、どこか夢の感覚に似ているのだ。』と書いた。後半に向かうに連れて、支離滅裂なエピソードが重なり、最期の月人の魂の叫びのセリフに至っては、破綻しているのだ。冷静に考えると、月人の母親は月人を守ってなどいない。いないでしょう?舞台という虚構の大前提の土台の上に、さらにストーリーに奇妙な虚構が重ねられているのだ。だが、しかし。月人の発する言葉には、嘘の気配が感じられない。彼は本当にそうだと思っているし心から信じているように思えるのだ。私は、月人の叫びのシーンを何度も観た。巻き戻して何十回も観た。言っている内容は破綻しているのに、とても力強い感情の波に飲み込まれ、何度みても月人に同調させられるのである。辻褄など、どうでも良い。ただただ月人の感情の渦に呑み込まれ、揺さぶられ、酔わされる。あっぱれである。こういう事が出来るのが、役者田中圭だと見込んで、鈴木おさむ氏は、こんな目眩しが混じった物語をワザと当て書いたのでは無いか…と憶測するのだ。そして、それを田中圭さんは、見事に演じきっているのだ。実に素晴らしい。スタンティングオベーションをしたい。この「鈴木おさむ+田中圭」の2人のタッグは、過去作に於いてもなにかと挑戦的な事を試みている。この『もしも命が描けたら』の舞台も、それのひとつだったのでは無いかと思うのだ。

私が、こんなにも本格的に田中圭さんのファンになったのは、2018年にAbemaTVで放送された『田中圭24時間TV』からだ。この番組も「鈴木おさむ+田中圭」のタッグであった。長くなるので詳細は省くが、こんな事が可能であるのか?と驚いたのだ。25時間の番組を視聴して、田中圭さんの、その超人的な人間力と役者としての凄さに、すっかり撃ち抜かれて、それ以来、熱心に田中圭さんの作品を追いかけて、応援している。どの作品をみても、毎度その役者としての凄さに感心させられるのだが、この『もしも命が描けたら』の舞台作品では、殊更に凄まじいまでの化け物じみた凄さを見せつけられた。あぁ、私は、本当にこの役者さんに夢中である。もっともっとみせて欲しい。もっと魅了させて欲しい。今回の配信期間の1週間は、出来る限りの時間を費やして視聴を重ねた。何度も観た。ありがたい事だ。視聴が叶わなかったかもしれない舞台を、こうして観ることができたのだ。とても感謝している。でも、配信が終わってしまって、今は本当に寂しい。もっと観ていたいのだ。月人の心の叫びを…あの魂を震わすような感情の爆発をもっと感じたいのだ。今は、DVD/BR発売のお知らせを、心待ちにしている。どうか発売して欲しい。待っています。【終わり】



本当に、長々と読んでいただき、ありがとうございました(深い深いお辞儀)。自分でもドン引きするくらい長く書いた。怖。
















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