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私は愛されている ②

閲覧いただきありがとうございます。eriです。

前回の続きです。

この年末年始、自分がイライラすることや気付いたことをテーマとして、なんでそう思うのか?どんな感情が湧いて、どんな風に受け取ったのかをひたすら書いていきました。

その結果、私は『いい母・いい嫁でいようと無理をし、疲れるというループにハマる時にイライラする』と気付いたので、向き合ってみました。



まず、私の中の『いい母・いい嫁』の定義ですが、

相手のニーズを言われなくても満たそうとすること。気が利く、ちゃんとわかっているというような状態。

「こうしたらいいんだろうな~、こうして欲しいんだろうな~」と察知することは昔から割と出来るタイプなので、当たり前のようにやっていました。
しかし、それをやり過ぎると、相手のニーズなんて際限なく予想出来るし、満たそうとしたら体力も時間も消費し疲れます。そのうえ感謝されなかったら「当たり前だと思わないで欲しい!」と、ものすごく腹を立てていました。

なんでこんなことしているんだろう?と考えた時、私は、この行動を通して『認められたい』というニーズを満たそうとしていたんだと気付いたのです。

夫・子供たちにとって、自分が必要とされる存在になるには、自分が夫・子供たちのことを何でもわかっている必要があると思っていたし、自分がそこにいるだけで、必要とされて、愛されていると信じられていなかったんです。

それを紐解くキーワードは、

『子供のために、と思うことは = お母さんのために、と思っていること』

私は、お母さんのためにしっかりした自分でいたくて、お母さんをがっかりさせたくなかったんです。
「ちゃんと子育て出来ているよ。子供たちはちゃんといい子に育っているよ。だから大丈夫、安心してね。」って伝えたかったんです。

その根っこには、幼少期から心配・苦労をかけさせ続けたことを謝りたかった私がいました。
心配すること、苦労かけること、それがお母さんの私への愛情表現の形だと信じられなかった。
『私なんていない方が良かったんじゃないかとしか思えなかった私を、たくさんの心配と苦労をかけさせるような、一見ダメに見えるような私でも、私が大事だから心配して、苦労して育ててくれたんだ。』っていうことをやっと受け止めることが出来ました。

これが、自分の中の弱い自分を受け止めること、自己受容なのかなと思います。



私は愛されていたし、今も愛されている。

これって、私が思う『母の愛の形』と『母の愛情の形』が一致しなかっただけなんです。だって私は『愛されていない』とは感じていなかったから。私は丸い形を愛だと思って欲しがっていたけど、母は三角しか持っていなかった。でも持っている三角をちゃんと渡そうとしてくれていた。そういうことなんですよね。

こうやって簡単に子供は勝手に傷ついていく。それでも、こうやって気付くと何歳になっても癒やすことは出来る。


『~~な私』でいなくていい、安心感のようなものを手に入れて、すごく軽くなり、肩の力が一気に抜けたような感覚になりました。これが『ありのままの私』でいるということなんだと思います。



次回、この気づきによって我が家に起きた変化をシェアしたいと思います。

よろしければお付き合いください。

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