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10年近くナラタージュを読んで思うこと

 寝つきが悪い日、たまたま帰宅が遅くなった日、深夜になると弱気になって悩みこんでしまう。
子どもの頃から好きな作家の島本理生が書いた作品で、ひときわ好きなものがナラタージュだ。

ナラタージュのあらすじ

 ナラタージュのあらすじとして、高校教師と元教え子の結ばれない恋愛小説だ。
社会人の女性が、婚約者と散歩しているところから彼女の回想が始まる。
彼女と先生は演劇部の顧問と生徒の関係だった。
また、クラスになじめず、学校に居場所がなく自殺を考えた生徒が、先生の優しさや支えによってなんとか生きて卒業ができ、
先生側から見れば、先生の妻と母親の仲が悪く、母がいる家に妻が放火を仕掛けた事件をきっかけに深い自責の念を抱いており、
その生徒を支えることによって自信を取り戻しなんとか日々過ごしているような関係だった。
お互いの存在が必要だったからこそ、卒業をキッカケに二人は喪失感を抱いていた。
生徒が大学に入ってしばらくしたころ、後輩が文化祭で演劇を披露するのに人数が足らず、卒業生を助っ人として呼ぶことになり
2人が再開することで生徒の恋心は膨らんでいく。

 2人の性格の共通項は陰のあるような大人しいところだが、生徒は危なっかしい一面があるし先生はクズっぽさのあるダメな大人だ。
先生は事件以降、妻の生家から絶縁され妻は生家に引き取られたが籍は抜いておらず帰りを待っている。
それにも関わらず高校生の生徒から恋人はいるか聞かれたときに「結婚していた」と過去形にしてはぐらかす。
この妻と義理の両親の関係で精神状態が悪くなった先生を見かねて生徒は「私に何ができますか、何でもします」と言い
「僕が一緒に死んでくれともし言ったら」と言われると「一緒に死にます」と即答するくらいには生徒は思考と行動の軸を先生に預けており
かなり危うい印象を持つ。
自立していない2人なので最後の最後に体の関係を一回持ったが、そのまま2度と会わないことを生徒が激しく求め別れとなる。
お互いの人生で枝を伸ばし実りをもたらせるために必要な支え枝だったが、あくまで補助のためであって互いが実りそのものではなかったし、
先生の狡さがあったからこそ成り立った関係のように思う。

 好きなのはラストシーンだった。
生徒は映画関係の仕事に就き、先生の友人のカメラマンに偶然出会う。初対面だったがなぜか相手は生徒の顔を知っている。
先生は生徒と撮った写真を定期入れに忍ばせていて、友人はそれを見て生徒の顔を覚えていたのだ。
「気持ち悪いと思うだろうけれど、あいつはあなたのことが好きだったみたいですよ。」と友人がいうと生徒は泣いてしまい、
生徒もまた好きだったこと、子どもだったから甘えであり愛じゃないと思っていることが分かると
「子どもだから愛していたことに気付かなかったんだろう」と伝え、生徒はモノローグで「私と先生の人生は完全に分かれ、
再び交差する可能性はおそらくゼロに近い」と語って締めくくられている。

ラストシーンについて

 ラストシーンは映画と小説で異なるが、より救いがなくてストレスがかかるほうは小説だ。
好きでたまらない相手と会う関係性でもなければ、会っても自分が望む関係になれもしないのに相手の気持ちを知ってしまったら死ぬまで忘れられなくなる。
生徒にとって友人の言葉はもちろん嬉しいし、作内でも喜んでいるが失恋の後の相手の名残の喜びなんて自傷と同じだ。
恋をしたこと丸ごとが傷となり経年で傷がふさがれていくのを耐え忍べばよかったのに、ラストシーンの衝撃で耐え忍ぶことなんてできずに
もう後遺症を負うのと同じくらいには酷い事故に遭ったものだ。
夜中に読むのを避けている小説で、舞台が夏から始まるので、だいたい夏になると読み直すくらい好きな本なのだけれど
これが舞台が冬でなくて良かったと思う。冬が舞台で冬に毎年これを読んでいたら憂鬱で何もできなくなりそう。

ナラタージュを読み続けて何年もたった今思うこと

 高校生の頃これを読んだときは、単純すぎたのか、頭がおかしかったのか生徒のことが羨ましかった。
私自身も高校の担任の先生が好きで、先生の事を知りたかったし人生に関わりたかったので、作内で好きな人の人生に深く関われたうえに
ラストシーンで「あなたのことが好きだったみたいですよ」と言われるなんて、当時異性として見られたかった私には救いのラストシーンにさえ見えた。

 作中で、別れの時に先生が生徒に懐中時計を渡すシーンがある。
現実の先生から、卒業した後告白をしたときにテディベアを贈ってもらった。わたしがリラックマが好きだからクマを渡してくれたんだと思う。
先生は毎年趣味の音楽を演奏しに外国へ行くのだけれど、タグを見たらドイツのものだった。もちろんネットで買ったものかもしれないけれど、
私は自分勝手な解釈で、外国へ行ったときに先生が選んだものだと思っている。
渡された瞬間嬉しいというよりも「この先わたしはもう先生に毎日会うことは叶わないだろうから、一生このぬいぐるみを先生だと思って生きなきゃ
いけないんだな」とめちゃくちゃ悲しくなり、クマにクマ以上の価値を見出して何も笑えず必死な顔で受け取った覚えがある。
その時は先生の部活の子や、他のクラスメイトに同じものを渡していたとか、ただ先生が気に入って買っていたものを、私が告白したという勇気に免じて贈ったものだと思っていたが、数年経って一番仲のいい友達に実は先生が好きで、こういうことがあったと話したときに誰もぬいぐるみなんて貰っていなかったことが分かった。

私だけという自尊心や嬉しさよりも、なんで私だけに贈ったのか意味を考えてしまって辛い。
告白した後は起きているときは先生のことを考えて、眠ると先生がほぼ毎日夢に出てきて寝ても覚めても地獄だった。
大学に入学したらきっと楽しくて忘れられるだろうと期待していたのに、意地のように忘れることができずたまに夢で見て、
高校の頃は精神面で辛いときに先生に甘えることができたのに、卒業してからは自分自身で立ち直るしかなかった。
社会人になっても、結婚した今も夢に出てくる。
前は2週間ぐらい立て続けに見てしまって、起きるまでは嬉しいし起きてからも「今日は1日がんばれそうだな」と前向きになれるが
続くと「先生と過ごす夢は現実ではないし、起きるとその現実に気付いてしまうな」と気持ちが変わり憂鬱になったりいてもたってもいられなくなる。
いてもたってもいられないというのは、もう生きていたくなくなるのだけれど、自暴自棄になりたくても、先生は私の健康を何より心配してくれたので、さらに言えば自分自身を尊重することを教えてくれた人なので、その教えに反することができない。

 先生は生徒に自立して巣立っていくしたたかさを身に着けてほしいから、あんなにも貴重な3年間を作ってくれたのであって、
恋愛に履き違えて卒業して9年経ってもぐずぐずしているほうが異常だと分かってはいるし、たぶん忘れることはできないから病気みたいなもので、たまにぶり返すのを発作だと思ってじっと心身の回復を待つほかないのだと思う。
世の中の皆は割り切れない気持ちをどういなして毎日過ごしているのか、耐え忍んでいるのか気になって仕方がないし教えてほしい。
身の回の人に聞く勇気がないから小説ばっかりにヒントを求めてしまう。

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