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心を観る

身の回りの空間を整える習慣が続いてから、心地が良いことと良くないことの線引きがわかりやすく感じられるようになりました。

心地よいものは心に穏やかな空気が流れ、心地よくないときは、胸がざわつくような感覚があります。

部屋は心の現れと言いますから、部屋と向き合うことで、同時に心の方にも自然と向き合うことになったのかもしれませんん。

抱えるものが多ければ多いほど、動きは悪くなり、停滞していきます。

そうなると、なんでも問題が解決しないまま、常に背負った状態で日々を過ごすようになりますから、生き辛さを抱えてしまうこともあるかもしれません。

出来るだけ背負う荷物は少なく、軽やかに毎日を過ごせるようにした方がいいのかなと思います。

向き合うのが怖いときには、その荷物を下ろすのではなくて、別のところに目を向けてしまうこともあるでしょう。

例えば、原因はそこではないけれど、他のところに目を向けて解消するために頑張ってしまうこともあります。

本来なら今の自分に解消しないといけない問題があるにもかかわらず、何か別のスピリチュアルなものに頼って解消してくれることを願ったり、人や環境のせいにしたくなることもあります。

そして、向き合うことから逃げて、解消するとか手放すこと自体が出来ない場合もあると思います。

なかなかそこに気付けないというか、周囲から見たら、今の状態が明らかにおかしいなと思っていても、自分がそれを認めることが出来ないこともある。

そして、それは例え客観的に物事をみることが出来る人であっても、場合によっては寝不足や疲れ、ストレス、状況によっては物事を一時的に正対できなくなることもあるでしょう。

度を越えて片付けられなくなったり、お腹が満腹でも食べるのをやめられない。感情を抑えることやコントロールすることが出来なくなることだってあります。

それは、決しておかしいことではないし、状況次第ではどんな聖人であっても誰でもなりうるのではないでしょうか。

ですから、そうなる前に小さな種を植えないようにすることも時には必要で、その種に気付くためには、心の繊細な部分をいつも見てあげる、観察が大事です。

そのためには心を観るのです。

観るというのは、文字通りただそれを観るだけです。

それを観たからと言って、何かを改善しようとしたり、良い悪いでジャッジして決めないということでしょう。

ただ、観た時に心地いい、悪いが感じられたなら、またそれを観る。
とにかくできることは観るだけなんです。

頑張ったり、努力したり、今を良くしようとついしてしまうのだけど、

人間一人にできることはもしかしたら、

『心を観る』

事だけなのではないかと思っています。

心を観るということは、その心を認めるということですから、そこにどんな思いが出てきても、私を認めていますよという宣言にはなりますよね。

ですから、むしろ心を観ることが出来るなら、あとは何もできなくても良いのではないか、とすら思うのです。

みなさんは、いかがでしょうか。

今日もお読みいただきありがとうございます!



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