①1873/明治6年 集義塾建設本旨・西郷隆盛

画像1 私はnoteに登録して投稿したかった文章がもう1年、下書きに書きかけています。資料の画像も収めたHDDが壊れて、日記にできないのです。困ってしまって7月2日土曜日に一つの資料を複写してきました。鹿児島市史Ⅰにある1873年西郷隆盛の「集義塾建設本旨」です。なぜ重要視するのか?この西郷の発言を境に、戊辰戦争従軍城下士の賞典禄と出水・串良・国分郷士の賞典禄が停止されました。これによって鹿児島藩士族は困窮します。これが1877年の西南役の反乱軍資金となり、一部士族の積極的参加となったからです。
画像2 〈前略〉戊辰の役艱難の功に由ればなり。然るに海陸軍其他功労を賞せられ、恩典を蒙ると雖も今日余生を得る者抑々第二等にして、〈中略〉賞典禄を集めて以て人材を養育するの校費に備ふ〈後略〉
画像3 大久保利通ら新政府は各藩主に従軍協力者への賞典禄を支給していたが、鹿児島藩は島津久光/忠義親子が自分の褒賞と勘違いし謙虚さをアピールするため拒否し続け、結局100万石が50万石に減額された。そこへこの西郷の発言が、鹿児島藩士を困窮させた。では戊辰役に参加した規模はどのくらいで、いくらもらってもらえなかったのか?これが書きかけている日記です。徐々に再収集しながら日記投稿したいと思います。写真は姶良市歴史民俗資料館の駐車場です。停まっている車は少年野球の連中。

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