犬泥棒についての善悪がわかんねえんだという話


 犬泥棒が善なのか悪なのか、わからないでいる。
 わからないでいるというのはむしろ世の人々にぶっ叩かれたくないという気持ちが思わせるものに過ぎず、自分が完全に安全圏にいるのだと実感すれば「悪とは断定できない」ぐらいの事を言うだろう。

 劣悪な飼育環境に置かれた犬を、犬の苦しみを思って飼い主の元から盗み出すのは悪なのか。
 犬泥棒の主張が実際事実であるかどうかはわからない。だからこれは実際の事件への言及というより、一つの寓話からもやもやと考えているものと思ってほしい。実在の人物としての飼い主を糾弾する意図はない。

 少なくとも事実として犯罪ではあり、犯罪である以上行為として不適切だったのは間違いない。
 しかし、法とはあくまで人が作ったものに過ぎない。仮に関係者全員が善意に満ちていたとしても制定時の常識がなんらかの錯誤を含んでいる場合は大いにありうるし、実際の所、制定に関わった人々の全てが善意に満ちた聖人君子でありその時代における不可抗力の事実誤認以外に瑕疵を持たないなんて事はまずありえない。法は遵守するべきだが、法が絶対的な真実や善であると信じ込まねばならないわけではない。地球上に存在した法の全てを今あなたが見たならば、その中には理不尽で無意味、むしろ守ることが悪だと思える法はたくさんあるはずだ。
 ただ、悪法も法なりという言葉もある。民主主義国家の市民たるもの、法に疑問があるなら合法的な手続きを経て法を改めることをまずは考えるべきだろう。その点で犬泥棒の行動はやはり不適切なものだと言える。
 ここでまた逆説で話を繋ごう。けれども、だ。
 けれども犬の寿命は有限で、正規の手順での法改正の前に死んでしまうかもしれない。そもそも飼育環境が劣悪であることによる苦痛とは毎秒毎秒感じ続けるものだ。時間がかかればかかるほど犬が感じる苦痛の累計は増えていく。虐待によってヒトは脳が萎縮する。犬もそうかは知らないが、感じるストレスが甚大であれば体を病むし精神も無気力や恐怖に染まり生を楽しむことはできなくなるだろう。また、そもそも不衛生な環境にいるのならば、なんらかの感染症に罹患し身体機能を失うかどうかなんて、運命が毎秒コイントスをやっているようなものである。
 だから、犬泥棒にとっては事態は正規の手段じゃ間に合わないと思える状況だったのだろうと憶測する。
 そもそも日本では動物の福祉(ここでは「明らかに不必要な苦痛にさらされずに生きられる事」ぐらいの意味にしておこうか)に関心がある人はごく一部で、むしろ冷笑的な意見の方が目に入る。法はそのような世論を反映したものと解釈できる。常識として、現代日本の日本人の多くは動物が不衛生な環境で飼育されて早死にするぐらいはまあいいだろうと思っているのである。
 歴史を振り返れば、人類は時に行きつ戻りつしながら「こいつはどんな目に遭わせたっていいし苦しんでようが悲しんでようが知ったこっちゃないね」という思いの対象範囲を狭めてきたと言える。今犬がそう思われていたとしてもこれからもそうだとは限らない。そして、あるカテゴリの存在をそういう風に扱ってはならないというのが常識になる少し前には、そう主張して迫害された「狂人」が必ずいるのだ。
 こうした動きにおける「あるカテゴリ」に属すのは大抵の場合人間だった。生まれついての何かで迫害された人々だ。
 これを聞くと、動物愛護冷笑派は「犬と人は違うだろ。牽強付会だ」と思うかもしれない。だが、そもそも「彼らはいたずらに殺されるべきでない」と主張する人が犯罪者になるような時代、そうした人々は人間だと思われていなかったのである。マジョリティの飼い犬や馬よりも命の価値が低いとされたマイノリティのヒトなんかいくらでも存在した。
 だから犬の尊厳が守られるべきかという話において、「犬は犬だからその価値ゆえに尊厳なんてものはない」とあなたが思っていたとしても、将来的に犬の尊厳は守られるべきだとなったならそこの根本的価値観がぐるんとひっくり返るのである。それは一つの答えかもしれないがトートロジーっぽくてあんまり納得はできない。AはAだから以外の理由を求めれば、出てくるのは「既に(あるいは「今」)それが常識だから」という答えではないか。でもそれもまた思索を凝らした末の答えではない。そこに私の納得はない。
 私はきっと、犬を盗まない。だが、犬は苦痛を感じる存在で心を持っていると知っている。そういう存在が今正に苦しんでいるという時にそれを見過ごす事は良いことだろうか。犬泥棒が犬を盗んだ時、彼女にはそれをしなければならないという確信があったはずだ。
 省みて、私の「犬を盗まない」には善があるのか。それは、例えば「クラスで一人の同級生がひどくいじめられているが、教師は見て見ぬふりだし他の生徒も同情ではなく軽蔑の目でいじめられっ子を眺めている。警察に通報したって学校はなあなあでもみ消すだろうし、このいじめられっ子のために自分のお金で弁護士を探してやったりするほどコストを払えない。自分の人生で手一杯だし、ここじゃ彼を助けるのは秩序を乱すだけの正しくない行いだから何もしないのが一番いい」というような思考と何が違うのか。
 動物は動物なんだから好きにしたっていい、そうしなきゃ生活は成り立たない。なるほど確かにそれはそうだ。だがそれはどこまでも加害者側の利益だけに着目した理屈でしかないのも事実であって、それを支持する理由は自分もまた共犯関係にあるというだけなのである。そこには納得はなく、ただ思考停止と保身がある。
 結局私は生きるために肉を食い、日銭を稼いで無為に死までを長引かせる生活のために動物の苦痛なんぞ歯牙にもかけず生きている。ただ、そこに正しさや善があるとは思えない。他人に対して「何かを犠牲にするより道徳的に気高く死ね」なんて言って回る気もないし、誰かが切実に生を求めて足掻く時に起こる色々を安全圏から善とか悪とか言う事自体が大分悪いとも思う。食うために・金のために・孤独をまぎらわすために、誰かが動物を利用し、結果動物が苦しみの中にあったとして、私はそれを裁く立場にはない。
 しかしながら……うーん、しかしながらも……。意味のない感嘆詞。ため息。躊躇で揺らぐ視線。「まあ」とか「ちょっとね」とか「なんていうか」とか、曖昧な言葉をいくつも短い沈黙と交互に重ねて。
 犬泥棒は犯罪だし、罪は裁かれるべきだ。そこに異論はないけども。けれども、その目的が他者を苦痛から救うことだったのならば、それが結果としてまた他の誰かに痛みをもたらす間違った手段を選んでいたとしても、それでもこの私は動機には石を投げたくない。世間の人がどう思おうと、また事件の真相がどうであろうと、そこに無関係に私が勝手に思っていることだ。



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