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肉体性と飯と草/人間以外の俺になれ

 動物になっちまったんだよな。

 先だって一月ほど入院していた時、その期間の半分ほどを絶食して過ごした。痛みと高熱で意識が朦朧としていて何があったんだかあんまり覚えていない当初の一週間はともかく、空腹を知覚できる程度に痛みが薄れてきた以降の日々は、もう動物であった。


 たとえ体重から割り出された一日の適正量を給餌されていても機会あらば食を求め、庭先に来た雀や鳩を捕食する事すらあった飼い犬の貪欲さに、幼少期は「なんかやっぱ脳が発達してない生き物って捕食と生殖を繰り返すマシーンなのかな……」などと思ったものであった。が、自分もまあそうなっちまったんだな(生殖意欲は無いけど)。人間だって所詮動物に過ぎないのだ。

 入院中、飯の事しか考えられずだいたいすべての事が飯が運ばれてくる時間まで気を紛らわす手段でしかなくなっていた。檻の中で給餌口の周りをうろうろしつづける獣、それが自分であった。

 飯を食うと口蓋や唇や舌がびりびりして、嚥下した食物が下降していくに従い、その道筋で臓器に血が集まって体が熱くなった。それが正確な感覚なのか、そういう気がしているだけなのかはわからないが、とにかく確かなのは飯を食うと脳に結構な強度の快の刺激が入るという事だ。少々の塩を振りかけた重湯ですら細胞がびりびりした。肉はもっとすごい。動物性タンパク質を摂取した時の興奮は電撃じみている。水煮のツナに醤油をかけたものとかカツオ出汁がちょっと恐怖を感じるぐらいに精神を昂揚させてきて、なるほど色んな宗教的修練で肉食が禁じられがちなのはこういう事かと感じた。この刺激を入力されるのが当然になり感覚が鈍麻しているのは食糧供給が安定した社会に生きるごく限られた時代と地域の人間だけで、人類史上の多くの人間にとって美味とか食事というものはもっと暴力的に鮮烈なものだったのだろう。それは飢えという暗がりあっての眩さなんだろうけども。

 退院してからはそこそこの時間を割いて毎食飯を作っている。11月になるまでは空白期間のようなものなので割と暇があって、せっかく手間暇かけられる貴重な期間で飯に対して妥協するのは損失ではないかという気がしてきたのだ。

 わざわざ青果市場の一般人向けの店舗スペースに行って野菜を買ってみたり、入った事ない肉屋に入ってみたり、先からけしてうまいものではないと思いつつ利便性で買っていた近場のスーパーの惣菜を二度と買わぬ誓いを立てたり。基本的には自炊をしているのだが、電子書籍で買ったプロのシェフのレシピ本を参考に作っているとあからさまに自分の作る飯がうまくなっていくのを感じる。結局、一番重要かつ試行回数で入手するには困難な情報とは火加減と塩加減で、そこを「火が通ったら」とか「少々」と書いているレシピには情報としての価値が無いという事も学んだ。みんなも騙されちゃだめだ。時短とか簡単とか銘打ってるレシピは「そんなん自分でも思いつくわ」というような味付けについては書くけど基礎的な調理を成功させる情報にも工程の意味の説明にも乏しいし、行う作業の意味合いを解説してるプロのレシピを見て、その後自分の状況に応じてどの手順を簡略化するかセルフでカスタムする方が絶対いいぞ。これは一月でレシピ本を12冊買った奴が言っている言葉だ。


 脱線はさておき。

 自分がいわゆる「丁寧な暮らし」をしようとしているかのように思えることが少し複雑な気持ちでもあるのだ。今日だって、近所に公園を探して散歩して、街路の草木に目をとめ、公園では健康の為にちょっと縄跳びをやってみて200回もしないで深刻にばてて、ちょっと休んでから帰宅して、なんとなく掃除をして、それからクッキーを手作りしようとして生地を完成させた時点で深刻に腕部の疲労を感じ限界になったりした。

 退院してからの二週間、詰んだテトリスみたいだった部屋を結構な勢いで片づけ、数年間無縁だった布団と枕を買い、毎食毎食うまいものを食べようという明確な意識をもって飯を作り、長い事放置していた浴槽を磨いて入浴剤を入れて風呂に入った。薬の副作用で不眠が激しく一日4時間ぐらいしか眠れないので、それをなんとかしようとアロマとか買い始めた。

 すべて肉体的快楽の追求であり、獣に堕したってわけ。

 本当は肉体が嫌いだったし、今だってあまり好きではない。

 肉体は枷だ。意識の存在をどうにか確立した状態で肉体だけ捨てられるならいつだって捨てたい。それは、生まれもった病とか、生まれ落ちた環境とか、好むと好まざるに関わらず外部の要因で苦痛という刺激が入力される事であるとか、とにかく自分で選び取ったわけでもない色々で自分自身の重要な何かが決定されてしまうこの世界にどうしようもなく絡めとられる存在である自分を常に意識させるもので、それがどうにも嫌だった。

 自分で選び取った自分がカスタムした自分になりたかった。その結果として他人に受け入れられなかったり蛇蝎の様に嫌われたり、それは全然いい。というか、それすらもきっと誇らしい事だろう。そこには自分の意志が反映されているのだから。

 けれども現実はそうではなく、多くの人は自分自身が選択と決断の反映である言葉を口にする前に先天的な属性によって他者に分類され、何を話したって聞き手の認識には既にバイアスがかかっている。それは話し手としても聞き手としても悲しくて惨めでやるせない事だ。俺達は肉体と主観の檻に閉じ込められていて、隣の檻に入った獣が本当はどんな姿をして何を大事に思っているのかすらわからないまま死ぬ。檻越しに手を伸ばしつづければ、相手の顔さえわからないままでも、いつかはその手だけでも繋げるかもしれない。けれど、多くの人々はそもそもそんな試みをするだけの価値があるのかもわからず、結局なんだかんだで目鼻立ちもおぼろな相手と敵意や悪意を投げ合ってしまって、でもって檻の格子はそういうものはそこそこ素通しだ。悲しいね。

 そんなこんなで、結構本気でサイバーパンクの世界観とかに傾倒していたし、肉体から独立した精神があると思いたがっていた。肉体を精神に情報を入力する装置以上に扱いたくなくて、食費を削り本を買い夜更かししてネットを見て、飯よりも良い茶を飲む事を優先した。不摂生は惰性の表れでもあったが、それ以上に肉体に対する精神の優越を信じたい信仰の表明でもあったわけだ。これを平たく言えば、「不健康な奴の方がかっこいいという二昔前ぐらいのサブカル的価値感に影響されていた」とも言う。

 だが、わからされてしまったわけだ。苦痛、空腹、セロトニンの欠如、向精神薬や睡眠薬の服用、薬の副作用……。肉体の状況で精神はいともたやすくどうにかなる。

 そもそも実は肉体的持病以前に結構ガッツリと鬱をやっていて、先述の部屋の片付けというのもその期間に荒廃した住居をなんとかしたというものだったのだが、散らかり方を今見ると明らかに認知能力や判断能力が低下した人間の痕跡といった趣だった。多分短期記憶とかのパフォーマンスも落ちていたのだろうが、かててくわえて何をするにも自信が無さすぎて日常生活上の判断や決断ができないのだ。当時書いたものも希死念慮と悲観と自暴自棄まみれで状況に対する認知がなんかおかしいというか自分自身を否定し続ける事でどんどん状況を悪化させていて、「この状態の人間に大きな判断をさせたりそこで誤ったのを責めたりするのはもはや暴力の域だなあ」と思った。

 いまだに、肉体性を重視する価値観……ひいては、優生主義思想であったり身分制度であったり、生まれや境遇や属性で誰かを決定して憚らない思想にも、そういう信念を持てる程度に恵まれた境遇に生まれてそれを自覚すらせず他人の不幸を努力不足だと決めつける、世界を人間の意志が支配できると思い込んでいるおめでたい奴らにも反感がある。けどまあ、その逆張りにマジで命を懸ける事もないなっていうか、反抗的な精神を持ち続けようとする事と快楽の享受を両立したっていいやという気がしてきた。別に全部に対して刺々しくある必要はないのだ。

 この二週間の間にご老人に親切にしようと試みたのが三回ぐらい。病室で一緒だった人が苦しんでいるのをどうにもできずにカーテン越しに知覚する経験が大層精神的につらく、その人が輸血されてたのが印象的だったので、働き始めて収入が入れば日本赤十字社に募金だってするつもりだ(どうにも献血は投薬されてる薬で無理らしい)。でもそれは、社会はクソだと叫ぶやかましい音楽を好む自分となんら矛盾するものではない。すべて、世の無情を憎めばこそだ。生まれてきたくもなかったし生きていたくもなかったようなろくでもない場所だからこそ、そこをなんとかマシにしようとできる範囲でできることをするのが反抗なのだ。

 そういう感じでなるべく温厚に生きていって、でも本当に怒るべき場所では怒る。「人間もどきのお前の憧れ紳士たれ」というわけ。

 例えば選挙に行って、バイトや非正規社員の待遇を巡る訴訟で企業側を勝たせた最高裁裁判官に不信任の票を入れる。これは本当にやるつもりで、もういつ期日前投票をするかの予定も組んだ。こういう奴がのさばってるから企業が調子に乗り、俺はバイト先の某ファミレスで最低賃金の時給換算で6時間分ぐらいの制服を強制的に購入させられたり勤務の前後で給料も出ない拘束時間を一出勤あたり一時間半ぐらいか日によってはそれ以上課せられたりしたのだ。これが一見逆恨みに聞こえるという人は、最高裁の社会への影響力を甘く見すぎている。あなたの知らない所で知らないおっさんたちが勝手にあなたのできる事とできない事を決めている。知ろうとしない限り、あなたの人生はおっさん達の気まぐれとか思い込みに支配されたままだ。まあ別にあなたがおっさん達ととても気が合うなら特に言う事もないんだけど、とりあえず本当にそうなのかどうかぐらいは確かめたっていいと思いますよ。

 ここまで長々と書いておいて、「選挙に行こう」だなんて良識ぶった事を言うのも恥ずかしいのだけれど、これも世の理不尽への憎しみ故なのだ。これが俺のロックだ。(つーか参政権を巡る先人の闘争を思えば「選挙に行こう」以上のロックな主張も中々無いと思うけどね)。

 俺はバイトで働いてる人にもボーナスが出る社会であってほしいし、雇われる側には散々「自己責任」だとか言うくせに、「労基法を四角四面に守ったら経済が破綻する」とか言い出したり税金から補助金を受け取る企業にはそれこそ自己の無能の責任を取って潰れてほしい。あなたがサービス残業や給料不払いの被害を受けた事があるのなら、仕方ないなどと思わないでほしい。人から金を盗みつつ、さらに居丈高な態度を取りあれやこれやと何かにつけ注文を付ける泥棒がいるだろうか。給料をごまかすのは盗みだし、そういう事を積極的にやっている、あるいはそういう事が行われているのを監督できていない経営者というのは人品においてスリや空き巣にも劣ると俺は思う。私怨かもしれないけど、金盗まれてるんだからそりゃ怨みますよ。

 そう、動物なのだ。人間という種においては、金を盗まれるというのは他の獣に例えて言えば狩ったばかりの獲物を奪われるぐらいの事で、そりゃ怒りもする。うちの犬も鳩の死骸を回収しようとしたら見た事のない顔で怒り狂い牙を剥きだしいつもと全然違う強さで手を噛んできたし。

 こうやって金の事を気にしだしたのも埋め込まれた本能から自己を存続させたくて仕様のない獣になってしまったからで、肉体を疎んじていつ死んでもいいし早い所死にたいと思っていた頃の自分はそんなに金に頓着しなかった。今は、少額ながら投資信託とかすら考えている。肉体を健全な状態で維持するには、つまり意識を肉体由来の揺らぎから守るには絶対的に金が要るからだ。

 今日、公園でコスモスが咲いているのを見た。ここ数日の寒さにあわてて引っ張り出した暗色のダウンベストを存外に強い日差しがじりじりと焼いて、けれど外気は寒いので差し引き悪い気はしなかった。靴底の擦り切れた靴で細い道を歩いて人家の庭や植え込みの草木を見るともなしに見ていると、ふとそれらの葉の緑が結構違う色をしている事に気づいた。かつては輪郭のもやもやした緑色としか認識できなかったそれは、青と黄色の間のグラデーションにとりどりに分布し、フォルムだって全然違う。香草焼きをいつでも作りたくて部屋にローズマリーの鉢植えを置いたから、それが自分の中に基準値を作っているのだろうか。いや、それは原因ではなく、同じ根っこの違う表出で、要は肉体の苦痛が和らいで心に余裕ができたという事だろう。

 今、世界の中に新しい意味と解釈の体系を見ている。見分けが付くようになってきたから、これで個々の名前を知れば、それは自分の中で「草」ではなく「セイタカアワダチソウ」とかになるのだろう。世界について説明する語彙がそうやって少し増える。俺の精神が話せるものが少し増える。今ここにどうしょうもなく動物的で快苦にしか反応できない肉体があり、そいつが世界を知覚しているから。

 未だに俺は肉体が嫌いだ。これは檻で拘束具だ。だけどもまあ、一生入ってなきゃならないのがわかってる檻ならば、精々快適に過ごせるように整えたっていいかもしれないと、最近はそんな風に思う。

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