アイドルという存在が苦手だった人間が SixTONESに魅惑された話

※アイドルに深く触れてこなかった人間の偏見が大いに含まれているため、気分を害す可能性があります。ご注意ください。※

はじめに

“アイドル”という存在が苦手だった。
キラキラとした容姿や衣装、ステージ、スマートでファンを喜ばせるような言動。その言動全てが偽りで、偽りを与えられた瞬間まるで水を得た魚のように騒ぐファンを裏で蔑んでいるのではないかと思っていた。
そんなもはや完璧以上なのではないかとも思われる姿を世間から求められ、それを軽々と当たり前のようにやって見せる存在を応援できる理由がわからなかった。そんな姿しか見えない距離感の環境で育ったとも言える。
世間一般に見せるアイドルの上辺の部分しか私は見てこなかったのだ。

ジャニーズという存在

テレビに出ているイケメンたち。私の中でジャニーズの印象はそれ以上でもそれ以下でもなかった。自分の苦手な“アイドル”という存在であるということを除いては嫌うわけでもなく好むわけでもない。言い表すのであれば、無関心、という言葉が最もふさわしいであろう。
見ているバラエティ番組に出ていれば見てエピソードに笑うことも、ドラマで良い演技をしていたら評価し過去作を調べることもあった。だから某国民的アイドルがゲストチームと様々な種目で競う番組は毎週夕食時に見ていたし、美男美女の医師がフェローから指導医になるまでの過程を見ては涙を拭っていた。
ただ歌だけは、穿った見方をしてしまっていたことを認めざるを得ない。アイドルの歌う楽曲はどれも曲中に甘いセリフが入っているような王道キラキラソングで顔ありきのものばかりであろうと勝手に踏んでいた。いわば“ファンのためだけの”歌唱であろう、と。

そんな中でも好意的に見ていたジャニーズグループがV6だった。とあるドラマで岡田准一という俳優を目にしたところからドラマやバラエティ番組をチェック(彼は作品の年代が書いていなくても彼のその当時の写真を見れば大体がわかるからありがたい)。徐々に岡田准一のみからV6へと範囲を広げ好意的に見るようになった。
しかしあくまでも“好意的”の範疇であったことをしっかりと記しておきたい。私はV6のライブにも行ったことがなければ、グッズや雑誌などを手に取ったこともない、それどころか円盤の類も何ひとつ手に取っていないのだ。というのもあくまでも私は俳優岡田准一を目にしたことからV6を見るようになり、彼らがバラエティ番組に出たときや何かの役に入った時に茶の間からひっそりと彼らを追っていた、ただそれだけだ。私は彼らと並走したわけではなく、彼らが駆け抜けた歳月の本当に所々、沿道で手を振っただけなのだ。

つまるところ大抵の女子が1度は経験する「私ジャニーズのこの人が推しなんだぁ〜」という会話を1度も体験したことがなかったのである。

“推す”という言葉に対する私なりの定義

いきなりだが、私は“推す”という言葉を安易に使いたくはない。“推す”という言葉を使う時はそれ相応の責任が伴ってくると私の中で勝手に定義づけているからだ。
推しと共に走るかどうか。私の中での“好き”と“推す”の違いは大きくそこにあると思っている。好きという言葉に留まっているときにはまだ沿道でその存在に手を振ったり、声援を送ったりしているだけだが、“推す”となった場合、推しと共に並走し、時には給水係も担うイメージ。
ただ沿道で手を振るだけなら身一つで気が向いた時にふらっといける。しかし並走するとなったらある程度の期間トレーニングが必要だし(もともとのポテンシャルによってその期間は変わってくる)、その対象がうまく結果を出せなかった場合に自分の存在が批判されることもあるかもしれない。“推す”という行為には金銭面や体力面だけでなく、精神的にも負担がかかる可能性が含まれているのだ。
その責任を背負っている人たちと肩を並べた時に自分の“推す”という行為の熱量が周りの人たちに比べてあまりにも低い、ということはどうしても避けたいし避けなければいけない、と思っている(部活動の体験入部に軽い気持ちで行ったら実はほとんどが経験者でやる気に満ち溢れている熱血部活だった、みたいになったら困るから)。

というのもなぜか私の周りにはいわゆるオタクという類に分類される人が多い。ジャニーズ界域はあまりいなかったが、2次元〜3次元までとにかく何かの分野の“好き”を極めた人が幼い頃から周りに多くいた。そしてその人たちやオタク友達を見ているうちに幼少期の私は「この人たちの“好き”に簡単に踏み込んではいけないのだ。」と気づいてしまった。とにかく私の周りのオタクたちは中途半端な“好き”を自分の“好き”と同じものとして扱われるのを嫌っていたのだ。しかし推しに対してとてつもない愛を持った新規と呼ばれる人々は歓迎される傾向にあった。同志が増えたという感覚なのだと思う。(やっぱり自分の推しはもっと見つからなきゃいけないんだ!的な。)だからその中に入るのであれば、もともといた方達に対して自分の中である程度失礼のないような気持ちを持ち合わせていたいと思っていた。

ただこの自分なりの推し論を語るというのは誤解を招きやすいものだと自覚している。この昨今誰しもが簡単に使う推すという言葉の重みがひとりひとり異なることが原因だと思うが誤解を出来るだけ招かないように付け加えるとすれば、私はあくまでも古参が上で新規が下という考え方ではないし、歴=愛とも思っていない。したがって自分より後に推し始めた方よりも自分が偉いと思うことはない。しかしあくまでも個人的に自分よりも先に推していた方を敬うことを忘れたくない。自分が愛する人々の知らない一面を知っていて苦しい時も支え続けた人たちだからだ。古参あって自分の推しの今が成り立っていると考えている。

SixTONESの第一印象

申し訳ないがある程度の時期までシックストーンズと読んでいた。シックストーンズでないことは頭に入っていてもどうしてもストーンズと読むところまで繋がらなかった。
でも少しだけ言い訳をさせてほしい。若い兄ちゃんたちが15人映って「ジャニーズ史上初2組同時デビュー!」なんて朝のワイドショーで報道されているのを興味ない人間が見ているだけでは、ixを読まないなどという高度な罠には間違いなく引っ掛かる。逆に同じ境遇で引っかからない人いた!?いや、絶対いないな。(断言)
このixはとんでもなく罪なやつで、顔だ、名前だ、グループの特色だ、なんてものの前に「あー、ほらあのさ、あのー名前読みにくいグループだよね!」といったところに一般人の意識を留めておく作用があった。その結果SixTONESの私の中の印象は名前が読みづらい初見殺しグループになってしまった。間違いなくixのせいである。
そして私に襲いかかるのはixの罠だけではない。2組同時デビューという素人が攻略するには超難関な罠だ。しかもこれはジャニーズ事務所としても初めての試みであり、前例がないため素人には攻略方法も周知されていない。じっと見れば顔の違いもわかるけれどなんせ興味がないのだ。したがってわざわざ一時停止をしてテレビに張り付くようなことももちろんしない。そんな人間に同じような年頃の男性15人集められて(ラウールさんは同じ年頃ではないけれど背が高かったから同じくらいの年齢ちょい若いぐらいかなぁなんて勝手に思っていた)見分けをつけろなんて無理な話だ。
結論、SixTONESは2組同時デビューを果たしたうちの片方のグループ名が読みにくいジャニーズの人たちというところに収まった。


6つの音色を持つ原石たち

はてさて、間違いなくSixTONESとは交わらないはずの人生が変わったきっかけは偶然私の耳に入った音楽だった。私好みの楽曲をYouTubeがミックスリストにして勧めてくれたので何曲か聴いていると、なにやらそれまでとは系統も声も全く違う曲が聞こえてくる。いや私のミックスリストに乱入してきたの誰!?と思いながらも聴いてみるとなかなかに力強い楽曲。前向きで背中を強く押しつつもどこか迷いや弱さのある綺麗なだけではない若者らしい泥臭さが拭えないような雰囲気に興味を引かれた。こんなにも同じ立場に立ちながら背中を押すだけではなく弱さを理解してくれるような楽曲を、有り余っているかのような力強さの中にも儚さが見え隠れするような声を、私は今までに聞いたことがあっただろうか、と。気になって画面を覗いてみる。楽曲は昨日YouTubeにて公開されたばかりの『ST』のMV。歌っているのはSixTONESという例の初見殺しジャニーズグループ。(この時はまだストーンズとは読めていない。)
正直信じられなかった。ジャニーズの楽曲が私の心の中に入ってくる日など来ないと思っていたから。いろいろなところでジャニーズの楽曲に触れることはあっても自分にはまるものはなかったはずなのだ。だから抗った。どこか本能的なものでこれ以上知ってしまっては危険だと察知した。知ってしまって、好きになってしまって、その好きがどんどんと膨れ上がってしまったら。先述した通り自分の中で推すという行為に相当な高さのハードルを設置している分、推しができるのはなんとしてでも避けたかった。そして何より“ファンのためだけ”であろう楽曲に心惹かれた自分が信じられなかったのだ。

抗えば抗うほど気になるというループを1日の中で繰り返し、1週間の中で繰り返し、1ヶ月の中で繰り返した。その間絶対に私の中にSixTONESという要素は入れないようにしていた。テレビ番組にSixTONESのメンバーが1人でも出ていればすぐに番組を変え、本屋さんで雑誌の表紙になっていればすぐに目を逸らした。(多分クラスのませている女の子に「絶対〇〇ちゃん××くんのこと好きでしょ〜」と本当に好きではないのに言われ、その後から急に意識しだして目があったらすぐにそらしてしまうような感じ。(違う))

自分が想像した以上に初聞ST事件は引きずった。すぐに忘れるかと思ったが案外そんなこともなく、1人で過ごす時間ができるとふと思い出す日々が続いた。それでもきっとこれは何かの間違いだと自分に言い聞かせ続け、自分の中の彼らが薄まっていくことを信じて時間に身を任せた。もうここまで来るときっとこの時点でSixTONESのことが好きだったのだろうと今になってはツッコミを入れるが意地でも当時の私はそれを認めなかった。

そうしているうちにも時は流れる。私の中でSixTONESという存在はだんだんと薄まっていった(しかしこの時点でもうストーンズと読めるまでにはなっている)。だが私のYouTubeはだいぶお節介なようで私を放ってはおかなかったのだ。



SixTONESへの道標

1度存在が薄まったというのに私のYouTubeはまたミックスリストにSixTONESを忍ばせた(ここまで粘り強くSixTONESを私に推してきたYouTubeに今はお金払いたい)。King Gnu常田大希作詞作曲のSTとは対極にいそうな楽曲『マスカラ』である。これまた当時公開したてほやほやのMVであった。

最初の1音を聴いた時King Gnuの楽曲だ、とすぐに思った。というのも私の父は新しい音楽を見つけては家に持って帰ってくる人で、King Gnuもその中の1組だった(つまり私の中の音楽はほとんどが父の影響を受けたものである)。それからというもの時々楽曲を聴いて浸るという自分にとってちょうど良い距離感で関わってきた間柄である。
はてさて情報が耳に入っていないだけで新曲でも出したのだろうかなんて考えていたが聞こえてきたのは想像とは異なる声。どこかで聴いたことがあるけれど、間違いなくKing Gnuではない。記憶の中を探りながらも楽曲を聴いているとふと惹かれる声に出会った。すぐにその声の正体を探るべく画面を見ると眼鏡をかけた男性が映っている。その人と画面越しに目があった瞬間、心が震えた。この人は自分の「魅せ方」をわかっている、そう思った。
どのようにして表現しても薄くなってしまうくらい彼の声は“濃かった”。どこかに行ってしまいそうな儚さとすぐそばにある実体の対比がとても良く視える声であった。画面に映る彼を見てみると目の奥が黒く切なく、この世に闇というものが実体としてあるのあればこの人の瞳の奥にあるのではないかとも思わせられるような陰の中にある妖麗な雰囲気。何か大きな獣でも自分の中で飼い慣らしていそうな表情、その中に存在する色気。煌びやかな明るい世界で光るものよりも暗闇の中でうっすらと光るものの方がより鮮烈で惹かれるものだ、と遠い昔読んだ記憶があるがまさしくその通りであった。
間違いなく堕ちたら危ないやつ。現実世界で友達の彼氏だったら間違いなく反対してる。絶対職業と名前は偽ってきそうだし、なんだかんだでお金飛んでいきそうだし、なのに別れようと思った瞬間とんでもない弱さと涙見せつけられて別れられないどころかずぶずぶと沼にひきづり込まれそう。絶対最後には良いように使われ捨てられて片方の口角上げて鼻で笑いながら去っていきそう。そんな妄想が一瞬で脳内に形成されるほど危険な匂いがした。

けれども人間好奇心というものは恐怖心や理性に勝ってしまうものらしい。きっと彼の声に振り向き画面の向こうとこちらで目を合わせてしまった時点で私の敗北は決まっていたのだ。あの瞬間、きっと私は松村北斗という魅惑的な人間に毒されたのだと思う。
名は体を表すとはよく言ったもので私は松村北斗にSixTONESというとんでもない組織(今の流れでこの言い方は危ない)に導かれたのだ。
北斗くんのお母様…息子さん、お母様が願ったような人に育っていますよ(泣)

カオスな仲良し男子中学生軍団

きっとSixTONESを知ろうと思ったら割と序盤に辿り着くのがSixTONES公式YouTubeチャンネル、通称ストチューブ。その存在を知った時には軽くカルチャーショックを受けた。私の中でジャニーズ事務所はとんでもなく著作権関係に厳しい事務所という認識だった。ドラマの相関図もジャニーズだけイラストかシルエットが抜かれていたし、芸能人のSNSにも本人は写ることができないはずだったのだ。それが公式YouTubeをも許可する時代になっていたとは。時代の流れとはなんとも恐ろしいものである。

さて、私の記念すべきストチューブ1回目に選ばれたのは何を隠そう「優しい運動会」であった。今考えれば1発目にとんでもないカオスな大物引いたなぁと思う次第だが、当時の自分にはそんなこと知る由もない。歌(MV)とのギャップがありすぎるこの動画はとんでもなく私に刺さりまくった。それぞれの名前や性格、相性からコンビ名やコンビ仲もわからなかったのに純粋に楽しんでいる自分に正直驚いた(まだきょもほくの不仲を知らない私には騎馬ポンの頭ポンポンがなぜ3方向のアングルから撮られているのかよく分からなかった。今はもうその編集に拍手喝采土下座金一封案件である)。
優しかった運動会って言われただけで糸引きが出てくるセンスも、厨二病が滲み出てる感じも、謎の縄師も、騎馬の独特さも、丸ノ内OLを演じるのが絶妙にうまいのも、日本語があり得ないくらい下手なのも、何よりみんながとにかく楽しそうなのも、全部が全部面白かった。

と思ったのも束の間私はこの動画にたどり着いたきっかけをふと思い出した。そして記憶の中を探ってみる。あの明らかに危険そうな香りを漂わせていた人はどこにいただろうか、と。面白いという感情が先行してしまい、例の人探しを忘れてしまっていたのだ。そこでもう1度巻き戻して見ているうちにある可能性に気がつく。もしかしてこのとんでもなく丸ノ内OLのまねが上手い人がそうなのではないか。顔の系統や髪型こんな感じだったような。っていうか他に似てる人いなくない?なんて自分に問いかけるが、いやいや、と頭の中の私が笑った。あの人(危険な香りのする色気ダダ漏れ男)がこの人(勝敗はもうついていそうなのに最後にICでお支払いをするという細かい点まで考慮された丸ノ内OLの演技をする人)なわけがないであろう、と。そんな人がいたら地球のバランスがおかしくなって、きっと毎日この地球には槍でもなんでも降ってきているはずなのだ。

しかしながらそのとんでもない二面性をもった人間こそ正真正銘の松村北斗であった。それでも地球に槍が降ってきていないのは、松村北斗が国宝級イケメンなのにガチ丸ノ内OLというだけではなく、ジェシーがハーフイケメンスタイルオバケなのに質より量のゲラギャガー、森本慎太郎がジャングルで1人育ったかのような野生児なのに繊細な気遣い屋、京本大我が天使のようなお顔立ちの貴公子なのに厨二病、髙地優吾が最年長で日々笑顔なのにサイコパス縄師、田中樹が柏のヤンキーなのにその場に応じた言葉選びができるMC、この6人それぞれのとんでもない二面性がぶつかり合ってSixTONESというものにまとまったからだということに気がついたのはもう少し後のことだ。
つまりドラマで一緒になった6人が1度バラバラになり、ジェシーの一声でもう一度集まり、ジャニーさんに直談判をして結成されていなければこの星は光り輝くどころか至る所に槍が降る異常気象に見舞われていたことだろう。ジェシーはやっぱりヒーローなんだなぁ…

話は逸れたが妖麗な色気を放つマスカラMVからカオスな仲良し男子中学生集団へと導かれそのとんでもないギャップに、沼の周りにある手すりを強く握りながら爪先で沼の温度を確認していたつもりが全身を沼に落とされたうえに頭を無理やりぐりぐりと押さえつけられた私はもう這いつくばって出て行くことすらもできなくなっていたのだ。SixTONESの圧勝である。

自己紹介を忘れていたからと終盤にする時点でほぼ自己紹介みたいなもの

さて、ここまで長ったらしいのにこんなにもつまらない、なんていうある種の才能がなければ書けないと思われる文章をここまで読んでくださった方はどれくらいいるのだろうか。そもそもこのページを開く方自体が少ない中で、ページを興味本位で開いてくださった方の大多数がそっとページを閉じていることだろう。
私だったら前述で辞めている。アイドルの沼落ちブログと言っていながら「“アイドル”という存在が苦手だった」なんて書き出しで始める人間は絶対に面倒くさい。間違いない。そしてきっと今皆さまも文章から感じているであろうその面倒臭さは何を隠そうこの私の性格の表れである。
ここまでの文章に付き合ってくださった方がいたとすればきっと優しさの塊のような方(神)か、変人(仲間)の2択であろうと勝手に判断し、自分のことについて書くのは苦手なのだが少しだけ書いていこうと思う。読んでも本当に何も生み出されないため、読むことはあまりお勧めできません。

もともとオタク気質。好きになったものはとことん突き詰める。2次創作の中では過去に闇を抱えたようなキャラクターを好きになりがち。基本的に相対する存在の融合に気持ちを昂らせるので、アイドルが深夜ラジオをやる意義について語り始めたら寝られないと思ってほしい。また演じてほしい役柄、推しから発せられる音の中で最も好みのものなどを常に考えており、それらが全て記されたノートはその存在を知っているごく一部の人間から闇ノートと呼ばれている。私利私欲しか詰まっていない恐怖のノート。
趣味は読書、音楽鑑賞、ドラマ鑑賞、茶道など。どれにしても両親の影響を強く受けている。
本はジャンル問わず読むことが多いが、割と重めの内容を読んでいて引かれた経験も多々。幼い頃から文章を読むのも文章を書くのも好んでいた。ただ決められたテーマについて書くのはなぜか得意ではなく、課題図書が決められていた小学校の頃の読書感想文は本当に嫌だった。
音楽については先述した通り、父の影響を受けていることが多い。ただ父は最近の音楽をもってくる人だったのでドリカム、ミスチルは母の影響が大きい。とにかく幼少期からさまざまな楽曲に触れながら過ごしてきた記憶がある。最近父はボカロ的なものを好んで聞いているようだがもはや追いつけない。娘よりも父の方が流行に近いとはどういうことなのか、という疑問はとりあえず置いておく。
ドラマは医療系や事件ものに手を出すことが多い。創作物全てにおいてそうだが、細部まで気遣われた繊細で緩急のある作品に惹かれがち。
茶道は幼少期に習い事として始めたのがきっかけだが、今となっては趣味。繊細で奥深い世界で知っても知っても終わりのない世界に今でも魅了されている。そのため、京本さんのなごみ連載を知った時にはとんでもなく心躍った。いわゆる推しと推しの共演。今後もなごみ様で見たことがない京本さんを見られるのも、見たことがない茶道の世界を見られるのも楽しみである。
趣味を並べみたところでお気づきの方もいらっしゃるのではないだろうか。そう、私は極度のインドアである。休日は家から一歩も出ないこともザラ。そんなことを言うと「休みの日に遊びに出ないなんてもったいない!」なんて言われることも多々あるのだが、私にとっては平日外に出ていることを褒めて欲しいくらいなのだ。活動的な方には何卒ご理解いただきたい。

さて、今までの文章を全て読んでみるときっと推しは北斗くん、もしくは北斗くん寄りの箱推しと皆さま思っているのではないだろうか。改めさせていただきたい。私は某なんでも口に入れちゃうのにコーンは抜きの激可愛繊細気遣い屋野生児寄りの箱推しだ。そう、何を隠そう森本慎太郎寄りの箱推しなのである。正直に言おう。ここまでの文章の中に森本慎太郎のもの字も出てきていないのだ。いつか詐欺で訴えられそうな文章でしかない。まずは最推しについて書けよ、と言う声が自分の心の中から聞こえて来る。申し訳ない。ただ、強調しておくが私はあくまでも【箱推し】であり、SixTONESという概念そのものが好きなため、お許し頂きたい。

アイドルという存在に対して今、考えること

さてアイドルという存在が苦手だった私が、いつのまにかアイドルを推していたわけだがそこにはどんな変化があったのか。SixTONESという存在にビビッときたとか、なんか好きだった、とかそういう論理的に説明できない感覚的な問題は置いておいた時に思い当たるのは、職業として完璧を求められる彼らが実は一人ひとり完璧では無かったからではないかということだ。
世間はアイドルという存在にどんなときでも完璧を求めているものだと思っていた。それに答えるように完璧な姿を見せるものが、人間味のない存在が、アイドルだとも思っていた。事実、アイドルという言葉の語源は英語 idol に由来し、信仰の対象となる偶像・神像である。つまり元を辿ればアイドルというものは欠けたところがあってはならないわけだ。ただ、何の偏見もなくただ当たり前のように考えるとその人に関わる人が多ければ多いほどその人に向けられる希望が多いわけでその全員に対して完璧な人間など一人もいないということが推測できる。
ほんの最近、少しだけではあるがアイドルという職業を担う人々に近づいたことで、世間から求められる様々な形の【完璧】に迷い戸惑い、自分の中で考える完璧を提示したときにそれが通用しないことで苦悩する姿を目の当たりにした。そこでふと思ったのである。私はその人の存在=アイドルだと思っていた節があるが実はそうではなく、その人の職業=アイドルなのではないか、と。
はて、この理論を理解してくださる方はどれほどいるのだろうか。当たり前のようにテレビに映る存在の肩書きをその人の職業として結び付けられていた方はきっとこいつは何を言っているのだろうか、と頭にクエスチョンマークが浮かんでいることだろう。ただそんな当たり前の事実にも気づいていなかったのだ。何度でも言おう、無関心だったからだ。そんなことを考える時間などこの人生において1秒もなかったのである。
労働において完璧を求められるということはとんでもなく窮屈かつ苦痛に感じることもあるであろう。(それすらもある程度楽しいと考えられるようなポテンシャルをもった方々のみが生き残っていける世界なのかもしれないが。)その様々な方向から求められる完璧に対して、完璧を演じても演じきれないような姿を垣間見てしまったことで私の中のアイドルという概念がガラリと変わったのだと思う。(ヤンキーが捨てられていた子犬に傘をさしてあげたのを見てしまった感じ。)
そしてその完璧を完璧に演じるために彼ら一人一人にとって必要な仲間が揃ったのが SixTONESであったのだろう。誰一人として欠けてしまっては完璧を、アイドルを演じることはできない。その完璧という仮面の内側にあるたまに見える脆さや儚さ、危うさを詰め合わせたような存在がアイドルというものなのだろうと思う。

おわりに

一万字インタビューを読み終わった後の目の疲れを今でも鮮明に覚えている。今もし万が一何か気が狂ってここまで読み進めた方がいらっしゃるとすれば、一万字インタビューを読み終えた時のような目の疲れを感じているのではないかと思う。お気づきだろうか。このブログ、一万字を既に超えている。おかしいな。頭の整理を軽くするためだけが目的で、こんな予定ではなかったのだが。
ただもし万が一ここまで読んでくださった方がいらっしゃったとすれば、心の底から心を込めて言いたい。お疲れ様です。書いた本人が言うのもなんですが、きっと知らず知らずのうちに疲れとストレスが溜まっていると思うのでとりあえず今日は早く寝てください。
次の機会が存在するのであれば、鉄腕DASHのスタッフだと思っていた森本慎太郎さんが自担になるまでの道のりを鬼語りしたいと思います。


1日1日と一定速度で流れていく日常の中で着実に魅力を増していくSixTONESのメンバー一人一人にどうか今まで以上に多くの愛と幸せが降り注ぎますように。
これからもお世話になります。よろしくお願いしますね。


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