平凡な天才と、平凡な天才を演じた自担〜だが、情熱はある〜

『たりないふたり』というユニットも『南海キャンデーズ』の「山里亮太」という芸人も『オードリー』の「若林正恭」という芸人も知っていた。
その知識はお茶の間以下だという自覚もあるほどだが、そんな人間でも熱のあるファンを持っているふたりだということの認識はあった。




このドラマはとにかく泥臭い。
踠き、苦しみ、妬み、嫌われ…【今この人たちは人気と技術と仕事が比例している】という事実だけが心の支えになるほどに、このドラマは綺麗でない。
きっとご本人は知られたくないと思うようなことがたくさん描かれているのであろう。
そんな自分をエッセイにし、ドラマにすることを了承してくださったご本人。
そんな2人を演じた演者、この2人をドラマにしてくださった製作陣の方々に敬意を払うと共にこんなブログを書くからには自分が取り繕っていては失礼だと思い、このドラマに自担の出演が決まった時の正直な心情を吐露したい。


『たりないふたり』ドラマ化というニュースが私の中に飛び込んできたのは、夜電車に揺られている時であったと記憶している。
クセのある人物たちをどう描くのか、誰が生きるのか。
純粋にドラマが楽しみだった。スマホのメモ機能を使って毎期積み重ねている次期注目のドラマリストにすぐさま書き込んだし、オールナイトニッポンが好きな母親にもドラマ化決定を意気揚々と伝えた。

ただその反面、このユニットをドラマ化するということには若干の違和感を覚えていた。
人々の成功や功績、天賦の才を美談として華々しく扱い、そのもののみが正解であるという型にはまった世間に対してそれこそ拳を向けるユニットであるという認識であったから。
『たりないふたり』は本人たちに興味や理解のない不特定多数の目に晒されるのではなく、それをエンタメとして楽しめる一部のコミュニティに属している人たちのみで共有するのが醍醐味なのではないか。
そんな違和感が胸のほんの片隅にひっそりと生きていた。
しかしあくまでもファンがこう思っていたなんて確証はないし、むしろ全くもって違う考え方だったかもしれないということを特筆しておきたい。
まあ言ってしまえばただのお茶の間以下人間が思っていただけなわけで。

出演者のシルエットが公開された。果たして誰が演じるのか。
開いたコメント欄で、引用で所々に現れる自担の名前。
正直「頼むからやめてくれ」と思った。
自担の演技力の高さや入り込み方には本当に敬意を抱いているし、間違いなく好きな部分のひとつである。
作品に参加するたびに俳優として評価される自担を見て、地に足の裏をしっかりとつけながら強く踏み込んで自分の両手で自分の体を抱きしめ喜びを露わにできることは本当にありがたく恵まれていることだと思っているし、それを積み重ねさせてくれる自担の努力には頭が上がらない。
今まで自担が作品に関わることを知ればとにかく喜んだし、公式発表があればすぐにオタクらしい興奮と幸福の詰まった祝福応援ツイートをしたものだが、この時ばかりは「もしかしたら!」に心躍ることはなかった。

公式発表。
オタクの予想的中。
髙橋海斗くんと共にご本人に挨拶に行く様子が公開。
たちまちネットニュースとなり、ネットはそこそこ荒れた。
『自分たちの好きなたりふたをアイドルなんかが演じるな』というたりふたファンと『とりあえず自担の演技を見てほしい!』のオタク。
この構図は間違いなく想像できた未来だった。
自分達が好きなものを汚される感覚、とでも言おうか。はたまた自分が好きなものが変わってしまう危うさとも言えるのか。
その感覚を発言するかどうかは別として、理解はできる生き方をしてきた人間である。
ただどちらの意見もわかって辛かった。
自担が誰かの好きなものを汚す存在として扱われていることが本当にしんどくて、演者発表というドラマにとっての第0話で原作ファン的存在に圧倒的な拒絶をされてしまったこと、演技を見ずして判断が下されてしまったことにドラマや自担の俳優としての立場の先行きを案じ、それでいてたりないふたりファンの気持ちが痛いほどにわかって胸が巾着袋を閉めるように胸の糸を引かれた。

実在するかつご存命であり、ファンがいる人を演じるというのは本当に普通の作品とは訳が違う。
本人という教科書と、ファンから見たその人の正解と理想と解釈。
それが全てこの世に存在する中で、その人として生き、尚且つ“まね”にもならないようにするなんていうとんでもない技術が要される状況。
そしてきっとジャニーズアイドルを忌み嫌っている人が多いであろうファン層をもつ方を演じる、という自担にとっては圧倒的アウェイな環境。
たりふたファンの第一印象は最悪なスタートをきったであろうドラマだった。
そして公式発表から電波ジャックを経てもなお私の心に燻る恐怖心は、消えなかった。




芸人の半生を描く、というのは実に特殊である。
““芸人の人生を描く作品””が特殊なのではなく、““芸人の人生””が特殊なのだ。
所謂天才と言われる人物の歩んできた人生など、私のような凡人では一切の共感や胸の痛み、喜び、燻る気持ちなど共感できない部分が多い。
「パッとネタが浮かんで即興で人前で披露したら天才ってもてはやされてなんだかんだM-1優勝してました!」なんて芸人目指してなくても雲の上すぎて感情移入できないどころかいつのまにかフィクションとの境目見失いそうだし、「えっ?苦労ですか?うーん、何やっても天才って片付けられるところですかね?」なんて劇中で言われた日には私は間違いなくテレビのコンセントごと抜かせてもらう。
んな夢と希望に溢れたサクセスストーリーに目を潤ませながら、うんうんっ!と相槌うてる生ぬるい人生、こちとら歩いてねぇ。
何者かになりたいという不確定で曖昧な感情を燻らせて、夢を見つけてそれでも踏み出せなくて。
何回も何回も挑戦して嫉妬して、その度足りないところを研究して自分が持ち合わせる売れる公式に自分を当てはめて解を導き出して、その方程式の中に相手を無理やりはめて。
足りないところは相手にあるのだと自分の大きく逸れた解には目も向けず、相手の数字の書き方を否定する。
自分は絶対に正解だと答え合わせもせずに突き進んで、嫌われ、1人になり、自分を見つめ少しずつ正解に近づいてそれでもやっぱり違ってて。
自分と周りの差に落ち込み、どんどんと着実にすぎていく時の流れに焦らされ、大事な人から向けられる優しさに苛立ち、苛立つ自分が嫌いで。
世界からまるで自分だけ置いていかれるような感覚に陥って1人で勝手に焦って。
世界が色づき始めた頃、周りの大切な人をなくして。

立場としては全く私と異なるはずなのに、起こした行動も経験も目指すところも全然違うのに、それでも思い悩む通過点が同じすぎる
山里さんを「いやいやっ、性格悪すぎだろっ!」と笑い転がれるほど他人に胸はれる生き方してないし、若林さんに「いや、根暗かよっ!なんだよみんな死んじゃえってマジ草〜」みたいなギャルをかじった陽キャみたいな性格でもない。
もちろんおばあちゃんが分けてくれたエクレアを窓に投げつけたとこもないし、ライバルの悪い噂作って流したことだってないけれど。

その近くないのに近くて、特別なのに普通で、苦しいのに楽しいという平凡な人間の摂理に沿った生き方をする芸人のドラマが刺さらないはずがない。
そして、平凡な人間の摂理に沿った生き方をする人間が世間一般的な芸人としての成功を掴み取るなんて天才でないはずがない。
平凡の苦しみを知る天才はきっと彼らが思う天才とは違うのだろうけれど、それでも今この瞬間も明日のたりないふたりを生み出し続けるふたりを天才と言い表さずしてなんと言おうか。

そんな天才な人物たちの平凡を見ることができたことがただただ幸せで充実した1クールであった。



ひとりごと

SixTONESこっからのMVで『これだけじゃやれねぇってわかってる、でもこれしかねぇからこれにかかってる』と喉を触ったとき、山里さんになりきっていたというエピソードを聞いた。
慎太郎くんが山里さんになったことで喉(声)に触れながらこれしかねぇと言えるようになったところを見て、山里亮太を演じた森本慎太郎は確実に進化しているし(ポケモン?)、あぁこっから新しい森本慎太郎がはじまるんだと嬉しくなった。
《きっと多くの人にとって役に立たない》と前置きをされて毎話始まるこのドラマが多くの人を魅了する様子をこの目でリアルタイムで見られたことが本当に幸せであり、最初の苦しみなんてなかったかのように今では自担がこの作品に携わってくれてよかったと心の底から思う。

多くの声や感情や嘘か誠かもわからない情報に揉まれる日々であるがそれでも自担は健やかで、推したちは楽しそうに笑っていてくれている。
きっと彼らが苦しい時に私は彼らを見て「楽しそう!」って言っているのだろうし、その苦しみはきっちりと終わった時にしか共有されないこともわかっている。
だからこそ、彼らがくれる幸せを素直にそのまま抱きしめたいし静かに目を閉じる部分の境界線は自分の中ではっきりとさせておきたい。
このよくわからない世の中で彼らにとって温かく包んでくれる場所が1つでも多ければそれでいい。
そんな単純なオタクである。


2023.07.10      えぽ

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