血の呻き 下篇(1)
三九
昼前に汽車はB市に着いた。
明三は、故郷へ還された流刑者のような気で汽車を出た。
うら悲しい曇り日の空の下に、街は佗しく沈んでいた。彼はその街々を懐かしげに見ながら歩いた。街路樹のポプラの葉は落ち尽して、ひょろ長いその木立は、梢を風に吹かれながら、寂しく立っていた。家々は、疲れ果てた人のように、路傍に踞まって黙然としていた。
彼は、自分でもよく解らないようなことに思い悩みながら遂にS町の宿へ帰って来た。明三は、然し、その扉の所で、立止ってしまった。老婆の室の入口に、踞まって何かしていた老医師が、ふと顔をあげて、そこへ来た彼を見て、何か死霊でも見るようにわなわなと慄えたのだった。
「帰って来ました」
明三は、低い声で言って彼に手をさしのべた。
「そうですか……」
医師は、然し恐ろしい蹙面をして、物も言わないで彼に顔を反けて、戸外へ出てしまった。明三は、泣き出しそうな顔をして、その人を見送った。
「やあ、先生! 来ましたね……」
誰か、突然彼の背後から肩に手をあてて言った。明三は、振りかえった。そこには、古洋服を来て、短く刈り込んだ腮髯を立てて、全然別な格好をした磨師が立っていた。
「やあ……」
明三は、彼に一つ頭をさげた。
「さあ、あっちへ……。娘さんの所へ……。あの人は、どんなに待っていることか……」
磨師は、彼の顔をじっと見て、微笑してそこを離れた。明三の声を聞きつけて、菊子が出て来た。少女は、彼の胸に飛びついた。
「兄さん……」
明三は、黙って少女の手を握りしめて、雪子の室へは入って行った。雪子は、その時眠っていた。彼は、彼女の肩に手を捲いて抱き起し、その額に接吻した。
雪子は、眼を覚して、慴えたように自分を抱いている人間を見たが、急に微かな叫声を立てて、ぶるぶると慄え、狂気のように彼の唇を吸いつづけ、その首に手を捲いて強く締めた。そして、声をあげて泣き出した。
明三は、幾度も幾度もその髪に接吻して慄える指で頭を撫でた。
「兄さん……」
菊子も、彼の肩に摑まって、顔をおしあてて、泣いた。
「どんなに、どんなに待ったことか……」
そして少女は、嗚咽に吃りながら言い出した。
「姉さんは……」
明三は、哀しげにそれを遮って言った。
「宥してね。雪さん。……菊ちゃんも……」
「あら、そんな……」
少女は、彼の肩を揺り動かした。雪子は、まるで熱の発作でも起ったように慄えながら、彼の腕の中で啜り泣いていた。
明三は、そっと彼女を寝床の上に横たえた。雪子は涙の底から凝然と彼を見つめながら、慄える声で言い出した。
「ああ、私……。でも、よく来て下すってね……。真実、真実だわね。今度は……。真実に、私に、帰って、来て下すったのね……」
「真実、真実ですよ……」
明三は、きれぎれに、低い声で答えた。
「ああだけど……私、……死ぬ、のよ……」
彼女はまた、急に悲しげな顫え声で呟いた。
「…………」
「死に度くない。死に度く、ないけど……」
「明三は、耐えがたい恐怖に襲われたように、唇を慄わして彼女を見た。雪子は、苦しげな息を吐いて瞼を閉った。その睫毛の中から溢れるように、涙が流れ出た。暫らくしてから彼女は、軀を踠くようにして、悶える声で呟いた。
「ああ、どうしよう」
そして、耐えられないように眼を瞠いて、さめざめと泣き出した。
「どうしたの、雪さん……。苦しい……?」
明三は、自分が物言うことを恐れてでもいるように、恐悸と言った。
「私、私……死ぬのよ……。唯一人で……」
彼女は、咽び泣きながら、執拗にその語をくりかえして、彼の手に縋った。
「また、そんな……。姉さんは、気が狂ってるんだわ……」
少女は、叱るように言って、顔を反けて、声を呑んで泣き出した。
「起して、頂戴……」
雪子は、暗い坑の底から救いを求めるように、彼に手をさし延べた。
「ね、起して……」
そして、彼の膝に摑まって、頭を擡げた。明三は、恐ろしい怪異な生物をでも見るように彼女を凝視めていたが、遂に抱き起して、自分の胸で、彼女の頭を支えた。
雪子は、頽れるように、彼の胸にその軀を委ねた。そして恐ろしい坑の縁に摑まってでもいる人のように慄えながら、明三の眼に見入った。
「ああ、私、どんなにか、あなたの胸を待っていた事だろう。でも、熱っている胸だ、こと……。息苦しいようだ……」
「…………」
彼は、黙って、自分の胸の中に彼女の頭をあてて、その肩を抱いて、悲しげな顔をしていた。
「そして、何か、何か話して下さいな……」
明三は、然し、すっかり自分の言うべき事を忘れてしまいでもしたように黙り込んでいた。
「地獄の話をでも……。ね。貴所のいて来た……」
「…………」
「お父さんは、どうして来ないんだろう。……私呼んで来よう……」
菊子は、独語のように言って、そこを出て行った。
「あの、医師はね、私に憑いて殺すのよ」
少女が出て行くと雪子は、急に悩ましげな顔をして、ひそひそと言い出した。
「あの人は、毒を盛って、私を虐めて、些しずつ迫め殺してるのよ」
「そんな、……。あの人は、どんなに雪さんを助け度いと骨折ってる事だか……」
明三は、何か深い憂いに沈みながら力ない声で言った。
「いいえ、然うじゃないの。それあもう、恐ろしい人よ。私の生命を蝕う……」
青ざめた顔をして、医師がは入って来た。彼は、宛然泣いてでもいたような、汚れた悲しげな顔をしていた。そして、ちらと彼等を見て身を翻して立去ろうとしたが、またわなわな慄えながら、明三の側へ歩いて来た。
「一寸、酒場まで……。私と……」
彼は、喘ぐように言った。
「酒場……。何故です」
「私とでは、飲まれませんか」
「そんな……、だって貴方は遂ぞ、一度もそんな事を言いはしなかったのに……」
「ハ、ハ、ハ、……叱らないで、下さい」
医師は、彼等の視線から顔を反けて、空虚な声で笑った。
「行きましょう……」
明三は、立上ろうとした。
「何所へ、行くの……」
「酒場へ」
雪子は、慴えたように訊ねた。
「もう、私の所から、去くの」
明三は、医師に眼で訴えた。然し、老医師は、暗い壁の方を向いて、何か独言していた。
「私は、すぐ帰って来るよ」
「いいえ。貴方は、行って了うのよ。きっと……」
「いいや。然うじゃない」
「然うだわ。じゃあ、私も連れてって。私もお酒が飲み度い」
「然う、じゃあ行こう。ね、一緒に……」
雪子は、声をあげて泣き出した。
「貴方は、私が起てない事を知ってるものだから、そんな、事を言うのよ。そんな……」
「じゃあ、止めるよ。私は……」
明三は、困惑して吃りながら言った。
「行ってもいいわ。行っても……」
雪子は、腹を立てて嗚咽いていたが、然し急に沈んだ寂しい笑を顔に泛べて言った。
「行ってらっしゃいな。でも、早く来てね……。私も、暫く、一人で、静かに貴方の事を考えたいの。私、息が苦しくて、死にそうなんだわ」
明三は、彼女の瞼に接吻してから立上った。老医師は、彼女の顔を見まいとでもしているように遂ぞ一度もそっちへ視線を向けないで、そのまま戸外へ出た。