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第14節

 紅葉の名を挙げたのが、明治二十四年、それから全盛時代が明治二十八年、二十九年から三十年になると、社会の状態と共に文壇も一変して、いわゆる『新しい時代』が次第に頭を抬げ出して来ていた。
 この間に、世界的になるについて非常に有効であった日清戦役があった。その戦争は、最後に三国干渉などがあって、何方かと言えば、結果は思わしくなかったような形もないではなかったけれども、とにかく、それを境界線にして、いろいろな草がそこここに芽を吹き出した。もはや日本は以前のようにいつまでも島国的ではいられなかった。もっと深く外国の文化の精神に触れなければならなかった。本当の覚醒が必要になった。
 紅葉が、否、かればかりではない、露伴も、緑雨も、鷗外も、そのあとに新しい時代が静かに巴渦を巻きつつあるのに気のつき始めたのは、尠くとも明治二十九年頃であったであろう。かれ等は次第に暗々裏にその新しい時代の圧迫を感じ出して来た。
「新しい作家がでてきたね。しかし、その重立ったものは、家のものか、家に始終出入りするものだからね」
 かれはある日こんなことを私に言った。
「早稲田の方からも出やしませんか?」
「いや、早稲田は、作家が出るには、ちょっとあい間がある。あそこは作家気分ではないからな。文学を学ぶにはいいところだけども、作者になるには、ちょっと具合がわるい……。現に、坪内君もそう言っていた。君の方は、筆の立つものがいて羨しいって………」
「宙外が書くでしょう?」
「後藤はまア、いくらか書くには書くが、何うもまだ磨きができていないからな」
 紅葉の腹では、何と言っても、自分の弟子の泉鏡花や小栗風葉や柳川春葉の方が、それは本式の学問ではないが、筆の方ではすぐれていると思っていたのであった。
 新進作家という名目ができて、鏡花や一葉が躍然としてその頭を抬げたのは、たしか二十九年の春の国民之友付録あたりからだと思うが、それとほとんど時を同うして、千駄木から、例の『めざまし草』が生れ出した。
 尠くともこの『めざまし草」は、大家達の新しい時代に対する防御運動であったに相違なかった。
「そうかね? あれがそういう運動かね? 成ほどそう取れば取れないこともないね?」
 K氏は言った。
「少くとも──その当時には、意識していたかいないか、それははっきりわからないけれども、とにかく、それに近い一種の圧迫を感じて、そしてあの雑誌を出すことになったんだね?」
「そう言えば、成ほど『めざまし草』は、馬鹿に新進作家を目の敵にしていた形はあるにはあるね?」
「あるどころじゃないよ。あの『三人冗語』とか『雲中語』とかいうものは、皆な新進作家じゃないか?」
「そうだね?」
 いろいろなことが私には思い出されて来た。樗牛、桂月(※大町)などの新運動も、千駄木派に取っては、恐ろしい新しい芽であらねばならないのであった。
 私は言った。
「でも、不思議なもんだわ。ある時代はある時代と通じないようなところがあるんだね。新しい時代は新しい時代でなければいけないんだね。前の時代の作家や批評家では通用しないというようなわけだね?」
「そこが面白いね。それがあるんで、新時代っていうことも成り立って行くんだね。そうでなくっては──いつまでも前の時代がつづいて行っているんでは、あとの時代のものがたまらんからね。うだつがあがらないからね?」
「本当だよ………。それに、前の時代とあとの時代とでは、丸つきり通じ合わないようなところがあるね。あれはわざとああしているのか何うか知れないけれども、新時代の作者や批評家は、決して前の時代の大家を眼中に置かないからね?」
「不思議なもんさな」
 Kはさもさも深く感じたようにして言った。
「やはり、暗々裏に、利害の観念が働いていて、自分たちの時代は自分達で同盟しなければならない。同盟して、一刻も早く自分達の時代にしなければならない。こういう風に思っているんだね………? そしてかれこれ言って、自分達の時代にする。もうすっかり自分達の時代だ………。こう思ってほっと呼吸をついていると、もうあとから自分等に取って代るべき新しい時代がそれそろ首を出しかけているんだからね。何うも為方がないね? 何しろ、『めざまし草』だって、新しい時代は何うすることもできなかったんだからな?」
「あのあとは、何んな風になって、おしまいになったっけね?」
 Kは尋いた。
「何んなって、何でもないさ………。連中がいくらやっても効がないので、しまいには倦きてやめて了ったアね。つまり、新時代には、何うしたって対抗できないことを、あの雑誌が裏書したようなもんだよ」
「そうかね」
 Kは手を拱くようにした。
 それにしても、あの『めざまし草』の合評というものは見事なものであった。今日あれを見ても、よくあれまでやったものだと思われた。苟くも新進作家という作家はすべてやられた。何んなものでもやられた。褒め立てられたのは、樋口一葉ひとりぐらいなものだった。中でも私などは、最も多くその槍玉に挙げられたものであった。今でもその時代のことを知っている人達は、「しかし、君はよく忍耐しましたね。大抵なら、怒って、筆なんか焼いて了ったでしょうね!」こんなことを私に言うものもないではなかった。
 樗牛は明治二十八年頃からとしてその頭角を抬げ出した。たしかにかれは天才であった。立派な筆を持っていた。かれは大胆にあらゆるものに向って批評を試みた。最初は文壇の事情に通じていなかったために、大分わきに外れたようなことを言って笑われたが、次第にそうした弱点は除れて行って、後には、誰も抵抗できないものとした鷗外にさえ向って行った。ハルトマンの美学をも攻撃した。早稲田の坪内氏とも、歴史について争った。
 かれも新しい芽の一つであったに相違ないが、二葉亭や透谷のように、深く精神の奥にまで入って行ったものではなかった。ロシアやフランスの芸術観とはかなりに遠い距離を持っていた。何方かといえば、通俗にわずかに一歩を進めたほどのものであった。
 しかし、そういう程度のものの方がかえって弁難攻撃には便利であった。かれは『太陽』を舞台にして、いろいろなものに食ってかかった。ことに、紅葉に向っての非難は、かなりに手厳しいものであったのであった。
 それというのも、いろいろなことがあったらしかった。紅葉の家に樗牛が出かけて行ったら居留守を使って逢わなかったとか、何処かで逢ったらえらく侮辱されたとか何とかいう噂があったが、そればかりでなしに、紅葉はあちこちから攻撃されるような形になっていた。『国民之友』の批評家八面楼主人(※宮崎湖処子の別名義)なども毎号のようにかれのわる口を言った。
「もう紅葉でもあるまい」こういうものもあれば、「紅葉はもう想が枯れた。材料がなくなった。その証拠には、この頃書くものは、皆な外国の通俗小説から翻案して来たものばかりじゃないか」こんなことを言うものもあった。大家が当然受けなければならない攻撃の矢は、今やかれの身の周囲に蝟毛(※ハリネズミの毛)のように集まって来たのであった。
 実際、今日から考えて見れば、それも無理はないのであった。紅葉の作品──それもかなりにあるが、それは多くはその努力が第二義的のものにのみ集中されているのを私達も見遁すことはできなかった。かれの小説は、文章の巧いのと、筋の巧みなのと、人情的なのと、場当りの多いのと、色彩の濃かなのとで、多くの人に愛読されたけれども、もっと骨を折らなければならないところ、即ち深い真理とか、魂の動揺するようなところとか、そういう本当の第一義的のところには、決して指を染めなかったのである。否、その深く入って行かずに、低級に人情的に留っていたところにかれの評判はあったと言ってもいいくらいであったのである。
 しかしかれはそこに気がついていないのではなかった。また次第に時代の移りつつあるのにも心を痛めていないのではなかった。で、かれはもう一度、いちかばちかの運試めしをやらうと思った。かれは全力を挙げて『多情多恨』を書いた。