見出し画像

第39節

 島崎君は『春』を書き、『家』を書き、『壁』を書き、『苦しき人々』を書いた。その他にもすぐれた短篇を二三発表した。
 正宗白鳥氏はこの時代においては、すでに立派な新しい時代の作家であった。『紅塵』『二階の窓』あたりで世に認められて来たかれは、『二家族』を書き、『何処へ』を書き、『落日』を書いた。尠くともかれは新しい時代の作家、旧派に何の縁故も関係も持っていない作家という意味で、当時の文壇に重きを為した。
 かれの話では、かれは旧派の作品に接しないことはなかったのであるけれども、しかもどれもこれも際立ってかれの心を惹いたものはなかったということであった。紅葉も天外にも柳浪にもそう感心しなかったということであった。かれはその時代において唯一つ感心したものがあったが、それはその当時の日本の作ではなくて、ロシアのレルモントフの『現代の英雄』、しかもそれを鷗外きみ子(※鷗外の妹=小金井喜美子)の共訳した『浴泉記』であったということであった。そしてそれに比べて日本の小説のいかにつまらないかを考えさせられたということであった。かれはそれから国木田の『独歩集』に行った。そしてそこで多少の共鳴を感じた。こういうのが小説なら、俺にも書けないことはないと思った。しかしかれは早稲田を出てから三年近くも新聞記者の中にかくれて日を送った。安翻訳などをもやった。劇評家となっていることもあった。かれが『旧友』という最初の作を『新小説』に発表したのは、抱月氏が海外から帰って来る前後のことであったように私は記憶している。
 従ってかれの作には、旧派の面影は少しもなかった。文字のつかい方や、字句の並べ方などにも全く新しい時代の形式があった。そういう意味だけでも、かれは新らしい文芸のチャンピオンたるに値ひした。
 岩野泡鳴氏もその頃しきりに小説を書き出した。かれも新しい作家として世に生れ更ろうとしたひとりである。幸いなことには、かれは詩人としてはかなりに旧い人であったにかかわらず、小説作者としては、天外や風葉のようにわるく旧派に染みていなかった。それに、まだ世間に出ていなかったということが、非常にかれに有益な結果を持ち来らせることとなった。かれもまた新しい時代の作家として立って行くことができた。
 しかし、かれの作は評判が好くはなかった。あちこちの雑誌に出るには出ても、大して人の目を惹かなかった。「岩野の小説は、ちょっと困るな!」こう誰も彼も言った。
 しかしかれは負けていなかった。益々(ますます)新しい時代の人らしい奮闘をつづけて行った。「僕の小説は拙いとかいう技巧上のことではないんだよ。もっと先だよ。もっと先のところまで行っているんだよ。それがわからないんだから困る!」成るほどかれの作には、新しい作家に比して、著しく深く掘ったようなところのあるのは争われない事実であった。また人生の醜悪な点、暗黒な点、そういう方面に向っても、他のあらゆる作家より思い切った描写をしていることも争われない事実であった。従って、読者の頭に素直に入って行かずに──すぐ反発されて了うのも、そういう極端な、醜悪といえば醜悪な描写が多いからであるとも言えないことはなかった。
 かれは『耽溺』を『新小説』で発表した。これは今日でもすぐれた作であるということができた。いかにもその時代の新しさに相応しい作であった。秋声氏なども推称の言葉を惜しまなかった。
 この作の出る半年ほど前に、風葉の作に同じ名の作があったが、それを比較して見ると、新しい旧いという区別がよくわかった。新しい文芸がその出て来る新しい使命を必然に持っていたという事がよくわかった。泡鳴の『耽溺』には少しも遊戯気分がなかったのに比して、風葉のには、わるく気取ったようなところだの、キザなようなところだの、わるく人に見せつけるようなところだのがあった。一目して何方が本当で何方が鍍であるかということがわかった。
 その時代のモツトウとしては、つとめて真面目であるという事は必要であった。泣きたくとも歯をくいしばって泣かずにいるというような心持、何んな苦しみにも悩みにも堪えて行こうというような心持、感情に捉われまいという心持、何んな巴渦の中に入っても、たとえば火と水の中に入っても決してそれに溺れまいという心持、歓楽を歓楽として見ずに、ただ、真面目に本当に見やうという心持──そういう心持がその時代の作者の胸に著しく際立って渦を巻いていた。それにしてもそういう心持は何処から来たかというのに、それは主としてヨオロツパの新思潮から来たのであった。ニイチエから、トルストイから、ゾラから、モウパツサンから、ドストイエフスキイから、チエホフから、ストリンドベルヒから、イプセンから、マツクス・スチルネルから、アルノオ・ホルツから、ゲルハルト・ハウプトマンから………。
 白鳥氏のものは、同じ主観にしても、ぐっと態度がその材から離れて来ていた。その結果としては皮肉には皮肉だけれども──またその皮肉にもいかにもその時代の皮肉らしさがあったけれども、岩野のものに比べては、真面目らしさが、本当らしさがよほど変った形になってあらわれているのを私は見た。皮肉な笑い、またはじろじろと傍観したような無気味さは泡鳴の作中にはその面影すら認めることはできなかった。
 白鳥氏が聡明な傍観者らしく、泡鳴氏が愚かなエゴイストらしく見えるのは、そういう態度から来ているのではないだらうか。
 とにかく、そういうことは措いて、岩野はその頃非常な苦境に身を置いていたことは事実であった。かれは家庭でも戦い、世間でも戦い、文壇でも戦った。ことに樺太に出かけて行くあたり、樺太から北海道に来て何うにもこうにもできなくなって行ったあたり、あの時分のことは、『放浪』『発展』あの二つの作に詳しく書いてあるが、あの二つの作は芸術としてはそう重きを置くことはできないものであるけれども、しかし新しい時代の人として、いかに勇ましく、またいかに無節制に、無技巧に、時には愚と思われるまでに大胆に世に処したかということが仔細にそれと指さされて見えるのは、面白い事実として特記しなければならないものであった。
『悲痛の哲理』という一文は、多いかれの論文の中でも、ことに立派な、注意すべきものの一つであるが、それはかれが北海道から飄零落魄して帰って来た時に「ただ、それ一つだけを持って」来たものであった。私はその時新しい勇しいドンキホテを初めてそこに見たような心持がした。
 白鳥、泡鳴二氏の向うに秋声氏がいた。かれも真面目に短篇を書いた。暗い、ジミな、陰気なものが多かったけれども、それがかえって当時の気分に合ったらしく、その評判も決してわるい方ではなかった。
 そういう作者達に対して、私自身はその古さを、その甘さを、またはその感情に捉われすぎているのを深く恥じずにはいられなかった。私は心では、感情では、知識では、その新しい時代を十分に知ってはいたけれども──何うかして時分もそういう風に出て行かなければならないと思っていたけれども、しかも容易にそういう境に出て行くことができなかった。私の性情がいつも私の出て行くのを遮った。今日になって考えて見たところでは、『生』を書いて了った後でも、まだ本当に私は文体ということをつかんでいなかった。
 それに、何方かと言えば、日本はまだロシアやフランスの持ったような実際の人間を沢山に持っていなかった。古い古い時代がまた到るところにその力を振っていた。官僚も威張っていたし、師弟などという関係も喧しかったし、旧道徳で事物を判断して行くような傾向も衰えなかったし、何処を見わたしても、平凡な旧式な人間ばかりで、新しい感じのする人達などは何処にも見出すことができなかった。『生』を書いたために、私は一面では、許すべからざる忘恩漢か何ぞのように言われた。